名前のない場所へ
あまいこしあん
名前のない場所へ
彼女は、名前を捨てた。
戸籍の文字列を変え、履歴を断ち、
過去と現在の接点を、ひとつずつ消していった。
それでも、消えなかったものがある。
——アカウントネーム。
検索欄に、何度も打っては消した。
変わっているはずだと思った。
変わっていてほしかったし、変わっていないでほしかった。
賭けだった。
表示された名前は、昔のままだった。
投稿頻度は少ない。
日常の写真もない。
ただ、時々、社会の片隅の出来事に短い言葉を添えている。
相変わらず、静かで、自由で、独身らしい。
彼女は深呼吸をして、DMを送った。
「はじめまして。
少しだけ、お話を聞いてもらえませんか」
彼は、その通知を見て、胸の奥がざわついた。
知らない名前。
知らない文章。
けれど、行間の“ためらい方”だけが、覚えのあるものだった。
返信は短くした。
「大丈夫ですよ。どうしましたか」
会うまで、時間はかからなかった。
昼間の、駅前の喫茶店。
彼女は、名前を名乗らなかった。
彼も、聞かなかった。
代わりに、話した。
消した名前のこと。
終わらせた事件のこと。
生き延びた理由のこと。
彼は、ただ聞いた。
昔と同じように。
やがて彼女が言った。
「……昔、あなたに救われた人がいます」
彼は、すぐには答えなかった。
カップの中のコーヒーを見つめ、静かに言った。
「今も、思い出してますよ。
名前も、顔も、知らないまま」
その瞬間、彼女の目に涙が滲んだ。
二人は、何度か会った。
特別なことはしなかった。
散歩をして、食事をして、
それぞれの時間に戻った。
けれど、ある夜、彼女が言った。
「一人で生きるのは、もうできる。
でも、一緒に何かをやりたい」
彼は、少し考えてから答えた。
「じゃあ、住む場所を共有しましょう。
人生じゃなくて、生活を」
それは、約束ではなく、選択だった。
同棲は静かに始まった。
家事を分け合い、
互いの過去に踏み込まない。
やがて、自然に話題が出た。
——支援事業所。
相談だけでもいい場所。
名前を名乗らなくていい場所。
誰かの“最初のDM”を受け取る場所。
二人は、書類を揃え、机を並べた。
看板は、出さなかった。
派手な宣伝もしなかった。
それでも、来る人は来た。
「ここに来れば、話を聞いてもらえると聞いて」
彼女は笑い、彼は頷いた。
名前は、いらなかった。
夜、事業所の灯りを消すとき、
彼女は心の中でだけ思う。
あのとき賭けてよかった、と。
彼もまた、鍵を閉めながら思っている。
——会いたかった、と。
月は静かに、二人の上にあった。
終わらせた名前の先で、
二人は、同じ未来を見ていた。
名前のない場所へ あまいこしあん @amai_koshian
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