第9話
中学生から親友の真希から「ハニートラップ」という、あまりに過激で残酷な提案を突きつけられたあの日曜日。 それからの明日香の心は、まるで行き先のない振り子のように、期待と疑念の間を激しく揺れ動いていた。
(恭介さんのあの優しさは、本物なの?
それとも、私がまだ知らない『男の顔』が隠されているの?)
仕事をしていても、食事をしていても、心のどこかで冷たい風が吹いている。彼を信じたいという願いが強ければ強いほど、裏切られた時の絶望を想像してしまい、明日香は深い思考の沼からもがき出せずにいた。
そんな悶々とした日々を過ごしていたある日、恭介からひとつの誘いがあった。
「今度の土曜日、学生時代からの仲間と飲み会があるんだ。明日香を紹介したいから、来て欲しい」
彼の声は、一点の曇りもない誇らしさに満ちていた。 明日香にとって、彼の「聖域」とも言える仲間の輪に招かれることは、嬉しい反面、恐ろしくもあった。第三者の目という客観的な光にさらされたとき、果たして二人の関係はどう映るのか。そして、恭介は他人の前でどんな「顔」を見せるのか。
「……うん、行くね。誘ってくれてありがとう」
そう答えたものの、心臓の鼓動は早鐘を打っていた。 そして迎えた当日。 明日香は、いつもの自分よりも少しだけ背伸びをした装いに身を包み、指定された居酒屋の暖簾をくぐった。 店内に漂う香ばしい匂いと、楽しげな笑い声。その喧騒のどこかに、恭介の「真実」が隠されているはずだ。
明日香は、震える手でバッグの持ち手を握りしめ、恭介が待つ座敷の奥へと、一歩ずつ足を踏み入れていった。
個室の引き戸を開けると、真っ先に目に飛び込んできたのは、ひときわ明るい表情で立ち上がる恭介の姿だった。
「明日香、こっち!」
彼は格好を崩し、自分のすぐ隣の席をポンポンと叩いて明日香を招き入れる。その屈託のない笑顔に触れた瞬間、道中抱えていた緊張が少しだけ和らぐのを感じた。
座敷には恭介を含め、気心の知れた様子の男性が三人。すでにジョッキを傾けていた彼らは、明日香が姿を見せると一斉に視線を向け、どこか感心したような、それでいて歓迎の意が滲む柔らかな表情を浮かべた。
「みんな、紹介するよ。俺にとって、本当に……世界で一番大切な人、明日香さんだ」
恭介の言葉は、単なる恋人紹介という枠を超えていた。「大切な人」というフレーズに乗せられた重み、そして仲間たちに向けられた誇らしげな眼差し。それは、彼が心から明日香を自分の人生に招き入れている証拠だった。
すると、仲間の男性たちが顔を見合わせ、楽しげに声を上げた。
「おおっ! ついにご対面か! 話には聞いてたけど、本当に綺麗な人だなあ」
「君かぁ! 恭介からさんざん『信じられないくらい素敵な女性に出会った』って聞かされてたよ!」
明日香が知らない場所で、恭介はすでに彼女を自分の世界の中心として語っていたのだ。 仲間たちの屈託のない祝福と、隣で少し照れくさそうに、けれど幸せそうに笑う恭介。
「私、もう会う前から、皆さんに知られていたんですね……」
明日香が頬を染めて呟くと、座敷はさらに温かな笑い声に包まれた。
「明日香さん、本当に申し訳ないんだけど……あいつの惚気、いい加減止めてもらえませんか?」
恭介が追加のドリンクを頼みに席を立った隙に、彼の親友である男性が、呆れ果てた顔で明日香にこっそり愚痴をこぼしてきた。
「こないだも、男同士で真面目な仕事の話をしてたのに、いきなり『明日香の笑顔って、マイナスイオン出てると思うんだよね』とか言い出して。それから三十分、いかに明日香さんが可愛いか、いかに自分が明日香さんに相応しい男になりたいかって、延々と……。もうね、あんなに余裕のない、必死な恭介、二十年付き合って初めて見ましたよ」
親友の言葉は、呆れているようでいて、どこか親愛の情に満ちていた。 明日香はただ、驚いて目を丸くした。自分の前ではあんなに穏やかで、包容力に溢れている彼が、他人の前では「明日香がいないとダメだ」と言わんばかりの、余裕のない顔を見せているなんて。
(……そんなに、私のことを?)
胸の奥が、熱い湯を注がれたようにじんわりと温かくなった。
その夜、少し飲みすぎた恭介を支えながら、明日香は先に彼の部屋へと戻った。
恭介を先にベッドへ横たわらせ、自分も着替えてから隣に潜り込む。 暗闇の中、微かにアルコールの匂いと、彼の清潔な体温が混ざり合って漂っていた。
すると、眠りに落ちたと思っていた恭介が、不意に、しかし力強く明日香の細い手首を掴んだ。
「……あすか」
熱を帯びた、掠れた声。 恭介は瞳を閉じたまま、まるで大切な宝物がどこかへ消えてしまわないか確かめるように、明日香の手を自分の胸元へと引き寄せる。
「……どこにも、行かないで。お願いだから……ずっと、俺のそばにいて」
それは、いつもの紳士的で完璧な彼からは想像もつかないほど、弱くて、切実な祈りだった。
あんなにモテるであろうイケメンな彼が、明日香に捨てられることを本気で恐れ、子供のように縋っている。
「……行かないよ。どこにも行かない」
明日香は、自由な方の手で彼の柔らかい髪をそっと撫でた。 恭介は、その言葉に安堵したように「……ん、よかった……」と小さく呟くと、そのまま幸せそうな寝息を立てて眠りに落ちてしまった。
明日香は暗闇の中で、彼に繋がれたままの手をじっと見つめていた。 もう、ハニートラップも、試すような疑いも必要ない。誰かに裏切られる恐怖よりも、この無防備に愛を叫ぶ男を、一生守ってあげたいという強い想いが、明日香の心を支配していた。
翌朝、彼が目を覚ます前に、とびきり美味しい朝食を作って驚かせてあげよう。 十年も料理をしていないけれど、今の明日香には、彼のために何かをしたいという純粋な意欲が満ち溢れていた。
ただただ、私の話を聞いてくれる恭介さん 仰 @aoi-ryo-novel
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