後編 たくらんらん
彼女には――
僕と目を合わせて、嫌であれば目を閉じるとか、どうにか身をよじって僕から逃れようとするとか、そんな仕草が一つも見られない。
それどころか、電車の揺れに合わせて微妙に身体を寄せてくるようだし、わずかに顎を上げて、それでいてしっかりと僕の顔を捉えて離さない……どういうことなのだろう? もしかして、僕が彼女に一目ぼれしたように、彼女もまた――
……ああ。だけど、無慈悲にも。
これほど大きな変化があったというのに、通勤電車の運行は正確無比。6分30秒の時間きっかりで、電車は彼女が下車する駅に停まってしまった。
目の先で、扉が左右に開いていく。人波がうごめく。鈍重だった人の流れが徐々に加速し、それにつられて彼女もまた流され始める。行かないで。行ってしまう……でも彼女は――しっかりと、僕に視線を合わせたままでいてくれる。出口に背を向けてまで、後ろ歩きに流されて。
どうしてだろう? 彼女の瞳と、僕の目の間に、見えない糸が張っていると、はっきり感じた。もし色が見えたなら、それはきっと赤に違いない。それともただ、僕が視線を外せなかっただけなのだろうか。
――行ってしまった。でも彼女の去り際に、僕はひとつ違和感を覚えた。
今、何か、上着に入れられたような……。
きついままの車内で、無理矢理にポケットをまさぐった。ハンカチとチリがみ以外の、覚えのない感触があった。紙の束……かな?
終着駅のホームに降りて、それを取り出す。幾重にも折りたたまれた紙を握っていた。人ごみを離れて、折り目をほどいた。一枚の手紙が現れる。女性らしい、彼女のイメージにぴったりな綺麗で流麗な筆跡で、僕宛のメッセージが書かれていた。
「ずっと、貴方のことが気になっていました。
夢に見てしまうほどに。
ごめんなさい。
これから私は、とてもおかしなことを書きます。
私、夢の中で、貴方に卵を、産みつけたの」
――はぁ?
§
その日一日、タイムカードに出勤を打刻し、定時で退社時間を打刻するまで。僕はまったく、仕事なんてうわの空だった。考えていたのはずっと二つのことだけ。彼女、卵、彼女、卵、彼女、卵、彼女、卵、彼女、卵、彼女、卵、彼女、卵……たまご、たまたま、たま、たまご……そして、かのじょ。
仲のいい同僚に心配されるほどだった。「どうしたんだよ、お前らしくもない、悩み事か?」とかなんとか……だったか。ふざけるな、僕にだって悩み事ぐらいある。顔に出さなかっただけだ。今はそれが顔に出てしまうくらい、重大な案件を抱えてしまったというだけだ。
上長にも勤務態度をこっぴどく注意された。それでも最後にはむしろ気づかいされて、「職場カウンセラーに相談してみる?」なんて言われる始末。相談できるわけがない。「朝起きたら卵を産んでたんです」なんて言ってみろ。精神病棟に直行だ。
それでもよほど僕は不安定だったのか、うっかり「卵が……」などと口走りかけてしまった。二人ともすっと表情がひきしまり、真顔で「うん、そうか」などと言われて距離まで取られた。あきらかに、おかしな人扱いだ。
まったく、失礼な話だよ。僕はいたって正気だぞ。君たちだって、いっぺん卵を産んでみたらいいんだよ。そしたら少しは、僕の気持ちが分かるってもんだ――じゃない。僕は、産んではいない。
産まされたんだ。
帰りの電車の中でも、僕の頭の中は卵と彼女のことで満たされたまま。もらった手紙は、ずっと手に持ったまま。紙はすっかり、僕の汗で湿ったまま。インクは滲んでいない。きっと、耐水性顔料インクかなにかなのだろう。
「私、夢の中で、貴方に卵を、産みつけたの」――何度読み返しても、はっきりとそう書いてある。「貴方の卵を産んだの」じゃない。「産みつけた」だ。
彼女は人間。少なくとも、電車の中で毎朝見かける外見は、人間で間違いない。僕だって人間。でも、男なのに卵を産んだ――産まされたとしても、僕が人間なら、彼女だって人間のはずだ。
それなら、産んだ卵は彼女の産道を通って出てくるはず。想像すると、グロテスクでありながらも、なかなかのエロティシズムに溢れている光景に思える。これこそエログロと呼ぶに相応しいのかもしれない――いや、それはこの際措くとして。
彼女は、「産みつけた」と主張しているんだ。いったいどうやって? 人間の女性には、産卵管なんてないんだぞ?
最初に連想したのは、寄生バチの類だった。ほかの昆虫の体に受精卵を産みつけて、その体内で幼虫が孵化し、宿主の身体を糧として成長する。そんな生活史を持つ昆虫の一種のことを。
そう考えてしまい、ひととき背筋が凍った。僕は夢にまで見るほどの愛しい女性に、愛情の結実として体を蝕まれてしまうのか……。
でも僕の卵は、体の中にとどまってはいない。僕があらためて、身体の外に産みなおしている……今朝からずっと考えているように、そう結論するしかない。ということは、これは寄生され宿主にされたというのではなく、むしろ、託されたというべきなのではないだろうか。
つまり、托卵だ。
人間の女性に托卵なんて言葉を使うと、今どきは浮気女が間男の種で子を宿したのに、夫には実子と偽って育てさせるなんて意味にもなってしまうらしいが。彼女は、僕と夢の中で目合って、もしかしたら出産までしたけれども、僕たちはそれを夢で終わらせずに、現実の物体として誕生させた……。
「たまごたまたま、たくらんらん……」
童謡みたいなフレーズがぽろっと口からこぼれる。おかしな呟きに聞こえたのだろう。電車の座席で隣に座っていたおばちゃんが、ぎょっとしたような目で僕を見るのが分かった。
「冗談じゃないぞ……なんで僕になんだよ……」
無視して呟く。かわいさ余って憎さ百倍てのは、これか? 僕は急に、彼女に腹を立てていることに気が付いた。
§
アンガーマネジメントとかいうのは、どうやら迷信らしい。6秒で怒りは消えるとかいうけど、わだかまりはずっと残る。せいぜい、目の前に怒りの相手がいるときに、暴発して実力を行使するのを防ぐ程度の役にしかたたない。
いらいらしたまま、僕はアパートの部屋に帰り着いた。
託されてしまった卵は、どうなっただろう。僕の悩みの種であり、イライラの元であり、愛情の結晶であるあの物体は――布団の中で、ぬくぬくとしていた。
あったかーい……手に取ってみると、とたんにほんわかとした気持ちになってしまう。愛は、偉大だな。怒り? なんだったかなぁ。
あれ? 気のせいかな。卵の中で、何か動いたような感触が……。
ふむ、今朝電車の中で、彼女と心を通わせたおかげかもしれない。
そうだよ、僕はちゃんと、彼女と向き合うべきなんだよ。今日一日、卵についてこれほど真剣に考えてしまったのは、夢を通じて、
彼女だってそうだったんだ。毎晩僕たちは、集合的無意識の底深くでつながって、同じ夢を共有し、電車の中での6分30秒間の妄想では足りず、同じ夢を共有して卵を生み出したんだ。
これはきっと、進化だ。僕と彼女は、新しい人類としての一歩を踏み出したのかもしれない。
そもそも――子育てをするのに、女性の負担ばかりが大きいのは理不尽だ。十月十日もの間、一方的に身体的負担を背負わなくてはいけない、女性。でも、卵であれば、最初から最後まで、二人の共同作業として正しく子育てを始められる。
しかも夢を通じてなのだ。どちらか一方が、大きな卵を身体に宿して産み落とすなどという負担すらない。なんなら、女性同士、男性同士だって可能なんじゃあないか? きっと僕だけじゃないんだ。彼女だけでもない。世界中に今、きっと、夢を通じて卵が生まれるという進化を果たした人類が、現れ続けているに違いない。
ただまあ……「産みつけた」という一点が気がかりだけど――明日、彼女に聞いてみよう。僕たちは、面と向かってきちんと、話し合うべきだ。
そう思うと、途端に気持ちが楽になった。ずっと一人で思い悩むより、悩みを共有できる人がいるのだと確信したとたんに、心持がすっと軽くなった。
メールを書いた。「明日、休みます。代休を消化して、心療内科に行きます」と、会社の上長に送信した。
もちろん嘘だ。休むのは本当。僕は、毎朝と同じように通期電車に乗る。そして、彼女と一緒に、同じ駅に降りる。
この卵も持っていこうかな。卵をはさんで、二人でこれからのことを考えよう。
布団から卵を取り上げて、明かりにかざしてみた。
今朝よりも、ずっしりと感じる。重さの感じ方が、変わった気がした。重心が定まったというような――
あれ? さくり、かさりとした音が聞こえた。
とても小さく、物を叩くような音も。
卵に、ヒビが走る。かけらが落ちた。
ターコイズブルーの小さな輝きが一粒、僕のことをじっと見つめていた。
〈了〉
【カクコン11短編】たまごたまたまたまたまご まさつき @masatsuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます