第3話 深夜のコンビニアイス
十二月上旬の雪津駅は、夕方になると白い息が改札の音に混じる。改札横の「はなとげ弁当」では、売り場の裏に小さなホワイトボードが立てかけられていた。春花が太いマーカーで「残り八十八日」と書き、数字の下に小さく丸を三つ並べる。
「今日、止まった足はね、三回。三回とも、札の字を読んでから首をかしげた。だから、明日は首をかしげる前に、匂いを先にぶつける」
春花は店主に向けて、蒸し器のふたを指さした。店主はふたを少しだけ開け、湯気を逃がさないようにすぐ閉める。湯気が細く漏れて、紙袋に当たってしっとりする。
奏輔は手帳を開き、駅ビル側の規定を思い出しながら、言い回しを探した。
「……皆さんで、決め――」
言いかけたところで、春花がペン先をトントンとホワイトボードに当てた。
「今ここにいる三人で決める。明日の朝、貼る札の言葉。主語は誰?」
奏輔の喉が小さく鳴った。改札の向こうで、列車の到着案内が流れる。彼は一度だけ、手帳のページを押さえてから言った。
「僕が、駅の許可を取ります。札は……僕が書きます」
店主が、蒸し器の横で固まっていた手をほどくように、ゆっくりうなずいた。
その場で、春花は紙を一枚引っぱり出し、セロテープで壁に貼った。奏輔にマーカーを渡し、無言で顎をしゃくる。
「札の言葉。いま書く。書き損じたら、裏返して続き」
奏輔はマーカーのキャップを外したまま、手首だけが固まった。黒い先端が紙に近づいては離れる。春花は腕時計を見て、あえて秒針の音が聞こえないふりをした。
「……駅構内の掲示、感嘆符は――」
「感嘆符がだめなら、句点を増やす。『駅弁といえばコレ。今日だけ、あつあつ。』みたいに」
奏輔は小さく息を吐き、ようやく一文字目を書いた。線がふるえて、字の端がかすれる。春花は笑わずに、代わりに自分の指先で、紙の角を押さえた。紙が動かないだけで、字が少しだけ真っすぐになる。
そこへ駅長の楓雅が、売り場の裏を覗き込んだ。改札の向こうが混んでいるのに、彼は先に「お疲れさま」と言ってから、三人分の缶コーヒーをテーブルに置いた。
「声は大きくなくていい。小さい声でも、続くと耳が伸びる。札は、湯気の横。目線の下だ。人は下を見ると、歩く速度が落ちる」
楓雅はそう言って、春花のホワイトボードをくるりと回し、数字が改札側から読める角度にした。奏輔は「ありがとうございます」と言いかけ、言葉を噛んだまま頭を下げた。楓雅はそれを受け流し、最後に奏輔の手のマーカーを軽く叩いた。
「書いたなら、貼れ。貼ったなら、守れ。明日の朝、改札前で会おう」
その夜、春花は駅前の市立図書館へ回った。閉館ぎりぎりのカウンターで、司書の美夕妃が貸出カードを受け取る。春花が「二十年前の地方紙、ありますか」と言うと、美夕妃は無言で奥へ消え、書庫から一束の縮れた紙面を抱えて戻った。
紙には、写真が一枚。雪津駅のホームで、赤い梅の乗った弁当が掲げられている。見出しは太く、読むだけで口が動きそうだった。
「ここ、破れてますね」
春花が欠けた段落を指でなぞると、美夕妃はメモ帳を開き、鉛筆を置いた。
「欠けたところは、誰かの言葉で埋まります。コピー、取れますか。深夜なら、駅前のコンビニが静かです」
春花は紙を丁寧に挟み、何度も礼を言って外へ出た。外気が頬を刺し、図書館の灯りが背中で小さくなった。
同じころ、奏輔は駅ビル事務所で資料の山に埋もれていた。売上の数字、閉店告知の手順、クレームの記録。どれも他人の名前で書かれた紙ばかりだ。彼は自分の名前を書く欄だけを空白のまま残し、ペンを指の腹で転がした。
終電の時刻が近づき、ようやく席を立つ。駅前のコンビニの自動ドアが開くと、甘い香りと暖房の熱が一気に顔を包んだ。棚の前で迷っていると、冷凍ケースのガラスに「深夜のごほうび」と書かれた小さな札が見えた。
「……寒いのに」
口に出しながら、なぜか手がアイスのカップを取っていた。ミルク味。スプーンは二本、レジ横に置かれている。
コピー機の前で、春花が紙を押さえていた。ガラスに映る帽子の影が揺れ、奏輔と目が合う。
「来た」
春花はそれだけ言って、コピーの排出口から出てきた紙を束ねた。奏輔はアイスのカップを持ち上げる。
「……これ、買いました。深夜の……ごほうび、らしいです」
春花は束を抱えたまま、口角だけ動かした。
「今日の一歩を、明日の言い訳にしない。だから、ごほうびは今日のうちに食べる」
理屈の形をした言い切りで、二人は同時に笑ってしまった。
コンビニの駐車場の隅は、街灯の光が雪に反射してやけに明るい。車の屋根に薄い白が積もり、指で払うと粉砂糖みたいに散った。
アイスのふたを開けた瞬間、冷気が指の間から抜ける。奏輔は慌ててスプーンを刺し、春花は「凍ってる」と言ってから、わざとゆっくり混ぜた。
「ほら。これ」
春花がコピーを一枚差し出す。見出しは大きく、「駅弁といえばコレ!」。写真の弁当は今の「はなとげ弁当」と少し違う。赤い梅が真ん中に乗っているのは同じなのに、周りの彩りが派手だ。
「ここが、欠けてます」
春花が破れた段落を指さすと、奏輔はアイスを口に入れたまま眉を寄せた。冷たさで変な顔になり、春花が笑ってスプーンを振る。
「笑うところじゃない」
奏輔は言いながら、もう一口食べた。寒いのに甘い。息を吐くと白くなり、その白に街灯が吸い込まれていく。
背後で、コンビニの裏口が開く音がした。レジ奥から出てきた男が、段ボールを抱えたままこちらを見た。義童だ。制服の名札が少し傾いている。
春花が紙を掲げると、義童は段ボールを脇に置き、指をそろえて軽く敬礼した。
「記憶にございません」
言い切ったあと、義童は自分でも可笑しかったのか、口元だけ緩めた。奏輔と春花は、同時に吹き出しそうになって、同時に咳き込んだ。冷たいアイスが喉に刺さる。
「……でも」
義童はコピーの写真を覗き込み、赤い梅の位置を指で確かめた。指が無意識に、弁当の端から端へ、まるで包丁で切るみたいにまっすぐ動く。
「梅は、真ん中に置く。端に寄せると、ふたを開けたとき最初に手が伸びる。先に食べられると、味の順番が崩れる」
春花が目を丸くして頷く。奏輔はスプーンを止めた。義童の指が一瞬だけ止まり、名札のあたりを押さえる。
「……名前を聞かれても、答えられません。けど、手は覚えてる。そういうの、あります」
春花は「あります」とだけ返し、紙の欠けた段落の空白に、ペンで小さく丸を付けた。空白に、まずは印を残す。
奏輔はコピーを折りたたみ、胸ポケットに入れた。
「じゃあ、聞き方を変えます。これ、明日、蒸し器で温めて売りたい。崩れない包み方、ありますか」
義童は少しだけ顎を引き、駐車場の雪を見た。
「笹の葉。乾かしすぎると割れる。湿らせて、湯気で戻す。紙は二重。端は折る。折り目は、指の腹で押す」
言いながら、義童の手が宙で折り目を作る。奏輔は自分の指を見て、同じ形を真似た。うまくいかず、角が潰れる。
春花が笑いをこらえながら、奏輔の手の上に自分の手を重ねた。
「押すのは指の腹。爪じゃない」
奏輔の耳が赤くなったのは、寒さのせいだと自分に言い聞かせる。
カップの底が見えたころ、雪は少しだけ強くなった。三人は空の容器をまとめ、コンビニのゴミ箱へ向かう。春花は最後にもう一度、駅のホームの方角を見た。
街灯の輪の外で、雪が静かに降っている。音の薄い夜に、改札の「ピッ」という電子音だけが遠くで小さく鳴った。
奏輔は胸ポケットのコピーの感触を確かめる。欠けた段落は、まだ欠けたままだ。けれど、空白に印は付いた。
「明日、笹の葉、探します」
奏輔が言うと、春花は頷いて、ホワイトボードに書いた数字を思い出すみたいに目を細めた。
「明日の朝、湯気を先にぶつける。足が止まったら、名前をちゃんと呼ぶ。『はなとげ弁当』って」
義童はまた軽く敬礼し、今度は言った。
「その件は……覚えておきます」
笑いながら言ったその言葉が、なぜか胸に残った。
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駅弁といえばコレ! 雪のホームで深夜アイス mynameis愛 @mynameisai
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