第8話 少しだけ、笑えた日

キッチンに残ったわずかな油の匂いが、昨夜の余韻を思い出させる。

卵焼きの甘い香りと、炒め物の湯気と、そして――藤堂先輩の笑い声。


「……夢じゃないんだよな」


起き抜けのぼんやりした頭で、シンクに並ぶ洗い終わった食器を眺めながら呟く。

スポンジでこすった跡が水滴になって光っているだけの、なんてことのない光景。

それなのに、胸の奥がやたらとくすぐったい。


昨日の最後に、ぽろっとこぼれた言葉。

「好きだな」。


自分の声で、自分の気持ちをはっきり聞いてしまったせいで、

もうごまかしようがなくなってしまった。


大学へ向かう道で、春の終わりかけの風が頬を撫でる。

桜はもうほとんど散って、代わりに若葉が目立ち始めていた。

新学期の浮ついた空気も薄れてきて、学生たちの足取りにも少し疲れが混じっている。


その中で、俺だけが妙にそわそわしていた。


(今日、先輩と顔合わせたら――どんな顔すればいいんだ)


昨日は、あまりに距離が近かった。

小さなキッチンで並んで立ち、卵を割って、笑い合って、同じ味を分け合った。


あれをただの“先輩・後輩”と言い張るには、

どこかで無理がある気がしていた。


午前の講義。


教室に入ると、いつものように先輩の姿があった。

窓際の席で、ノートを開きながらボールペンをくるくると回している。


「おはよう、悠人くん」


いつも通りの笑顔。

なのに、俺の方は「お、おはようございます」としか返せない。


席に腰を下ろしてからもしばらく落ち着かず、ペンを握る指先が妙に強張る。


(変じゃないかな……変に意識してるってバレてないかな)


視界の端に、先輩の横顔。

頬杖をついて窓の外を眺める仕草さえ、目に焼きつく。


ふと、先輩が視線をこちらに戻した。

目が合う。


「昨日の卵焼きさ」

「は、はい」

「朝ごはんでも食べた?」

「……はい」


素直に頷くと、先輩はちょっと誇らしげに胸を張った。


「じゃあ、成功だね」

「ええと、その……思ったより全然おいしくて」

「“思ったより”は余計だけど、まぁいいや」


小さく笑うその顔に、少しだけ肩の力が抜けた。


“ああ、先輩は先輩だ”。


俺が勝手に意識して空回っていただけで、

彼女はいつも通り、やさしくて、少しだけ意地悪で。


それが、妙に嬉しかった。


講義の途中、教授の早口についていけず、ノートの行がぐちゃぐちゃになった。

前半はまだいい。

後半になるにつれて、字がミミズみたいに這っている。


「……読めない」


小声で呟いた瞬間、隣から細い指が伸びてきて、俺のノートをそっと回された。


「うん、これは芸術的ね」

「す、すみません」

「謝ることじゃないけど。あとで、私のノート、写す?」


断ろうとした。

負担をかけたくなかったし、頼りすぎるのも違う気がして。


でも、先輩はそれを見越したみたいに、先に言った。


「私がね、写させたいだけなの」

「え?」

「勉強した証拠が誰かの役に立つのって、ちょっと嬉しいんだよ」


そう言って微笑む顔に、言葉を失う。


(ずるい……)


心の中でだけ、こっそり呟いた。

こんな言い方をされて、断れる人間がいるなら見てみたい。


「……じゃあ、お言葉に甘えて」

「よろしい」


ペン先で軽く俺のノートの隅をつつきながら、

先輩はいたずらっぽく笑った。


昼休み。


学食は混んでいたので、俺たちは前と同じ、校舎裏の小さな中庭に向かった。

風が通り抜けるその場所は、知っている人だけが静かに集まる隠れスポットになりつつある。


「今日は、お互いに買ったものだね」

「はい。……さすがに二日連続で料理は、まだ自信がなくて」

「いいのいいの。私もね、今朝はパンを焦がしました」


どこか誇らしげに言う先輩。

誇らしげに言っていい内容じゃない。


「パンって、トースターですよね?」

「そう。ちょっと目を離したら、真っ黒になってた」

「“ちょっと”がどれくらいなのか、すごく気になるんですけど」

「……朝のニュース一本分」


それは“ちょっと”とは言わない。


「先輩って、料理以外は完璧なイメージだったんですけど」

「やめて、そのイメージ。幻だから」

「幻、ですか?」

「うん。実態は、電気ケトルに味噌汁の素入れて爆発させた女だよ」


一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


「……え?」

「前にやったの。お湯沸かすのと、だしを取るのを同時に済ませたら効率いいかなって」


発想までは天才だと思う。

結果は恐ろしくて想像したくないが。


「その時、研究室の教授に本気で怒られた」

「そりゃそうですよ」

「“君は頭がいいのか悪いのかどっちなんだ”って」


先輩はそう言ってケラケラ笑った。

その笑い声につられて、俺も笑ってしまう。


(ああ、やっぱり――この人といると、楽だ)


少しずつ、昔の痛みが霞んでいく。

沙耶のことを思い出す時間が、減っている。


気づけば今は、先輩の表情や、声のトーンや、何気ない仕草ばかりを追っていた。


午後、図書館でノートを写すことになった。


窓際の席に並んで座り、先輩のノートを見せてもらいながら、

自分のページにペンを走らせる。


先輩の字は、丸くて読みやすかった。

ところどころに小さなイラストや矢印が描かれていて、

それがまた、教科書にはない温度を添えている。


「真田くん、集中してる?」

「はい。めちゃくちゃ読みやすいです、このノート」

「でしょ? 私の唯一の特技だから」

「“唯一”はさすがに謙遜しすぎじゃないですか」

「うーん。じゃあ、“貴重な”くらいにしておいて」


先輩は顎にペンを当てて少し考えるような仕草をし、

それからぽつりと付け足した。


「誰かに渡したときに、“ありがとう”って言ってもらえるものって、貴重でしょ?」


その一言が、静かな図書館の空気の中で、やけに大きく響いた気がした。


(……俺も、多分、そういう存在になりたいんだ)


誰かの役に立ちたい。

誰かの「ありがとう」の中に、自分がいたい。


それは、かつて沙耶に抱いていた一方的な“憧れ”とは違う、

もっと具体的で、近くて、あたたかい願いだった。


ノート写しがひと段落ついた頃、

先輩がふと、自分のスマホを取り出した。


「ねえ、悠人くん」

「はい」

「連絡先、交換してもいい?」


一瞬、時間が止まる。


「……俺なんかでいいんですか?」

「“俺なんか”禁止。昨日料理教えてくれた先生だよ? 

これからも色々頼りたいんだから」


当然みたいに言われて、

さっきまでの緊張が、少しだけほどけた。


スマホを差し出し合って、IDを交換する。

画面に「藤堂深雪」という名前が表示された瞬間、

胸の奥に何かが刻まれた気がした。


(もう、簡単には後戻りできないな)


嬉しいような、怖いような感覚。

でも、どちらかといえば――圧倒的に嬉しかった。


アパートに戻った夜。


机に向かって課題に取り組んでいると、

スマホが小さく震えた。


画面には、「藤堂先輩」の名前。


“今日はありがとう。

ノート写し、助かりました。

卵焼き、また作ろうね。

——深雪”


たった数行のメッセージなのに、

心臓が痛いくらいに跳ねた。


指が勝手に返信を書き始める。


“こちらこそありがとうございました。

ノート、本当に分かりやすかったです。

卵焼き、また一緒に作りましょう。”


送信ボタンを押したあと、ベッドに突っ伏した。


「……恥ずかしい」


でも、自然と笑えていた。


少し前の自分なら、

夜にひとりで笑うなんて想像もしなかった。


あの日、振られた翌日に見上げた空は、

やけに冷たくて遠かったけれど。


今、窓の外に見える夜空は、

少しだけ近く感じる。


少なくとも――もう、ひとりで震えているだけの夜じゃない。


スマホの画面に、先輩の名前が小さく灯る。


その光を見ているだけで、

胸の奥に、静かな温度が宿った。


「……今日も、少しだけ笑えたな」


誰に聞かせるわけでもなく呟いたその言葉は、

これまでの自分とは少し違う、

新しい一歩の形をしていた。

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