第2話 「駅弁といえばコレ!」の声が出ない

 翌朝。雪津駅の改札前は、まだ吐く息が白い。

 春花はコートの襟を立てたまま、改札の横に立って人の流れを数えた。右手の手帳には、七時台は通勤の人、九時台は病院へ向かう人、十一時台は買い物袋の人、と短い言葉が並ぶ。数字の横に、丸や矢印。鉛筆が止まらない。

 「午前十一時から、列が一段増えますね。ここで弁当を見せれば、足が止まる気がします」

 春花が顔を上げると、奏輔は名札に雪が付かないように手のひらで払っていた。昨日の説明の続きをするつもりだったらしく、口を開きかけて、閉じる。

 「……駅で声出しは、難しいですよ」

 いつものように、誰かの判断に預ける言い方だった。春花は頷きながらも、手帳を閉じない。

 「難しいなら、難しいなりの声を探しましょう。小さくても、聞こえるならいいです」


 改札横の「はなとげ弁当」の売り場では、店主が湯気の立つ蒸し器を整えていた。透明なフタの内側に水滴がつき、梅干しの赤がぼんやり揺れて見える。

 春花は売り場の札を指さした。

 「『駅弁といえばコレ!』って、書いてありますよね。これ、言ってみませんか」

 店主は手を止め、困ったように笑って首を振った。奏輔も「規定が……」と言いかけて、語尾を飲む。誰かに聞いてから、と言い直す癖が出たのだと春花は察した。


 そのとき、改札の向こうから楓雅が来た。手袋を外してスマホをしまい、春花の手帳をちらりと見て、ふっと息を吐く。

 「誰もやらないから、やってないだけだ」

 楓雅はそれだけ言って、駅員室の前の掲示板を指さした。そこには「注意 構内での呼び込みは周囲の迷惑にならないように」と、小さな文字で書かれている。

 「大声で怒鳴れ、って書いてない。迷惑にしないなら、やれる」


 奏輔は一度、駅ビルの事務室に戻った。春花もついていく。暖房の効いた小部屋に入ると、二人の眼鏡の端が一斉に曇った。

 「許可の紙……あります?」

 春花が聞くと、奏輔は棚の前で立ち尽くす。ファイルの背表紙が、同じ色で並んでいる。どれも「販売」「掲示」「臨時」と書いてあるのに、欲しい一冊だけ見つからない。

 「たぶん、これ……いや、こっち……」

 奏輔が差し出した用紙は、駅ビル内の催事用だった。春花は文字を追い、首を傾げる。

 「この『出店料』って、弁当にもかかります?」

 「……分かりません」

 奏輔は正直に言ってしまい、顔が少し赤くなった。


 結局、楓雅が引き出しから別の様式を出した。紙の角が丸くなっている、使い古された一枚だ。

 駅員室の窓口に持っていくと、制服の上着を着た年配の職員が、判子を指で回していた。

 「呼び込み? 音量は?」

 「音量……」

 春花は反射的に答えようとして、固まった。奏輔も固まった。二人の沈黙の間に、判子がコツ、と机に当たる音だけが響く。

 「何デシベルまで、って書けばいいんですか」

 奏輔が恐る恐る言うと、職員は目だけ動かす。

 「耳が痛くならない程度だ」

 春花は小さく笑ってしまい、慌てて咳払いで隠した。東京で働いていたとき、会議室で飛び交った横文字の波に溺れそうになったことがある。あのときも、笑ってごまかせなかった。今日は笑ってしまった。違いは、隣に同じ顔で困っている人がいることだった。


 楓雅がスマホを差し出した。

 「音量計のアプリ。喋ってみろ」

 春花は帽子を被った。つばを深く下ろして、顔が半分隠れるくらいにする。昨日の帰り、駅前の雑貨屋で、鏡に映る自分に「これで言える」と頷いた帽子だ。店員が「似合います」と言ったとき、春花は値札を見て一度だけ息を飲んだ。結局買った。息を飲んだ分、明日が軽くなる気がしたから。

 「いきます」

 春花は、窓口の前で小さく息を吸う。

 「えき……べん……」

 声が喉の奥で止まった。続きが出ない。春花は口の形だけ変え、息だけ漏らす。アプリの数字が、妙に元気よく跳ねるのが腹立たしい。


 「じゃ、僕が……」

 奏輔も胸の前で拳を作った。口を開く。だが駅員室の電話が鳴り、背後のプリンターが動き出し、音の居場所がどこにもない。

 「駅弁といえば……」

 最後が出ない。奏輔の声は、粉雪みたいに溶けて消えた。


 窓口の職員が、判子を持ったまま首を傾げた。

 「喋れないなら、掲示にしろ」

 それは優しさなのか、単なる現場の早回しなのか分からない言い方だった。春花は帽子の影で唇を噛み、奏輔は「掲示……」と呟く。楓雅は肩をすくめるだけだ。


 それでも春花は、改札前に立つことにした。人の流れが切れる瞬間を待つ。自分の心臓の音が、アナウンスより大きい気がしてくる。

 「えき……」

 昨日より少しだけ前に出た声は、それでも途中で止まる。

 奏輔は隣に並び、同じところで詰まる。二人は同時に顔を見合わせ、吹き出した。

 笑うと、冷たい空気が肺の奥まで入ってくる。春花は「今、私の『えき』、聞こえました?」と真面目に確認し、奏輔は「聞こえました。『えき』だけ」と答える。楓雅が遠くで肩を揺らし、店主が売り場で眉を下げて笑った。


 「声が出ないなら、別の道だ」

 楓雅は自販機で温かいココアを二本買って渡した。春花は缶を両手で挟み、指先を温める。奏輔は缶のプルタブを起こしかけて、手が滑り、指先をかすった。

 「地味に痛い……」

 春花は缶を差し出す。

 「ここ、当ててください。冷たいよりマシです」

 奏輔は言われるまま当て、目を瞬かせた。温度が移るのが早すぎて、思わず笑ってしまう。


 春花は手帳の余白に太い字で書いた。『駅弁といえばコレ! はなとげ弁当』。下に小さく、『本日 あつあつ』。

 奏輔はそれを見て、昨日から胸に引っかかっていた白い貼り紙の文字を思い出す。閉店まで九十日。あの数字の元気さに、負けたくないと思った。

 「……許可、取ります」

 奏輔は言った。誰かに投げる「皆さんで」ではなく、自分の名で。

 売り場用の掲示が構内で認められる範囲を、奏輔は窓口に確認しに走った。戻ってきたとき、手には赤いテープと透明なクリップが増えている。誰かに頼んだのではない。自分で、買ってきた。


 昼のピーク。春花は手書きの札を胸の高さに掲げ、改札の横で小さく言った。

 「駅弁……といえば、コレ。……よかったら」

 相変わらず大声ではない。けれど札の字が視界に入り、足が一瞬止まる。年配の男性が「これ、温かいの?」と尋ね、店主が湯気の立つ蒸し器を見せる。男性は頷き、二つ買った。

 続けて、学生服の二人組が札を覗き込む。春花が「この梅、飾りじゃなくて、ちゃんと食べられます」と言うと、片方が「飾りじゃないんだ」と驚き、もう片方が「じゃあ食べる」と笑う。売り場の前に、小さな列ができた。


 奏輔は少し離れた場所で、改札の人の流れを見ていた。昨日の自分なら、「良かったですね」と誰かの手柄にして終わらせたかもしれない。今日は違う。売り場の前で足が止まるたび、自分の胸も止まりそうになる。止まるな、と自分に言い聞かせる。

 春花が帽子の影で、こっそり口角を上げたのが見えた。奏輔はそれを見て、顔が熱くなるのをココアのせいにした。


 夕方。売り場の奥で、店主が小さく頭を下げた。

 「今日は……久しぶりに、話しかけられました」

 奏輔は「こちらこそ」と言いかけ、言葉を探して黙った。春花は空き缶を握りつぶしながら、改札の先のホームを見た。粉雪が横に流れ、白い線が空に引かれる。

 声はまだ大きくならない。でも、明日も立てる。そう思えるだけで、胸の奥が少し温まった。


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