第3話

恭介が握るハンドルの横で、明日香は移りゆく景色を眺めていた。 ほどなくして到着した遊園地のゲート。明日香が財布を取り出し「チケット代、半分出すよ」と申し出たが、恭介はそれを大きな手で制し、悪戯っぽく微笑んだ。


「いいよ。今日は俺にカッコつけさせて。……デートなんだから」


その「デート」という甘やかな響きに、明日香の胸が微かに高鳴る。


園内に入れば、そこにはかつて憧れた輝かしい世界が広がっていた。二人は子供に戻ったように、絶叫マシンへと駆け出した。

垂直に落下するフリーフォールの浮遊感、バイキングで宙に投げ出されるスリル、ジェットコースターで浴びる激しい風。思い切り叫ぶたび、体の中に溜まっていた重苦しいものが、ひとつ、またひとつと外へ放り出されていく。迷路のような子供向けの遊び場でも、二人は大真面目にゴールを目指してはしゃぎ合った。


(あんなに泣いていたのが、嘘みたい……)


心の底から湧き上がる笑い声が、失恋の痛みも、未来への不安も、すべてを過去のものへと塗り替えていく。


やがて空が茜色に染まり始めた頃、二人は静かに回り続ける観覧車のゴンドラに乗り込んだ。 ゆっくりと地上を離れ、視界がオレンジ色の光に満たされる。夕日に照らされた恭介の横顔があまりに綺麗で、明日香の胸に不意に寂しさが込み上げた。この箱が地上に着いたら、魔法のような時間は終わってしまう。


「……帰りたくないな」


ぽつり、と本音がこぼれた。自分でも驚くほど子供じみた、切実な呟き。 それを聞いた恭介は、こちらを振り向くこともなく、夕日を見つめたまま迷いのない声で言った。


「じゃあ、うちに住んだらいい。明日香が良ければ、だけど」

「え……?」


あまりに唐突な提案に、明日香の思考が止まる。 同棲? それとも、ただの居候?

出会って間もないのに、もう生活を共にしようと言うの? 信じられないほどの喜びが込み上げると同時に、それと同じくらいの恐怖が背中を走った。また信じて、また期待して、もし裏切られたら――。


「……考えておくね」


それ以上、言葉を継ぐことはできなかった。 嬉しいけれど、怖い。幸せすぎて、壊れるのが恐ろしい。 赤く染まった観覧車の中で、二人の間には、昼間の喧騒が嘘のような、ひりつくほど甘く切ない沈黙が流れていた。


夜の帳が下りた住宅街、恭介の車のエンジン音が静かに止まった。 家まで数分の距離。車内の密閉された空間には、一日半を共にした二人だけの熱い名残が漂っている。


「送ってくれて、ありがとう」

「いいよ。ゆっくり休んで」


これ以上踏み込めない、けれど離れがたい境界線。結局、次いつ会うかという明確な約束は交わさないまま、明日香は車を降りた。 遠ざかっていくテールランプを見送りながら、明日香は自分に言い聞かせる。

(……これで、おしまい。昨日と今日は、神様がくれた短いお休みだったんだ)


彼にとって、自分はただの「たまたま隣に座った傷ついた女」に過ぎない。一夜の慈悲を与え、一日遊んでくれた、それだけで十分すぎるほどの奇跡。明日からまた、代わり映えのしない派遣社員の日常が、砂を噛むような孤独が戻ってくるだけだ。


翌朝、月曜日。 重い体を引きずり、仕事へ行く準備をしていた明日香のスマートフォンが、枕元で短く震えた。 広告メールか何かだろうと期待せずに画面を覗き込んだ彼女は、その場に凍りついた。


『おはよう。今日の朝食はこんな感じ。明日香も、今日から仕事頑張って』


添えられていたのは、見覚えのあるダイニングテーブルに乗った、湯気の立つ味噌汁と焼き魚の写真。 昨日のトーストとは違う、けれど間違いなく彼が作った、飾らない日常の一コマだった。


「……あ」


心臓の奥が、ぎゅっと締め付けられる。 連絡なんてこない。自分から送る勇気もない。そうやって諦める準備をしていた心に、恭介の言葉はあまりに易々と、そして温かく侵入してきた。


戸惑い、迷い、スマートフォンを握りしめる指が震える。 けれど、気づけば明日香は返信を打っていた。


『美味しそう。私も今、準備してるところ。……頑張ってくるね』


それは、ただのメッセージのやり取り以上の意味を持っていた。 二人の時間が「非日常の夢」から、少しずつ「確かな日常」へと溶け出し始めた瞬間だった。

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