第6話

ソファの固い感触と、窓から差し込む朝の光で目が覚めた。 昨夜、明日香は逃げるようにしてこの場所に潜り込んだのだ。恭介の腕の中で眠れば、抑えきれない欲望が指先に宿り、眠っている彼の無防備な場所に触れてしまいそうで怖かった。理性を守るための、苦渋の避難だった。


重い瞼を持ち上げると、そこには予想外の光景があった。 至近距離で明日香を覗き込んでいたのは、どこか幼さを残したまま、分かりやすく「むすっ」と頬を膨らませている恭介だった。


「……どうして一緒に寝てくれなかったんですか」


いつもは聞き惚れるような穏やかな低音が、今は少しだけ尖った、子供のような怒り口調になっている。そのギャップがあまりに可笑しくて、明日香の口からは不意に笑い声が漏れた。


(あんなに色気があって、きっと街を歩けば誰もが振り返るようなイケメンなのに……)


たった一晩、腕の中で眠らなかった。ただそれだけのことで、彼は世界の終わりかのような悲しさと寂しさを全身で表現している。 かつての男たちなら、朝になれば「さあ、帰るか」と言わんばかりの冷めた空気を纏っていたはずだ。けれど恭介は、昨日よりも今日、今日よりも今の明日香を求めて、純粋に拗ねている。


「ごめんね、恭介さん。……でも、そんな顔するなんて思わなかったから」


必死に真顔を保とうとしながらも、隠しきれない独占欲を滲ませる彼。 私たちは高校生のような恋に感じたけれど、これではまるで、お気に入りのぬいぐるみが隣にないと眠れない小学生のようだ。


(ふふ、本当に……なんて贅沢な朝なんだろう)


これほどまでに自分の存在を渇望してくれる、美しくて誠実な男。 明日香はまた、込み上げる笑いと一緒に、心の奥に溜まっていた最後の不安が消えていくのを感じていた。身体を繋ぐよりもずっと強く、魂をぎゅっと掴まれているような、そんな不思議な多幸感。


朝日を浴びてキラキラと輝く恭介の拗ねた顔を、明日香は愛しさを込めて見つめ返した。


ソファで横たわる明日香を、恭介は何も言わず、ただ力強く抱きしめた。その腕の強さは、言葉にできない彼の切実な願いそのものだった。朝日が部屋の隅々を白く塗りつぶしていく中、二人の鼓動だけが共鳴し合う。


朝食を終え、淹れたての紅茶から立ち上る湯気を眺めながら、穏やかな沈黙が流れていた。テレビから聞こえる聞き覚えのないニュースも、今の二人にとっては遠い世界の出来事のようで。 その静寂を破るように、恭介がテーブルの上に「それ」を置いた。


「明日香、これを見てほしいんだ」


差し出されたのは、役所の刻印が押された独身証明書と、一人の男が積み上げてきた歳月を物語る、五百万の残高が刻まれた通帳。明日香が息を呑むのも構わず、恭介は淡々と、けれど祈るような声音で自分の「現在」を詳らかにしていく。


「俺の仕事は月から金。定時は18時だけど、効率を上げれば16時には君の元へ帰れる。……もし、今のこの街が君を疲れさせるなら、どこへだって行く。ネットさえ繋がれば、緑の多い田舎でも、潮風の吹く町でもいい。リモートワークができるから、俺は君の隣にいながら、君を守れる」


それは、甘い愛の囁きよりもずっと重く、逃げ場のないほど真摯な「人生のプレゼンテーション」だった。 恭介にとっては、ただ「自分を信じてほしい」という一心からの情報開示だったのかもしれない。けれど、明日香の胸には、それがどんな高価な指輪よりも重厚な、一生を懸けたプロポーズとして響き渡った。


(……どうして、そんなに。どうして、私なんかのために)


条件を並べ立てているはずなのに、その奥に見えるのは、明日香を「日常」という戦場から救い出したいという、彼の献身的な愛だった。


「そんな、急に言われても……」


戸惑いで声が震える。けれど、目の前に置かれた通帳と書類は、彼が明日香を「一時の遊び相手」ではなく、「人生を共にする伴侶」として考えてくれている、残酷で優しい証拠だった。

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