第4話 黄身返し卵

 数日経った。写楽は毎日、離れの前の石段に座って、中から持ち出した蔵書を読んだ。そうすると、器土堂かわらけどうがいる隣の蔵の様子がよく分かるのだ。


 器土堂は一向に蔵の中から姿を現さなかった。でも、蔵の中にいるのは間違いない。ときどき、千鐘房せんしょうぼうの手代やら小僧が筆や紙を持ってくる。そんなとき、器土堂が蔵の扉を少しだけ開けて、手だけを出して品を受け取るのだ。器土堂は店の者でも、決して蔵の中に入れなかった。


 しかし、不思議なことがあった。器土堂が一向に食事をとっている気配がないのだ。店の者が誰も食事を運んでこない。さらに言うと、食事どころか厠に行く様子もない。


 写楽は首をひねった。


 食事や厠はどうしているんだろう?・・


 そんなある日の昼過ぎのことだ。


 写楽は手代が樽と、籠に入れた大量の卵を一緒に隣の蔵に持ってくるのを見た。樽には『糖味噌』と書かれていた。写楽は黄身返し卵を作るのだと思った。『万宝まんぼう料理りょうり秘密箱ひみつばこ』には、黄身返し卵は・・地卵を糖味噌とうみそに入れて作るのだと書いてある。糖味噌とは、砂糖を加えた甘味噌 のことだ。


 手代はすぐに店の方に戻って行った。


 周囲に人がいないのを見て、写楽は立ち上がった。


 離れと隣の蔵との間に、人ひとり通れるくらいの隙間があった。その隙間の蔵側の壁の上部、人の背丈より高いところに明り取りの窓が開いていた。その窓の下に、写楽は離れの中の本をかき集めて踏み台を作った。


 写楽は千鐘房の人間に見つからないように、そっと踏み台の上に立った。窓から蔵の中を覗き込んだ。


 蔵の中は・・どこから光が入って来るのか・・意外にも明るかった。床は板張りになっていた。床の中央に大量の卵が入った籠と、糖味噌の樽が置いてあった。器土堂がその前に立っている。背中を写楽の方に向けていた。相変わらず、幽霊のような鬼気迫る立ち姿だ。


 蔵の隅には小さな文机があって、その上に紙、筆、硯が整然と並べて置かれていた。写楽は疑問に思った。紙には何も書かれていなかった。硯も使われた形跡がまるでないのだ。文机の隣には、長さが八尺、高さが二尺程度の長持ちのような細長い箱が横にして置いてあった。さらにその横には、縦横高さがいずれも一尺五寸程度の、何やらいかめしい木箱が置いてある。


 蔵の中にあるのは・・それですべてだった。


 すると、器土堂が樽の蓋を取った。糖味噌の甘い香りが蔵の中に広がった。器土堂は次に蔵の隅へ歩いていくと、文机の隣の長持ちと木箱の蓋を取った。木箱の方に手を入れた。中から取り出したものは・・髑髏しゃれこうべだった。


 器土堂は髑髏を抱えて、糖味噌の樽に戻ると・・糖味噌の上に髑髏を置いた。髑髏は何故か糖味噌の中に沈まず、糖味噌の上に乗ったままだ。


 器土堂が何かを言った。写楽の知らない言葉だった。南蛮の言葉かもしれない。すると、長持ちの中から・・若い娘が出てきた。娘は全裸だった。横に大きく張り出した燈籠鬢とうろうびんに髪を結っている。昨今、江戸の若い娘の間で大流行している髪型だ。


 娘が糖味噌樽の前に歩いてきて、髑髏の前で立ち止まった。


 すると、髑髏が動いた。大きく口を開けたのだ。裸の娘の身体が煙のように揺らいだ。次の瞬間、娘の身体は一本の線になって・・髑髏の口に吸い込まれた。


 写楽は言葉も出ない。呆然とそれを見ていた。写楽の背中を冷たい汗が流れていった。


 器土堂が横に開いてある卵の籠を取った。その籠を髑髏の口の上に持ってくると・・傾けた。卵が割れもせず、次々と髑髏の口を通って、糖味噌の中に入っていった。


 卵が全て髑髏の口に吸い込まれると・・器土堂が再び何かを言った。やはり、写楽の知らない言葉だ。


 すると、髑髏の口から真っ赤な光が線になって飛び出した。その光の線が蔵の中を激しく回転した。蔵の中が赤く染まった。写楽は今までにこのような光を見たことがなかった。それは、この世のものとは思えない美しい光景だった。写楽は息を飲んで、回転する光を見つめた。

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