駅弁といえばコレ! 雪のホームで深夜アイス

mynameis愛

第1話 雪のホームと貼り紙

 北城県雪津市の朝は、音が薄い。駅前の山並みが白く霞み、風が止まると、舞い落ちる粉雪がそのまま空中に留まったように見える。

 雪津駅の改札を抜けたすぐ右、ガラス越しに小さな木のカウンターがある。手書きの「はなとげ弁当」。その前に、今日から貼られた白い紙が一枚。黒い太字で、閉店まで九十日、とだけ書かれていた。数字がやけに元気で、言葉がやけに乾いている。


 奏輔はその紙の角を、指でいったん押さえた。浮いていると剥がれる。剥がれたら、また貼り直す。貼り直すのは、担当の仕事だ。

 いつもの手帳を開き、同じ順番で目を走らせる。「告知」「説明」「質疑」「今後の手続き」。頭の中で読んでから、口を開いた。

 「ええと……本日より、こちらの売店は――」

 言いかけたところで、改札の電子音が「ピッ」と鳴り、通勤客が一斉に流れた。スーツの肩がぶつかって、奏輔の声が半分にちぎれる。彼は反射的に一歩下がり、ぶつかった人に会釈をしてから、もう一度最初から言い直した。

 「本日より、こちらの売店は、閉店に向けた準備に入ります。閉店予定日は、三月――」


 カウンターの奥で、店主の手が止まっていた。湯気の立つ鍋のふたを握ったまま、うなずくでも首を振るでもない。表情が変わらないのに、奥歯だけがかすかに噛みしめられているのが見える。

 奏輔は視線を落とし、用意した資料の文字へ逃げた。紙に書いてあることは安全だ。相手の目を見ないで済む。

 「……駅ビル側の方針です。ええ、上が……決めましたので」


 その「上が」という言葉の直後、背中側から低い声が入った。

 「上、って誰だ」

 振り向くと、駅長の楓雅が立っていた。制服の襟がきちんと整っている。外気の冷たさが染み込んだような頬の色でも、目だけがまっすぐだ。

 楓雅は貼り紙を一瞥して、奏輔に視線を戻した。

 「店の人に言うなら、君の言葉で言いなさい。君が担当だろう」

 奏輔は口の中が乾くのを感じ、唾を飲もうとして失敗した。喉が引っかかって、咳払いになった。

 「……はい。担当です。ですけど、方針は――」

 「方針は変えられないかもしれない。けれど、説明の仕方は変えられる」

 楓雅はそう言って、カウンターの奥へ目礼した。店主の手が、ゆっくりとふたを閉める。湯気が一瞬だけ立ち上り、すぐに消えた。


 「閉店まで九十日」という紙は、改札前の人波の中では目立つのに、誰も立ち止まらない。立ち止まったら、自分の生活も止まりそうだからだろうか。奏輔はそんなことを考えてしまい、自分で自分の考えに戸惑った。

 いつもなら考えない。考えるより先に、会議の議事録を整える。誰かが決めたことを、誰かに伝える。問題が起きたら「すみません、上に確認します」で一旦保留。角が立たないように、言葉を丸める。

 それが今日、丸めた言葉が、貼り紙より冷たく聞こえた気がした。


 そのとき、背後からキャリーケースの車輪音が近づいてきた。ゴロゴロという音に、雪津駅の床がわずかに震える。

 「すみません、ここ……駅弁、売ってます?」

 声は柔らかいのに、言い切りがはっきりしている。奏輔が振り向くと、帽子を目深にかぶった女性が立っていた。マフラーの端に雪が小さく張りついている。彼女は貼り紙を見上げ、ひと呼吸置いてから、店の中を覗いた。

 「閉店、って……今日で終わりじゃないんですね。九十日、ある」

 確認するように言うその調子が、妙に落ち着いていて、奏輔は言葉が遅れた。

 「え、ええ。いきなり終わるわけでは……」

 「よかった。今日、ここで買えないと困る人、いますよね」


 店主が奥から小さく会釈して、弁当の見本を並べた。梅干しの赤が、白いご飯の上でひとつだけ強い。

 女性はカウンターに近づき、包み紙を手に取った。淡い灰色の紙に、細い文字で商品名が印刷されている。雪景色の写真みたいで綺麗だが、手に持つと指先が寒くなる。

 「……これ、冬の駅には似合ってるけど、ちょっと遠いですね」

 女性は包み紙を指でなぞり、言葉を選ぶように笑った。店主が首を傾げる。

 「遠い、って……?」

 「手が届かない感じ。食べ物なのに、ガラスの向こうに置かれてるみたいな」

 女性は自分の胸ポケットから、名刺入れを出しかけて、やめた。代わりに両手を小さく開いてみせる。

 「私、春花っていいます。今日は東京から来ました。仕事で、雪津の駅前を見に」

 奏輔はその瞬間、彼女の「仕事」が何なのか、勝手に頭の中で探してしまった。テレビ局? 旅行会社? 何にせよ、こういう時に「関係者です」と名乗る人は、だいたい何かを変えようとする人だ。変わるのは、面倒だ。でも、変わらないのは、怖い。


 楓雅が春花に向かって、軽く頭を下げた。

 「ようこそ雪津へ。駅長の楓雅です。……この貼り紙、驚かせましたね」

 「驚きました。でも、驚いたままだと寒いので、とりあえず買います」

 春花はそう言って、いちばん端の弁当を指さした。店主が手袋をはめ、丁寧に包み紙を折り、紐を結ぶ。結び目がきゅっと締まる音が、改札の電子音に負けずに聞こえた。


 奏輔は手帳に視線を落としながら、結局また「上が決めました」を飲み込めなかった。飲み込めないなら、出すしかない。

 「……閉店の話は、今日から正式に、皆さんに伝えるように言われてます。だから、ここに来ました」

 店主が弁当を渡しながら、短く答えた。

 「分かってます。駅の人たちも困るでしょうし」

 困る、という言葉の裏に「だから仕方ない」という諦めが貼りついている。奏輔はその諦めを、剥がす道具を持っていない。

 楓雅が、奏輔の横で一歩だけ前に出た。

 「困るのは、店の人だけじゃない。駅も困る。だから、今から九十日、やれるだけやる」

 店主の手が、ほんの少しだけ止まり、次の瞬間、いつもの速さに戻った。返事はないが、鍋のふたがまた開き、湯気が立つ。湯気は「やめない」の合図みたいだった。


 春花は弁当を抱え、改札の方を見た。通勤客の波が切れて、床の模様が見えた。誰も立ち止まらない売り場。その静けさが、駅の雑音の中で逆に目立つ。

 「……声、出してないんですね」

 ぽつりと春花が言った。店主が不思議そうに眉を寄せる。

 「声?」

 「駅弁って、売ってる人の声で買うとこ、あるじゃないですか。『お弁当いかがですか』とか」

 店主が小さく笑って、肩をすくめる。

 「昔はね。今は、うるさいって言われるから」

 奏輔が反射で頷きかけた。うるさいと言われたら困る。クレームは、担当の仕事になる。

 その頷きが終わる前に、楓雅が言った。

 「うるさいかどうかは、言い方とタイミングだ。ここは駅だ。音は最初からある」

 楓雅は改札の電子音と、構内放送を指で示した。

 奏輔は、その指の先にある音を初めて「味方」にできる気がして、すぐにその気が薄れた。味方にするには、判断がいる。判断は、責任を呼ぶ。責任は、苦手だ。


 春花はマフラーを直し、視線を奏輔に戻した。

 「あなた、担当って言いましたよね。名前、なんて読むんですか」

 「……奏輔、です」

 「奏輔さん。今日、ここに貼り紙が出た。つまり、今日から九十日で何が変わるか、ここにいる人たち次第ですよね」

 その言い方は、励ましでも叱責でもなく、ただ事実を指でつまむみたいだった。

 奏輔は、逃げ道として「皆さんの意見で」を探した。見つかったのに、口から出なかった。

 代わりに、別の言葉が出た。

 「……何を、変えればいいですか」

 自分で言って、驚いた。質問は、責任を相手に渡すための道具だ。でも、今の質問は、渡すためじゃなくて、受け取るために聞いてしまった気がした。


 春花は弁当の包みを軽く叩いた。

 「まず、私、これ食べてみます。味が良かったら、変える場所が見えてくる」

 言い切って、春花は改札を抜け、ホームへ向かった。


 奏輔はその背中を見送ってから、貼り紙をもう一度見た。九十日。数字だけが先に進んでいく。

 楓雅が、奏輔の横に戻る。

 「君、今の質問、悪くない」

 「……そうですか」

 「誰かに任せたいなら、まず自分が何を任せたいのか言わないと伝わらない。君は、任せる前に、自分が知ろうとした」

 奏輔は返事を探し、見つからず、ただ「はい」と言った。


 春花はホームの端のベンチに座り、包みをほどいた。冷たい空気の中で、湯気はすぐに消える。だけど、ご飯の温かさは掌に残った。

 目の前を、雪が静かに降っている。線路の向こうの街が白く霞んで、誰かの怒鳴り声も届かない距離になる。

 春花はひと口食べて、肩の力が抜けた。理由は味だけじゃない。ここにいると、呼吸の音が自分に戻ってくる。

 ふと外を見ていると、雪が静かに降っているのを見かけて心が穏やかになる瞬間。

 その言葉が、勝手に胸の中で形になった。


 構内放送が次の列車の到着を告げる。春花は箸を置き、包み紙を折り直した。折り目は少し歪んだが、手の温度が残っている。

 改札の方を振り返ると、貼り紙の白が遠くに見えた。あの白は冷たいままなのか、それとも誰かの手で温まるのか。

 春花は立ち上がり、雪を踏まないように歩き出した。


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