第5話

バーを出ると、夜のひんやりとした空気が火照った頬に心地よかった。


かつての男たちなら、このまま熱に浮かされるようにホテルへ誘ってきただろう。それが「大人のデート」の予定調和だったから。けれど、隣を歩く恭介からは、そんな濁った気配は微塵も感じられない。


(この人は、今日も私を抱かない……)


言葉で交わしたわけではない。けれど、繋いだ手のひらから伝わってくるのは、性急な欲望ではなく、どこまでも深い慈しみだった。根拠のない、けれど揺るぎない確信。明日香の「女の勘」が、彼は他の誰とも違うのだと告げていた。


駅前のロータリー、人影もまばらなベンチに腰を下ろすと、恭介が静かに口を開いた。


「……あの日話したこと、覚えてる? うちに住んだらいいっていう話」


街灯の光に縁取られた彼の笑顔は、あまりに優しく、あまりに無防備だった。


「明日香が望むなら、明日にでも来ていい。準備はいつでもできているから」


その言葉は、暗闇を照らす一筋の光のようだった。けれど、光が強ければ強いほど、明日香の影もまた色濃く落ちる。


(怖い……。本当に、そんなうまい話があるんだろうか)


心のどこかで、冷ややかな自分が警鐘を鳴らす。 私が酔って零した「理想の恋」を、一から十まで完璧に演じてくれているだけではないのか。同棲という密室に引き込んだ途端、彼は豹変するのではないか。もしかしたら、巧妙に仕組まれた結婚詐欺なのかもしれない。


あまりに理想的で、あまりに明日香にとって都合が良すぎる存在。 「自分なんて、こんなに大切にされる価値がある人間じゃない」という、長年の孤独が植え付けた卑屈な疑念が、恭介を信じきろうとする心にブレーキをかける。


「嬉しい。……嬉しいけれど、少しだけ、時間をくれないかな」


明日香は、繋いでいた手に力を込めた。 彼の温もりはこんなにもリアルなのに。 幸せの入り口に立っているはずの彼女の心は、歓喜と恐怖の狭間で、激しく千々に乱れていた。


金曜日の夜、恭介の部屋。日曜までの「お試しお泊まり」という名目で、明日香は自分の中の疑念と、それ以上に熱い「渇き」に決着をつけるべく、小さな賭けに出ることにした。


夕食を終え、湯船でじっくりと体を温めた後。明日香はわざと、鎖骨から胸元が大きく覗くシルクのキャミソール姿でリビングに現れた。濡れた髪をバスタオルで覆い、ソファでくつろぐ恭介の股の間へ、滑り込むようにして腰を下ろす。


立ち昇る湯気と、甘く艶やかなシャンプーの香りが部屋に充満する。かつての男たちなら、間違いなくその下卑た欲望を瞳に宿し、迷わずその肌を蹂躙していただろう。


「……明日香?」


恭介の声に、明日香は期待を込めて背中で彼の体温を感じようとした。しかし、返ってきたのは、拍子抜けするほど真っ直ぐな「心配」だった。


「風邪ひいちゃうよ。もっとあったかいパジャマはなかったの?」


恭介は慌てて立ち上がると、クローゼットから自分の厚手のダウンジャケットを持ってきて、明日香の肩にふわりと掛けた。 一度目の挑戦は、彼の鉄壁の優しさを前に、あっけなく霧散した。


(……本当に、何なの、この人は)


もどかしさと、自分だけが浮ついているような気恥ずかしさを抱えたまま、消灯の時間を迎える。 薄暗い寝室。恭介の大きな腕が明日香を背後から包み込み、安心感を与えるように固定する。顔のすぐそばにある、彼の長く綺麗な指先。


明日香は意を決して、最後の手を打った。 その人差し指を、官能的な湿り気を含ませて、ゆっくりと舌で絡めとったのだ。まるで、これから始まるはずの「秘め事」を教唆するように。


恭介の指が、ピクリと跳ねた。 ついに理性の糸が切れる――。明日香が身構えた瞬間、彼はその大きな手で、優しく、けれど抗いようのない力で明日香の口をそっと塞いだ。


そして、耳元で熱い吐息とともに、信じられない言葉を囁いた。


「……お腹、空いたの?」


明日香が呆然とする中、恭介の声はどこまでも穏やかに続く。


「冷蔵庫に、明日香の好きなチョコレートケーキがあるんだ。良かったら、今から食べておいで。……おやすみ」


口を塞いでいた手が離れ、規則正しい寝息が聞こえ始める。 置いてけぼりにされた明日香の身体は、行き場のない熱を孕んでジンジンと疼いていた。このままでは、到底眠れそうにない。


結局、明日香はベッドを抜け出し、暗いキッチンで一人、彼が用意してくれたチョコレートケーキを口に運んだ。 ひんやりとした甘さが舌の上で溶けていく。


(……美味しいな、バカみたい)


甘いはずなのに、なぜか鼻の奥がツンとする。


その重すぎるほどの誠意に、明日香は完敗を認めざるを得なかった。

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