第8話

涙の膜で潤んだ瞳に、公園の木漏れ日が反射してキラキラと輝く。明日香は鼻を少し赤くしながらも、恭介の胸の中でパッと花が咲いたような、とびきりの笑顔を見せた。


「……じゃあ、最初の『放課後デート』、お願いしてもいい?」

「もちろん。何がしたい?」


恭介が身を乗り出して聞き返すと、明日香は少し照れくさそうに、けれど夢見る少女のような口調で答えた。


「クレープ。放課後の買い食い、ずっと憧れてたの。一緒に歩きながら食べたいな」


その言葉を聞いた瞬間、恭介の顔がぱあっと明るくなった。 「よし、行こう!今すぐ行こう!」 彼はそう叫ぶと、先ほどまでの落ち着いた包容力はどこへやら、遠足当日の子供のような無邪気さではしゃぎ出した。


恭介は明日香の指を一本ずつ絡めるようにして、ぎゅっと力強く、けれど温かく手を握りしめる。


「駅前に、いつも行列ができてる美味しいお店があるんだ。そこならきっと、明日香の理想にぴったりだよ」


繋いだ手をぶんぶんと振るようにして歩き出す恭介。その後ろを、明日香は彼の大きな背中を見上げながらついていく。 アスファルトに伸びる二人の影が、まるで放課後のチャイムを聞いて駆け出す学生たちのように軽やかだ。


駅へと続く道。すれ違う人々は、まさかこのカップルが、三十代にして人生初の「放課後クレープ」に心を躍らせているとは思いもしないだろう。


「置いていかないで、恭介」

「置いてかないよ。ほら、急がないと日が暮れちゃう!」


冗談めかして呼びかける明日香の声に、恭介は何度も振り返り、眩しいほどの笑顔を向ける。 ただのクレープ、ただの駅前までの道のり。 けれど二人にとっては、止まっていた時計の針が、今、最高の輝きを持って動き出した瞬間だった。


公園での甘い時間は、魔法のように明日香の日常を塗り替えた。けれど、月曜日が来ればまた、無機質なオフィスと実家を往復する「いつもの生活」が始まる。


それでも、目覚めの瞬間だけは違った。枕元で震えるスマートフォンを開けば、そこには恭介が作った朝食の写真と、体温を感じるような優しいメッセージが待っている。 翻って自分はといえば、実家の母の深い慈愛に甘えきり、キッチンに立って包丁を握ることさえ、もう十年近く遠ざかっているというのに。


(私より、恭介の方がずっと「女の子」みたい……)


そんな彼の愛おしさが、今の明日香の生きる糧になっていた。


ある週末、明日香は久しぶりに親友と会い、お気に入りのカフェで胸の内を明かした。恭介との出会いから、驚くほど誠実な彼の振る舞い、そしてあの「プレゼン」のこと。


「最高じゃない! 何を迷う必要があるの? もうそのままゴールインしちゃいなよ!」


親友は身を乗り出し、自分のことのように手放しで祝福してくれた。その明るい声は、明日香の背中を力強く押してくれる。 けれど、友の応援が熱を帯びれば帯びるほど、明日香の心の奥底には不安が溜まっていく。


「……分かってる。自分でも、バカみたいだって分かってるの」


明日香はカップを持つ指先に力を込め、視線を落とした。


「一生懸命に愛を伝えてくれる彼のそばにいたい。彼となら、幸せになれるって信じたい。……でも、やっぱり怖いの。もし、一緒に暮らし始めた瞬間に『全部嘘だった』って言われたら? 幸せの絶頂から突き落とされたら……私、今度こそ二度と立ち直れない気がするんだ」


それは、あまりに深い孤独を経験してきた者が抱く、防衛本能に近い「予期不安」だった。 幸せであればあるほど、それが失われた時の衝撃を想像して震えてしまう。 親友に向かって吐き出したその愚痴は、恭介への不信感ではなく、自分自身の「幸せになる勇気」の欠如に向けられた、悲鳴のようなものだった。


窓の外を流れる景色を見つめながら、明日香は願わずにはいられない。 この不安すらも、恭介の大きな手が、いつか優しく包み込んで溶かしてくれる日が来ることを。

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