第7話

恭介の懸命な「自己プレゼン」を聞き終えた後、明日香の胸に真っ先に湧き上がったのは、意外にも小さなくすぐったさだった。


(……なんだか、大きなワンちゃんみたい)


自分がいかに怪しい男ではないか、いかに誠実であるかを必死に証明しようとするその姿が、まるで「僕は悪い子じゃないよ、信じて!」と尻尾を振る大型犬のように見えて、愛おしくてたまらなくなったのだ。


そこで、ふとした流れで改めて互いの年齢を確認することになった。


「えっ……三十三歳?」

「はい。……あ、もしかして、もっと上だと思ってた?」


明日香は三十六歳。てっきり年上だと思い込んでいた恭介は、まさかの三歳年下だった。その事実は、彼の落ち着いた物腰や包容力の影にある「純粋さ」の理由を、すとんと腑に落ちさせてくれた。


午後の柔らかな光に誘われるようにして、二人は近所の公園へとお散歩デートに出かけた。


色づき始めた木々の下をゆっくりと歩きながら、明日香はこれまで誰にも話したことのない、心の奥底に眠っていた記憶の断片をひとつずつ取り出していった。 小学生の頃、ボロボロになるまで繰り返し読んだお気に入りの本のこと。中学生で出会った、校則なんてどこ吹く風で自由奔放に生きていた親友のこと。

そして、高校時代の少し苦い思い出。教室の隅で「一軍」女子たちが彼氏の話に花を咲かせ、放課後デートへと繰り出していくキラキラした姿。

それを羨ましいと思いながら、自分はひたすら本の世界に逃げ込み、静かにページを捲っていたこと……。


恭介は、そのとりとめもない昔話を一度も遮ることはなかった。


「うん……。うん、そっか。そうだったんだね」


歩調を合わせ、隣でただ優しく相槌を打ってくれる。アドバイスも、否定も、大げさな同情もない。ただ「聞いてもらえている」というその事実だけで、明日香の心に溜まっていた数十年分の孤独が、春の雪解けのように静かに、さらさらと癒されていく。


「……話を聞いてもらうだけで、こんなに心が軽くなるなんて知らなかった」


ふと口にした言葉に、恭介は照れたように、けれど確かな温もりを込めて微笑んだ。


派手な演出も、特別なイベントもない。 ただ歩き、ただ話し、ただ隣にいる。 二人にとって、それは失われた青春を今から取り戻していくような、どこまでも穏やかで、この上なく幸せな土曜日だった。


公園のベンチに座った二人。 隣に座る恭介が、ふと思いついたように、けれど宝物を差し出すような口調で提案した。


「ねぇ、明日香。これからさ、明日香がやりたかった『放課後デート』、全部しようよ」


彼は明日香の瞳を真っ直ぐに見つめ、いたずらっぽく、そして慈しむように優しく笑った。


「全部、俺が叶えるから。制服は着られないけど……あの頃羨ましいと思ってたこと、ひとつ残らず一緒にやろう」


その言葉が、明日香の心の堤防をあっけなく決壊させた。 何十年も前の、教室の隅で一人本を読んでいた自分。誰にも見つけてもらえなかったあの頃の孤独な少女を、目の前の年下の恋人が時を越えて抱きしめてくれたような気がしたのだ。 明日香の瞳から、大粒の涙が溢れ出し、頬を伝う。


「……っ、あ……」


予想外の涙に、さっきまでの余裕はどこへやら、恭介は「えっ、あ、ごめん! 泣かせちゃった……?」と、大きな体を揺らして慌てふためいた。その狼狽ぶりは、まさに自分のせいで飼い主を泣かせてしまったと焦る大型犬そのものだ。


けれど、彼はすぐに落ち着きを取り戻すと、壊れ物を扱うような手つきで明日香をその腕の中に引き寄せた。 そして、小さな子供をあやすように、大きな手のひらで彼女の頭をそろり、そろりと、ゆっくり撫でる。


「大丈夫だよ、明日香。大丈夫」


耳元で繰り返される安らかな声。そのリズムに合わせて頭を撫でられるたび、明日香の心は深い充足感に満たされていった。


これまで出会ってきた男たちは皆、「体の関係」という対価がなければ、女と向き合うことすらしないと思っていた。欲望を満たすことが付き合うことの証明だと信じ込まされていた。 けれど、恭介は違う。 彼はただ、明日香の過去を慈しみ、話を聞き、手を繋ぎ、こうして静かに抱きしめてくれる。明日香の方から仕掛けた誘惑でさえ、彼は彼女の「尊厳」を守るようにして、いつもやんわりと、誠実に断るのだ。


(ああ、私……本当にこの人を信じていいんだ)


下半身の衝動ではなく、心の深淵で繋がろうとしてくれる彼の頑ななまでの潔癖さ。 その「触れない優しさ」こそが、明日香にとってはどんな愛の言葉よりも、彼を信じるに足る確かな証拠だった。 泣き腫らした顔を彼の胸に埋めながら、明日香は生まれて初めて、本当の意味での「愛されている」という確信に、震えるほど幸せを感じていた。



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