第2話 東洲斎写楽

 蔦屋重三郎は写楽・歌麿・北斎といった人気絵師を抱える江戸一番の版元だ。日本橋通油町とおりあぶらちょうに『耕書堂』という大店おおだなを構えている。


 耕書堂の建屋一番奥に『蔦の間』と呼ばれる座敷がある。そこには、蔦屋の版元印である『富士山形に蔦の葉』という紋様が掛け軸になって床の間に飾ってある。


 その掛け軸の前に、蔦屋重三郎と東洲斎写楽写楽が座っていた。二人の他は誰もいない。蔦の間には店の者も近づくことが許されていないのだ。耕書堂の店先の騒々しい物音も、ここまでは聞こえてこなかった。


 写楽は横の坪庭に眼をやった。昼過ぎの気だるい陽光が庭石に当たって、石の表面がキラキラと輝いている。その上に蝶が一羽、ひらひらと舞い降りてきた。寛政7年(1795)の初夏のことである。


 写楽は視線を坪庭から蔦屋重三郎に戻した。それを見て、重三郎が苦々しげに言った。


 「写楽さんよ。私もね・・誰でも絵が描けなくなる時があるてぇことは、よく分かってますよ。私はこれでも江戸一番の版元だ。絵師の調子には波があるってぇことぐらいは分かってるさ。でもね、写楽さん。今年の1月に『二代目板東三津五郎』を描いてから・・初夏になった今まで・・5ケ月近く、1枚も描けないってぇのは、ちっと酷いんじゃあねぇのかい?」


 それを聞くと、写楽の顔がみるみる苦渋に満ちたものになった。写楽は懐から一冊の本を取り出した。


 「蔦重さん。私は・・もう絵が描けなくなってしまったんでさぁ。それもこれも、この本のせいなんだ」


 写楽は蔦屋重三郎のことを・・世間がそう呼んでいるように・・『蔦重つたじゅう』と呼んでいた。重三郎は本を手に取った。『万宝まんぼう料理りょうり秘密箱ひみつばこ』だ。天明5年(1785)の初版本だった。


 「こりゃあ、『万宝料理秘密箱』だね。私も版元だから、もちろんこの本のこたぁ知ってるよ。今、お江戸で大流行りじゃねえか。写楽さん、この本がどうしたってんだい?」


 「蔦重さん。その中に・・黄身返し卵というのがあるんでぇ。ゆで卵の黄身と白身が入れ替わって、黄身の中に白身があるてぇ、みょうちくりんな卵料理なんだが。この本に書いてある方法で、どうしても黄身返し卵が作れねえんでさぁ。私は、都座の二代目吾妻藤蔵あづまとうぞうが黄身返し卵を持っているってぇ構図の絵をどうしても描きてぇんだが・・黄身返し卵が作れねえことには、描きようもねぇんだ」


 重三郎は写楽の顔を見ながら頷いた。


 「黄身返し卵のこたぁ、知ってるよ。お江戸の誰もが作れねえ、不思議な卵料理だそうじゃないかい。でも、この『万宝料理秘密箱』は、そういった誰も作れねぇ不思議な料理も含まれているから、売れてるんじゃないか」


 写楽はすがるような眼で重三郎を見た。


 「それは分かってるんだ。でも、蔦重さん。私は黄身返し卵が気になって・・気になって・・絵筆が手につかねえんだよ。蔦重さんから、『万宝料理秘密箱』に詳しい江戸の版元に頼んでもらって・・本の作者の器土堂かわらけどうという人に、黄身返し卵の作り方の秘密を聞いてもらうわけにはいかないかい?」


 重三郎は慌てて手を振った。


 「写楽さん。そいつはいけねえ。互いの出版には口を出さねえってぇのが版元のしきたりだ。写楽の本名と顔は誰にも知られちゃいねえが・・写楽が、うちのお抱え絵師だってぇことは誰でも知ってらあ。そんな写楽が作り方の秘密を教えてくれって、しゃしゃり出ちゃあ、てぇへんなことになるぜ。そいつは、お前さんもよく分かっているはずじゃないか」


 写楽は拝むように両手を顔の前で合わせた。


 「じゃあ、蔦重さん。私を・・名前を変えて、作者の器土堂という人に紹介してもらえないだろうか? 作者の京都の器土堂という人のことは何も分かっちゃいねえんだが・・なんでも、今は京都から江戸に出て、江戸の版元の須原屋すはらや茂兵衛もへえさんのところにいるってぇ噂じゃねえか」


 写楽の言葉に、重三郎は腕を組んで考え始めた。

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