第3話 器土堂

 写楽が『斎藤十郎兵衛』と名乗って、器土堂かわらけどうが身を寄せている須原屋すはらや茂兵衛もへえの店を訪れたのは、それから3日後のことである。


 蔦屋重三郎が・・『斎藤十郎兵衛』は阿波徳島藩お抱えの能役者で、能の表現に役立てるために、器土堂が書いた『万宝料理秘密箱』の料理を学びたいと言っているとして・・写楽が扮する『斎藤十郎兵衛』を須原屋茂兵衛に紹介したのだ。


 茂兵衛の店は日本橋室町にある。屋号は『千鐘房せんしょうぼう』といった。


 茂兵衛は小柄で小太りの男だった。


 「斎藤さん。いつでもこの千鐘房に来てくれていいよ。そして、ここにある本は遠慮なく見てくれ。器土堂かわらけどうさんは、あいにく武州の方に食材を探しに行っていて不在だが、なぁに、二三日もしたら戻るだろう」


 茂兵衛はそう言うと、写楽を店の奥に連れて行った。奥には離れが建っていて、そのすぐ横に蔵があった。


 茂兵衛が離れの戸を開けた。離れの中には、所狭しと本が積んであった。何でも、器土堂という人は、とてつもない読書家だそうで・・料理本に限らず、蘭学本から古今集といった和歌本まで、様々な本を江戸中からかき集めて読んでいるそうだ。この離れには、そうして器土堂が集めた本が置いてある。


 こうして写楽が、『斎藤十郎兵衛』として八丁堀の自宅から千鐘房に通う生活が始まった。


 茂兵衛は、千鐘房の中で写楽を見つけると、能の話を聞きたがった。 浮世絵、黄表紙、洒落本、滑稽本といった大衆向けの出版を得意とする蔦屋重三郎と違って・・須原屋茂兵衛は武家を対象とした出版が中心だった。茂兵衛は能の本は出版したことがなかったが・・当時、武家の間で能楽が流行っており、どうやら武家を対象とした能本のうほんの出版を目論んでいるようだった。蔦屋重三郎がそんな茂兵衛の目論見を見抜いて、写楽を能役者として紹介したと思われた。


 写楽は能の絵は描いたことがなかったが、能には詳しかった。能の持つ、表情の硬さや緊張感、さらには人物の角度といったものを積極的に自分の絵の中に取り込んでいたのだ。茂兵衛の能に関する質問に対して、写楽はこういった知識を使って答えた。


 3日目に、器土堂が旅から帰ってきた。写楽は器土堂を初めて見た。痩せて、顔が青白く、背ばかりが異様に高い人物だった。写楽は同僚の喜多川歌麿が去年(寛政6年)描いて大人気を博した、浮世絵の『お菊の亡霊』を思い浮かべた。


 茂兵衛が客間で写楽を器土堂に紹介した。器土堂は写楽に言った。


 「あんたが斎藤さんかい。ここの離れにある本は私が集めたものばかりだが、遠慮なく見てくれ。ただ、一つだけ、あんたにお願いがある。私は離れの隣の蔵の中で執筆するんだが・・執筆しているところを人に見られるのが嫌いでね。蔵ン中へは絶対に入らないようにしてもらいてぇんだ」


 写楽は不思議に思った。器土堂は京都の人だと聞いていたが、言葉の中に京なまりが全くない。そんな写楽の疑問に気づいたのか、茂兵衛が話題を変えた。


 「器土堂さんはね、蔵ン中で『万宝料理秘密箱』の補刻版を書いていなさるんだよ」


 写楽は器土堂に聞いた。


 「するてぇと、あの黄身返し卵も補刻版に載るんですかい?」


 その言葉に一瞬、器土堂が驚いた顔をした。しかし、すぐに平静に戻って言った。


 「ああ、できればそうしたいね」


 写楽は重ねて聞いた。


 「黄身返し卵を作るには・・本には書かれていない秘密があるんですかい?」


 今度は器土堂が露骨に嫌な顔をした。


 「本に書かれていない秘密だって! そんなものがあるわけないじゃないか!」


 器土堂はそれ以上の会話を避けるように立ち上がると、客間を出て行った。


 その背中を見ながら、写楽は思った。


 質問しても教えてくれそうにない。こりゃあ、黄身返し卵を作るところを盗み見るしかないか・・

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