第4話
代わり映えのしない、無機質なオフィスの日常。けれど、デスクに向かう明日香の横顔には、これまでにない柔らかな光が宿っていた。
「明日香さん、最近何かいいことあった? なんだか表情が明るい気がする」
親しくしている同僚からの言葉に、明日香は自分でも驚くほど自然な笑みを浮かべていた。特別な出来事があったわけではない。ただ、彼女の生活の隙間に、恭介という「居場所」が根を下ろし始めていただけだ。
仕事が終わると、駅のホームから自宅までのわずかな帰り道。それが、今の明日香にとって最も大切な時間になっていた。
「もしもし、恭介? 今、駅に着いたよ」
耳元から届く、穏やかな低音。明日香は、その日心に溜まった小さな欠片を、ひとつずつ彼に手渡していく。
同じ部署の奥さんに子供が生まれたこと。初めて我が子を抱いた同僚が「命の重さに感動した」と目を潤ませていた、温かな光景。
かと思えば、電車の中でイヤホンの音を盛大に漏らしているおじさんがいて、せっかくの読書を邪魔されて少しだけ嫌な気分になったこと。
そして、勇気を出して上司に質問したのに、「何を言っているか分からない。もう一度まとめてから来い」と冷たく突き放され、自分の不甲斐なさに鼻の奥がツンとしたこと……。
普通の男性なら「こうすれば良かったんじゃない?」と、無意識に正解(アドバイス)を提示したくなるような場面でも、恭介は決してそれをしなかった。
「……うん、うん。そっか。それは大変だったね、明日香」
彼はただ、彼女の言葉を否定せず、遮らず、そのままの形で受け止めてくれる。まるで、散らばったパズルのピースを丁寧に拾い集めるように、彼女の感情に寄り添い、共感の温度を分け与えてくれた。
「明日香は頑張ってるよ。俺は知ってるから」
その一言で、上司に否定されてしおれかけていた心が、ふっくらと息を吹き返す。 昨日までの世界は、ただ明日をやり過ごすだけの灰色の場所だった。けれど今は、恭介に話したい「小さな欠片」を探すだけで、景色が鮮やかに彩られていく。
独り言のように呟いた「高校生みたいな恋」は、身体を重ねるよりもずっと深い場所で、明日香の孤独を少しずつ、確実に溶かしていた。
『ねぇ、明日香。会いに行ってもいい?』
なんでもない平日の昼休み。オフィスのデスクで開いたスマートフォンの画面に、恭介からのメッセージが浮かんでいた。
心臓がドクン、と大きく跳ねる。 初めてのデートから、二週間。あの日、朝焼けの中で別れてからというもの、二人の間にあるのは電波を通した声と文字だけだった。それだけで十分に満たされていたはずなのに、彼からの「会いたい」というストレートな熱を帯びた言葉に、明日香の自制心はあっけなく崩れ去る。
(私だけじゃなかった。恭介さんも、同じ気持ちだったんだ……)
その午後、明日香の仕事ぶりは同僚が目を見張るほど鮮やかだった。キーボードを叩く指先さえも、再会の予感に弾んでいるようだった。
実家暮らしの明日香が選んだ待ち合わせ場所は、最寄り駅の片隅にある、静かなバー。 扉を開けると、カウンターの隅にあの時と同じ、周囲の空気を凪に変えてしまうような恭介の姿があった。
「明日香、お疲れ様。急に呼び出してごめん」
はにかむような彼の笑顔を見た瞬間、二週間の空白がふわりと消え去った。 グラスを傾けながら、とりとめもない話を交わす。けれど、言葉以上に雄弁だったのは、カウンターの下でそっと差し出された彼の大きな手だった。
恭介は、明日香の指を絡めるようにして、強く、けれど壊れ物を慈しむような優しさでその手を握りしめた。
一度繋いだ手は、どちらからも離そうとはしなかった。お酒を口にする時以外、ずっと。 その熱すぎるほどの体温が、言葉にならない彼の本音を伝えてくる。 「俺も会いたかった。二週間、君の声を聞くだけじゃ足りなかったんだ」 そう、手のひら越しに囁かれているような気がして、明日香の胸はいっぱいになった。
たった二週間。されど、愛しさを募らせるには十分すぎる時間。 大人になって忘れていた、じりじりと焼けるような恋の渇きを、二人は繋いだ手のひらの中で静かに分かち合っていた。
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