【カクコン11短編】たまごたまたまたまたまご

まさつき

前編 たまごたまたま

 片思いの彼女を夢に見た朝、僕はおしりから卵を産んでいた。


 けっこう、大きい。


 ダチョウの卵と同じくらいかもしれない。写真で見ただけなので、印象だけど。


 しかし、これは本当に卵なのかな? だって僕は男だし、種はあるけど卵は持っていないはず。だから、この目の前にある物体は、外殻は炭酸カルシム95%の物質に過ぎず、中身はなんらかの液状で、期待するような黄身は浮いてないかもしれない。


 だからといって、割って確かめることには躊躇する。


 もし命が宿っていたら? 有精卵という可能性だ。なんらかの生理的作用により、未知の経路をたどって、僕の精子がこの卵の中に注入され、生命の萌芽として結実していたら? そう思うと、台所でボウルを手に取り、これの中身を割り入れてみようなどという冒涜的な考えは、捨てざるを得ない。


 だいたい、自分がひりだしたものを朝食の一品に仕立てるというのも、ぞっとしない話だ。


 捨てきれないといえば、本当に僕が産んだものなのかという、薄い疑問も。


 まず、産み落としたとして想定される動作の順序に矛盾がある。パジャマの中、パンツの内側に産み落とされていなければ、論理的な説明がつかないはずだ。


 なのにこれは、僕のお腹のあたりに、僕自身が目覚めたときに抱きかかえるようにして存在していた。大切に、割れてしまわないように、本当に愛おし気にして、僕は卵を抱いたままで目覚めたのだ。


 身体感覚としては、産んだに違いないと信じるに足るものがあった。


 ヒリつく尻穴は、何か大きなものを出してしまったということを僕に物語っていた。妙に、腹の具合もすっきりしている。


 腹がすっきりといって、殻に包まれた宿便の塊が目の前にあるとも思えない。こればっかりは、正直そもそも、思いたくもない。可能性が無いわけではないが、それを確認するや厳重に梱包して可燃ごみとして出す末路しかないだろう。


 それに僕の精神は、これを排泄物とは見なしていなかった。この卵(いい加減、これをそうであると定義することにした)に対する本能的な愛着というものが、これこそ僕の片割れに違いないと確信させるのだ。


 つまりこの卵は、片思いの彼女に対するもんもんとした想いが夢に現れ、なんらかの精神的な作用、あるいはオカルトチックな現象によって、僕のリビドーが物質として結実してしまった結果なのではないか……そう結論付けるのがしっくりくる。


 それならやはり、彼女との一方的な関係性、特に夕べ見た夢の中に手がかりがありそうだ。いったい僕は、どんな夢を見たのだっけ――卵が生まれるほどだ。何かやはり、とてつもなくエモーショナルかつエロティックな内容であるのに違いない。


 が。


 思い出せない。


 今あるのは、感触のみ。


 夢を見たことだけを覚えていて、でも、思い出せない……というよくある状態。


 性的な夢を見て夢精をしてしまったという経験は、健全な男子であれば一度や二度はあるのではないかと思うけれど、もしかしたら、これもその類なのかもしれない。液状の生理的な物質ではなく、大きな卵として現れた……そういうことなのかも。


 ならば、この卵は卵ではなくて、やはり種なのか? つまり中身は、白身だけ。いや、卵白というのは別に鳥の精子ではないので、このたとえが適切とも思えないけど、いったんイメージとしてそうであると仮定する。


 ところで、男性一人が生涯に射精できる総量というのは、およそ13リットルほどであるらしい。AIに聞いたことのある試算だけど。


 また、ダチョウの卵の中身は、1.6リットル程度ということも今ググって知った。であれば、仮に僕の夢精による放出物が卵に変じたとすればだ。僕は、一生の約8分の1に相当する精子を使って卵を具現化したことになる。


 ふむ――これはさすがに、現実的ではない。男の僕が卵を産んだという事実を措いたとしてもだ。


 僕もまだ若いから、がんばれば3回、見栄を張れば4回はイけるから、限界まで絞り出されたとして1戦5ラウンドとして、総計15ミリリットル程度の精子を吐き出せる。立派なものだと思うけど、とてもこの卵の容積を満たすのにはほど遠い。


 このことから、僕の夢精が変じて卵となったという仮説は、却下できる。


 ふむむぅ……振り出しに戻ったぞ。


 本当に卵なのだろうか、というところから考察しなおす必要が出てしまった。


 その前に、ひとつ肝心なことを失念していたと思い出した。この中身が液状なのか個体状なのかだけは確認しておくべきだ。方法にはおそらく、生卵とゆで卵を割らずに判別する方法が使えるだろう。


 まず、軽く扉をノックするように、殻を叩いてみた。だいぶ堅そうだ。ダチョウの卵はハンマーといったちょっとした鈍器を使って割るらしいが、我が子も負けず劣らず丈夫な生まれのようである。


 ベッドの上から取り上げて、フローリングの床に置く。両手でろくろでも回すみたいに、卵を回転させてみた。


 おおっと! グラグラ揺れて、重心を崩して転がってしまい、危うく机の足にぶつかるところだった――危ない。外殻が丈夫であったとしても、中身まで安全である保証はないのだ。


 しかしおかげで、この卵は生である可能性が高まった。ゆで卵のように中身が固形であれば、重心が定まって綺麗に回転するはずだからだ。


 液状の中身であると仮定して、ではその中身はいったいどんな構造なのだろう?


 卵は、割ってみるまでその中身は、分からない――そんなことを言ったのは誰だったか。箱の中の猫は、箱を開けるまで生きているか死んでいるか分からない――


 ふと、学生時代のバイト先での出来事を思い出した。


 厨房に立っていた僕は、ガスコンロの炎が熱くて喉が渇き、先輩に聞いたんだ。「これ、飲んでもいいですか?」て。冷蔵庫内の麦茶のペットボトルを指さす僕に、先輩は「いいよ」とにやついて言った。ありがたく頂戴して、噴き出した。中身は、蕎麦つゆだったのだ――


 教訓。見かけは麦茶であっても、飲んでみるまで本当に麦茶なのかは分からない。


 目の前にあるコレにも、同じことが言える。


 見かけは卵にそっくりで、僕の脳ミソは卵であろうと叫んでいても、本当に卵かどうかは、割ってみるまで分からない。転がり具合からして、液状でありそうなことは分かっても、サナギの中身のようにどろどろとした半生命なのかもしれない。


 黄身があるかどうかも怪しい。胚があるのかどうかも、だ。


 僕たちは、スーパーやコンビニで売られている卵は無精卵で、有精卵なら殻が割れてヒヨコとして誕生すると漠然と認識している。いや、店側が「これは食用の無精卵である」として販売しているから、そうと信じ切って購入しているにすぎず、代金を支払い、家に帰って、10個パックの中身なりを冷蔵庫の卵入れに並べ、必要に応じて取り出して何の疑問もなく割る、茹でるなどして、口にしているに過ぎない。


 そして、もっと重要なことを簡単に忘れ、あるいは認識の外に捨てているのだ。


 いったい何がどうやって卵の中身が鳥として形作られるのかを――少なくとも僕自身は、忘れてた。


 無精卵にも、命の元たる器官は、実は存在している。生卵を割ったときに気にも留めない、黄身の上にぽつんとあるぼんやりとした白い点――胚だ。


 正確にはこのぼんやりは、胚盤と呼ばれる(ググった)。それこそが生命個体の原点。細胞分裂を繰り返し、まず血管が形成されて黄身の中に延び、次第に体の各部位や器官を発生させ、栄養源である黄身を吸収しながら成長して、やがてひな鳥として誕生する――僕の卵にも、胚はあるのだろうか? 夢の彼女が生み出し、僕の数億分の1の想いがたどりついたかもしれない、生命の萌芽たる胚は、果たして――夢の彼女が、僕の卵を、産んだのか?


「……………………っ」


 そうだ、確か彼女は、僕に言ったんだ。何か、とても大切なことを口にして、僕に伝えようとしていたはずなんだ。


 それなのに、今の僕の頭に浮かぶのは、切れ切れで、バラバラの、記憶、夢の断片が無数に飛び交い、とりとめもなく、掴もうとしても一つもつかめない……時間が経つほどに、何か大切なことだけがあったという感覚だけが、濃くなっていった。


 夢にまで見てしまう片思いの彼女とは、毎朝のように出会っているというのに。


 一目ぼれした僕の(一方的な想いだけの)彼女自身は、夢の存在ではない。現実に、毎日のように目にしている。ときどきには接触もだ。なるべく、決して触れないようにしている生身の女性。


 朝の通勤電車、快速の車両の4両目、左側の前から三番目の扉から、彼女は必ず僕のそばに乗り込んでくる。そこから二つ先の駅で彼女は降り、僕はさらに一つ先、終点の駅で降りて会社へ向かう。


 わずか、6分30秒程度の短い逢瀬を、僕は脳内で彼女とのあらゆる妄想行動を追加して、秘かに楽しむ。目を半眼にして寝ているふりをし、片手は胸の前で鞄を抱え、右手は吊革に掴まり両手をふさぐ。唇が振れるほどの距離に彼女の髪があるものだから、息を吐くときも風を起こさないようゆっくりと、靄でも作り出すつもりで呼吸を繰り返す。いつも3分後に訪れるポイント切り替えで車両が揺れ、決まって彼女は僕の左半身に寄りかかり、僕は申し訳ないといった表情を貼り付け顔をそらし、しかし身に触れてくる彼女の甘い肉感を己が体内と妄想の中へと取り込み、咀嚼するのだ。


 月曜から金曜の五日間、三か月もそんな生活を繰り返してみたまえ……好きにならない男のほうが、おかしいというものだ――


 て……言語化してみると、はなはだ気持ち悪いな! 僕。


 ん? 彼女? 電車? 通勤……あっ! 卵にかまけてしまい、仕事のことをすっかり忘れているじゃあないか。急げば――まだ間に合う、彼女との時間に。



    §


 大慌てで身支度を整え、僕はどうにかいつもの時間の電車に乗り込むことができた。危なかった。出会ってから一日たりとも欠かしたことのない彼女との時間が途切れてしまうところだった。


 卵は、もしも有精卵だったらということを考慮して、ほんわりとあったかい状態を保つために、布団にふわっとくるんで置いてきた。目が届くなら使い捨てカイロでも添えたほうが良いかもしれないけど、乾燥しているこの季節、火事でも出したら大変だ。それに、これほど不可思議な存在、ちょっとやそっとじゃ死んでしまうようなことはないのじゃあないかと思えるし。なにしろ、僕の彼女への想いが結実した結果なのかもしれないのだ。そう簡単に、命の火が消えることはないだろう……たぶん。


 いつもどおりにぎゅうぎゅう詰めの通勤電車に乗り込み、身体を棒みたいにしながら彼女を待った。なるべくいい位置に陣取らないと、彼女が目の前に来てくれない。ときどき一人二人、彼女との間にモブキャラが挟まることがあり、そんなときはいつも、彼女が良からぬ男から良からぬ目にあってはいないかとヒヤヒヤしてしまう。


 走り出した電車はやがて、彼女が乗車してくる駅のホームへと停車する。ゆっくりと、車窓に流れていくホームの人波。この駅で降りる人はほとんどいないのに、この駅で乗り込む人々を車両は見事に飲み込んでしまう。


 今朝も彼女は――いた。目を合わせないように、しかし横目でしっかりと捉えながら、微妙に立ち位置を調整して、彼女とランデブーできる位置に陣取る。来た……ちょうどいい具合に……て、あれ? いつも僕の左腕のあたりに来るのに、今日は……身体の正面がぴったりと張り合わさるような位置に、なってしまった。


 なんてことだ。周りのモブキャラたちに押し込まれて、僕と彼女の身体がぴったりとくっついてしまい、彼女の胸が、胸元で鞄を抱える僕の左腕にめり込むみたいに押し付けられてしまったのだ。どうしよう……いや、どうしようもないじゃあないか。けど――うれしい……じゃない、ダメだ、少なくとも、顔に出しちゃあダメだ。


 それにしても、こんなときって、どう行動するのが正解なのだろう。謝るべきなのだろうか。それとも、いつもみたいにそ知らぬふりをして、妄想だけを逞しくしたまま6分30秒を過ごすべきなのだろうか?


 甘い香りが立ち上った。彼女の香水の薫りだ。もしかしたら、これが彼女の体臭なのかもしれない。腕に絡む弾力、足に密着する太腿、ひとつ呼吸をするたびに喉にかかる熱い息も、僕をどうしようもなく昂らせてしまう。


 緊張で身が固くなる。堅くなるべきではないところまで堅くなってしまうのが分かった。どうしよう……彼女に知られてしまったら? でも、いっそ知られてしまいたいという背徳的な欲望があるのも、事実だ。


 思わず――いつもはよそ見を決め込み、意識だけは120%彼女に注ぎ込んでいるというのに、僕は思わず、彼女を見てしまった。初めてだったと思う。睫毛の長い、アーモンド形の瞳。黒目は、人より一回り大きい。虹彩の色は黒かと思っていたけど、間近に見るとわずかに青みを帯びているのが分かった。カラコンの類ではないらしい。吸い込まれてしまうようで、僕はとうとう6分30秒間、彼女から目を逸らすことが出来なかった。


 絶対に、終わった。ガン見だもの。瞬きするのを忘れるほどに。嫌われたと思ったけど、どうしても目を離せない。ところがなぜか、彼女は、嫌がるそぶりをまったく見せなかったのだ。

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