ただただ、私の話を聞いてくれる恭介さん

第1話

カラン、とマドラーがグラスの底を叩く音が、今の明日香にはやけに空虚に響いた。


「……もう一杯。同じのを」


差し出したグラスは、三年間信じていた男から「結婚する気はない」と告げられた日に、自分がどれほど惨めだったかを思い出させる。些細な冗談で笑い合い、穏やかな家庭を築けると信じていたのは自分だけ。彼にとって、明日香とは体の関係だけに過ぎなかったのだ。


三十六歳。派遣社員。実家暮らし。鏡を見るたび、出口のない迷路に迷い込んだような焦燥感が胸を焼く。


そんな時だった。


「そのお酒、見た目よりずっと強いですよ。

……少し、ペースが速いんじゃない?」


不意に隣から届いたのは、夜の闇に溶けそうなほど穏やかで、心地よい低音だった。顔を向けると、そこには整った顔立ちの男が座っていた。派手さはないが、質の良いシャツを着こなし、グラスを弄ぶ指先が綺麗な男。


「……今は、強くないと困るんです」


吐き捨てるように言った明日香に、彼は不快そうな顔ひとつせず、ふっと柔らかく目を細めた。


「そっか。……じゃあ、もしよかったら、その『困ってる理由』、僕が半分くらい持っていきましょうか?」


ナンパにしてはあまりに温度が低く、けれど拒絶を許さない不思議な包容力。 明日香は自嘲気味に笑い、気づけばぽつりぽつりと、自身に起きた出来事を話し始めていた。


「馬鹿みたいですよね。いい歳して、夢見て、全部勘違いだったなんて」


言葉が途切れた瞬間、カウンターの下で、熱を持った大きな手がそっと明日香の手を包み込んだ。 驚いて顔を上げると、彼は何も言わず、ただ真っ直ぐに彼女の瞳を見つめていた。その手は、決して性急に指を絡めるわけでもなく、ただ「ここにいるよ」と伝えるように、優しく、確かにそこにあった。


「……今日はもう、一人で歩かなくていい。帰り、送りますよ」


その夜、彼に連れられて帰った先で、明日香は久しぶりに深く、泥のような眠りに落ちた。 体の交わりはなかった。ただ、冷え切った背中を温めるように、彼は朝まで明日香を抱きしめ続けてくれた。


これが恋なのか、あるいはただの逃避なのか。 分からないまま、明日香はその心地よさに、溺れるように身を委ねていくことになる。


カーテンの隙間から差し込む冬の柔らかな光と、どこか懐かしいバターの香りが、重かった明日香の意識をゆっくりと浮上させた。


(……あ、そっか。昨日、私……)


覚醒とともに、昨夜の記憶が断片的に蘇る。バーの止まり木、大きな手の温もり、情けないほど泣きじゃくった自分の声。見ず知らずの男の部屋で眠りにつくという、三十六歳にしてはあまりに無防備な夜。けれど、肌を合わせるような生々しい記憶だけが、どこを探しても見当たらなかった。


キッチンからは、トントントン、とリズム良く野菜を刻む音と、じゅうじゅうと何かが焼ける美味しそうな音が聞こえてくる。


「……名前、なんだっけ」


昨夜聞いたはずの彼の名前が、アルコールに溶けて思い出せない。明日香は小さく溜息をつき、這い出すようにベッドを抜けてトイレを借りた。鏡に映った自分の顔は、泣き腫らしたわりにはどこかすっきりとしていた。


リビングに戻ると、エプロン姿の彼が振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。


「おはよう。ちょうど出来たところだ。こっちへおいで」


促されるままダイニングテーブルにつくと、目の前に差し出されたのは、完璧な半熟に仕上げられた目玉焼きと、カリカリのベーコンを挟んだ厚切りのトーストサンドだった。添えられた湯気の立つコーヒーが、鼻腔をくすぐる。


「……いただきます」


一口かじると、小麦の甘みと塩気がじわっと口の中に広がった。彼は自分の席に座り、明日香のペースに合わせるようにゆっくりとコーヒーを啜っている。


「よく眠れた? 昨日はかなり疲れてたみたいだったから」

「……はい。びっくりするくらい、ぐっすり」 「それは良かった。今日はいい天気になりそうだよ。洗濯物がよく乾きそうだ」


昨夜の重い空気など嘘のように、彼はただの「日常」をそこに置いてくれた。裏切りや打算のない、ただ空気を共有するためだけの会話。名前もよく知らない男と囲む土曜日の食卓。 差し込む光の中で、トーストを噛み締める音だけが静かに響く。


何も起きない、何も求められない。 けれど、派遣先での無機質な人間関係や、元カレに突きつけられた「体だけの関係」でボロボロになっていた明日香の心に、その静かな時間は何よりも贅沢な処方箋のように染み渡っていった。

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