第2話
最後の一口を飲み込み、明日香は意を決して、ずっと喉に引っかかっていた問いを口にした。
「あの……。……お名前、聞いてもいいですか?」
昨夜の自分があまりに無防備だったことを突きつけられるようで、声が少し震えた。彼は一瞬、意外そうに目を見開いたが、すぐに「やれやれ」といった様子で困ったように眉を下げた。
「……恭介だよ。覚えておいてね、明日香」
その響きは、古くからの友人に呼びかけるように自然で優しかった。
「ごめんなさい、昨日はあんなに話を聞いてもらったのに……」
「いいよ、謝らないで。あんなに飲んでたんだから無理もない。それより、ちゃんと眠れたならそれでいいんだ」
恭介は責めるどころか、まるで壊れ物を扱うような穏やかな眼差しを向けてくる。これまでの人生で出会った男たちは、何かを差し出せば必ず見返りを求めてきた。けれど、この男からはその「値踏み」するような気配が全く感じられない。それが、明日香にはたまらなく嬉しく、同時に少しだけ怖かった。
ふと窓の外に目を向けると、冬の澄んだ空がどこまでも高く、青く広がっていた。 あまりに眩しいその青に、心の奥に溜まっていた子供じみた願望が、ポロリとこぼれ落ちる。
「……いい天気。こんな日は、遊園地とか行けたら最高だろうな」
誰に聞かせるでもない、独り言のような呟きだった。派遣の仕事に追われ、年齢を重ねるごとに「遊園地」なんて場所は遠い世界の出来事になっていた。
「いいよ。行こうか」
コトリ、とコーヒーカップを置く音とともに、恭介が事も無げに言った。
「え……?」
明日香は耳を疑って、彼を凝視した。冗談を言っているようには見えない。彼はすでに、どこか遠くを見つめるようなワクワクとした瞳で、今日一日の計画を練り始めているようだった。
「せっかくの晴天だ。家で縮こまっているのはもったいない。……行こう、明日香。ジェットコースターに乗って、昨日の嫌なこと全部振り落としてこよう」
その軽やかで強引な誘いに、明日香の胸が、数年ぶりに期待で小さく跳ねた。
「行こう、明日香」
その響きが耳に届いた瞬間、明日香の胸の奥で、凍りついていた何かが音を立てて溶け出した。
これまで付き合ってきた男たちは、私のことをなんて呼んでいただろう。 ある人は「明日香さん」と一線を引いた呼び方をした。またある人は、親しげに名前を呼びながらも、その瞳の奥ではいつも「次の予定」や「自分の都合」ばかりを追いかけていた。
けれど、恭介の口からこぼれた「明日香」という呼び捨ての響きは、それらとは全く違っていた。 気負いも、打算も、下心もない。 まるで、ずっと昔から知っている大切な名前を呼ぶような、あまりに自然で、温かい響き。
(……名前を、呼ばれただけなのに)
たったそれだけのことが、今の明日香には、どんな愛の言葉よりも深く染み渡った。 派遣先で番号や役職のように扱われ、元カレには性欲処理道具のように扱われてきた。そんな乾いた日々に、彼の一言が瑞々しい潤いを与えてくれる。
「……うん。行きたい、遊園地」
明日香は、子供のように小さく頷いた。 恭介の視線が、優しく彼女を包み込む。 彼はまだ、明日香と体を交えていない。けれど、その呼び声だけで、明日香の心はもう、彼にぎゅっと抱きしめられたような充足感に満たされていた。
三十六歳。大人になって忘れていた「名前を呼ばれる喜び」を、彼女は冬の朝の光の中で、噛み締めるように思い出していた。
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