第9話 名前で呼びたい

朝、目覚ましのアラームより少し早く目が覚めた。

まだカーテンの隙間から差し込む光は弱くて、部屋の空気もひんやりしている。


枕元に置いたスマホの画面を、なんとなく確認する。

通知はひとつだけ。

昨日の夜、先輩から届いたメッセージの画面のまま、画面は止まっていた。


『卵焼き、また一緒に作ろうね。——深雪』


最後の署名の部分を、無意識に何度も読み返してしまう。


(……名前で、呼んでみたいな)


心の中だけでそう呟いて、慌てて布団をかぶる。

まだ何も始まっていないのに、すでに一歩踏み出したような気分になって、

自分で自分に照れてしまった。


大学へ向かう道は、少しずつ初夏の色が増えてきていた。

キャンパスの木々は若葉を濃くし、風が吹くたびにざわざわと心地いい音を立てる。


講義棟に入ると、いつもの教室の扉の前で、

先輩が髪をまとめ直している姿が目に入った。


「おはよう、悠人くん」


振り向いた彼女は、すでに笑っていた。

その当たり前みたいな笑顔が、いまだに信じられない。


「おはようございます、先輩」


舌が自然と“先輩”と呼ぶ。

昨夜、心の中で練習した「深雪さん」は、喉の手前で引き返していった。


(……名前で呼ぶって、こんなにハードル高かったか)


心の中で小さくため息をつく。


その日の講義は、やたらと眠気を誘う内容だった。

教授の声は一定で、ホワイトボードに書かれる文字も淡々としている。


俺の意識も、だんだん現実と夢の境界を行き来し始めたころ――

隣から、そっと小さな紙切れが滑り込んできた。


『寝たらダメ』


手書きの丸い文字。

思わず笑いそうになって、咳払いでごまかす。


その下に、ペンを走らせる。


『寝てません』


返すと、すぐにまた紙が戻ってきた。


『半分寝てる顔してる』


自覚はあったので、何も言えない。


『じゃあ先輩も、さっきあくびしてましたよね』


ちょっとした仕返しのつもりで書いた一文は、

予想外の反撃を連れてきた。


『深雪って呼んだら許す』


一瞬、息が止まった。

紙を見つめる視界が、じわっと広がる。


(……見られてた? 心の中)


もちろんそんなはずはない。

でも、タイミングが良すぎて、心臓の音が一気に早くなる。


どう返すか迷っていると、

隣から、くすっと小さな笑い声がした。


「顔、真っ赤」


耳元で囁かれて、危うく椅子からずり落ちそうになる。


「せ、先輩……」

「冗談だよ。授業中に声出させるのは、さすがに怒られちゃうから」


唇に人差し指を当てる仕草が、妙に反則的だった。


講義が終わると、先輩がノートを閉じながらこちらを見た。


「ね、さっきの手紙の話だけど」

「……はい」

「私、呼び方って結構大事だと思うの」


廊下へ続く扉の前で、学生たちがわっと押し寄せる中、

俺と先輩だけが少し遅れて教室を出た。


「“先輩”って呼ばれるの、嫌いじゃないよ」

「ですよね。なんか、しっくりきますし」

「でもね、ちょっとだけ寂しいときもある」


歩きながら、先輩は小さな声で続ける。


「“先輩”って、いつか終わる立場だから」


その言葉に、思わず足が止まりそうになった。


「来年には、卒業しちゃうでしょ? そしたら、ただの“知り合いのお姉さん”みたいな感じになっちゃうのかなって」


冗談めかして言ったつもりかもしれない。

けれど、俺にはその奥にある本音が、少しだけ聞こえた気がした。


「……じゃあ、なんて呼ばれたいんですか」


聞きながら、自分でも心臓がうるさい。


先輩は一瞬だけ考えるように目線を上げ、それから俺を見た。


「“藤堂さん”でも“深雪さん”でも、どっちでもいいよ」

「どっちでもって」

「呼ぶ人が、その方が近いって思える方で」


軽く笑ってそう言う彼女の横顔は、

いつもより少しだけ、期待しているように見えた。


昼休み。


学食はやはり混んでいたので、今日は大学の外の小さなカフェに入ることになった。

先輩が「行ってみたい」と言っていた店で、

窓際の二人席から、緩やかな坂道の街並みが見下ろせる。


「ここ、前から気になってたんだ」

「よく来るんですか?」

「たまにね。レポートの締め切り前とか、ここにこもってカフェインで殴り合いしてる」


あまりにも物騒な表現に、思わず笑う。


「悠人くんは、カフェで勉強とかする?」

「まだ慣れてなくて……静かすぎる場所だと逆に落ち着かなくて」

「じゃあ、ここくらいがちょうどいいかもね。ざわざわしてるのに、邪魔にならない音」


確かに、店内のざっくりしたBGMと、遠くの方の話し声が心地よい距離を保っている。

耳に刺さらない喧騒。

ここなら、長居しても疲れなさそうだ。


注文を終えて、テーブルに水が置かれる。

先輩はストローを指でくるくる回しながら、ふと呟いた。


「さっきの話の続きしてもいい?」

「さっきの……呼び方の、ですか」

「うん」


窓から差し込む光が、彼女の横顔を柔らかく照らす。


「私ね、高校のとき、ずっと名前で呼べなかった人がいたの」

「……そうなんですね」


胸の奥が少しだけざわつく。

それは、嫉妬なのか、不安なのか、自分でも判別できなかった。


「結局何も伝えられないまま卒業しちゃったんだけどね」


先輩は、笑っているのに、目は笑っていなかった。


「今でも、たまに夢に出てくるの。

その人のこと、結局一度も名前で呼べなかったなって」


胸のどこかがきゅっと縮む。


「……だから、かな」

「え?」

「“先輩”って呼ばれるの、嬉しいけど。

もし、私のことをもう少し大事に思ってくれる人がいるなら――

その人にだけは、名前で呼んでほしいなって思うの」


視線が、まっすぐこちらに向けられる。


逃げられない。

逃げたくない。


心臓の音が、耳の奥で鳴り響く。


「……じゃあ」


喉が乾いて、ひとつ息を飲む。


「“深雪さん”って、呼んでもいいですか」


言葉にした瞬間、テーブルの下で握っていた手に力がこもるのが分かった。


先輩は、驚いたように目を瞬かせ――

すぐに、ふわりと笑った。


「うん。いいよ。……すごく、嬉しい」


その笑顔を見た瞬間、胸がじんと熱くなった。


さっきまでざわついていた心の奥が、

一気にほどけていく感じがする。


「じゃあ、私も呼び方変えよっかな」


カフェラテが運ばれてきて、

ミルクの泡をスプーンでつつきながら、深雪さんが言う。


「え?」

「“真田くん”って、ちょっと他人行儀でしょ」

「そう、ですかね」

「私の中では、もう少し近いんだけどな」


さらっと、とんでもないことを言う。


「……じゃあ、なんて」

「“悠人くん”」


名前を呼ばれた瞬間、体温が一気に上がる。


たった四文字なのに、

その響きは、今までどんな言葉よりも甘かった。


「気に入ってもらえた?」

「……はい」


どうにか絞り出した声は、自分で驚くほどかすれていた。


深雪さんは、満足そうに笑った。


帰り道、キャンパスへ戻る坂道を並んで歩きながら、

ふと、彼女が空を見上げる。


「ね、悠人くん」


その呼び方が、まだくすぐったい。


「これからも、少しずつでいいから――

今みたいに、“ちゃんと呼べる関係”でいたいな」


軽い口調のようでいて、その言葉の奥には、

きっと彼女の過去から続く何かがあるのだろう。


「俺も、そうなりたいです」


気づけば、自然とそう答えていた。


置き去りにした初恋の場所から、

ようやく一歩、確かな足で踏み出せた気がした。


その夜。


机に向かってノートを開きながら、

ページの片隅に、ペンで小さく書く。


“深雪さん”。


隣に、もうひとつ書き足す。


“悠人くんって呼ばれた”。


文字にすると、余計に照れくさくて、

ノートを閉じたあと、しばらくベッドに顔をうずめた。


でも、心のどこかでは分かっていた。


今日という日は、確かにひとつの節目だ。


“先輩と後輩”から、

ほんの少しだけ違う場所に、足を踏み入れた日。


「……少しだけ、いや、かなり嬉しい」


誰にも聞こえないように呟いた言葉は、

部屋の白い天井に溶けて消えていった。


それでも胸の中には、

消えない温度だけが、確かに残っていた。

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君に選ばれなかった僕は、大学の年上先輩に溺愛されています もとこう @motokou0629

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