2 竹林を駆ける②

 咲は束の間、瞑目する。


 輿入れから三日目の今宵。屋敷中に、気弱な夫には似つかわしくないほどの不穏な空気が漂うことを察した時、心のどこかで覚悟していた。


 そうか、父は謀反に遭ったのか。しかしそれならば、信頼できる者の助けを必要としているのは咲ではなく、弟匡総まさふさではあるまいか。


「若き獅子王の傅役が、なぜこのような竹藪に」

「匡総様のご命令で姫様をお迎えに参りました。金獅子を従える血筋を絶やしてはならない。姫様は生き延びねばならぬのです」


 つまり、匡総の命も安全とは言い難いのだろう。金獅子を従える血を持つ者は今や姉弟二人きり。咲と匡総が命を落とせば、獅子の国は龍の国に併呑されかねない。そればかりか、異界の幻獣である金獅子は枷を失い、この島国を蹂躙するかもしれない。


「それで、匡総が最も信頼しているそなたが私を迎えに来たのか。だが、人の頭の中は覗けぬもの。浦部うらべ春臣はるおみこそが龍王に寝返った筆頭であるかもしれない。潔白を証明できるのか」

「できません」


 春臣は拍子抜けするほど淡々と言葉を紡ぐ。


「ですが、私は嘘など申しません。もし私が裏切ったのならば、その時にこそ舌を噛み切りでもすれば良い」


 気性が荒いと言われ続けて十八年の咲ですら思わず呆気に取られるようなことを捲し立て、春臣は腰を上げる。


「こうしている間にも、追っ手が迫ります。まずは逃げましょう」

「どこへ」

「山奥です。敵はきっと、姫様は血を消し去ることを第一に考え、海に逃げると推測するはずですから、裏をかくのです。その後のことは状況に応じて対処しましょう」


 さあ、と差し出された手を取り立ち上がり、足首に走った激痛に顔を顰める。春臣が首を傾けた。


「怪我をなさったのですか」

「足を挫いてしまったようだ」

「では私の背に」

「正気か? 人を背負って山を越えるというのか」

「ならば姫様、ご自身で走れますか」

「……わかりきったことを訊くな」


 眼前でしゃがみ込む春臣の背中を睨んでから、咲は足を庇いつつその背にしがみ付く。途端に視界が高くなるのだが、辺りにはぼんやりとした影しか見えない。あいにく、屋敷から持ち出した行燈はどこかへ行ってしまった上に、春臣は光源を持っていなかった。


「暗闇の中、道がわかるのか。そもそも、どうやって私を見つけた」

「竹林の神々が導いてくださいました」

「竹林の?」


 春臣が頷く気配がした。


「ご存じの通り我が父は、北朝龍の国の神祇官でした。その血を引く私には、八百万の神々が放つ気が、淡く光って見えるのです。長い時を生きた動植物は、龍神の息吹を浴びて神になるでしょう。つまり、自然物の集合体である山中は、私にとって暗闇ではないということです」

「春臣は武官だろう」

「無論、心は武官ですが、血筋は紛れもなく神祇官です」


 獅子の国は武を、龍の国は神の啓示をそれぞれ尊ぶ。南朝獅子の国が多数の武官を擁するように、北朝は占いにより神の声を受け取る神祇官を多く抱えているのだ。


 神祇官でなくとも神々が放つ神気が光となり見える者はいるが、あいにく咲は、そちらの素質には恵まれなかった。


 咲は、春臣の息が上がっていないことを確認してから訊いた。


「城でいったい何があった」


秦谷はたや一族が北と通じていたのです。婚姻のため城を出られた姫様を、折を見て捕える計画があったようです」

「父上の腹心であった秦谷が? 秦谷の娘……ゆうが、先月匡総に輿入れしたばかりではないか。もしや我が夫、いや、あの気弱者も秦谷に丸め込まれていたのか」

「おそらく」


 祝言の御神酒で腹を壊したと言い、ほとんど言葉を交わさなかった弱々しい夫の顔が宵闇に浮かび上がり、咲は歯噛みした。


「なぜ秦谷は裏切った」

「北の神祇官が接触したようです。近年天災が続くのは、古くよりこの島国を治めている龍神を獅子王家が軽んじているからであると御占みうらに出たのだとか」

「そのような戯言を」

「龍の国の神祇官が行う御占は、半分以上が偽りです。ですが、虚構が国を動かすのはままあること」

「真偽はともかく、獅子王家を悪と断じた御占に基づく行動ならば、かの国の目的は、獅子王家を根絶やしにすることか? てっきり、私を利用して金獅子を意のままにしたいのかと思っていたぞ。では、弟匡総の命も危ういのか」

「私はすぐに城を出ましたから、現状はわかりません。一つ確かなことは、今や獅子王家の血が絶えかけており、姫様はその最後の一人になる可能性があるということ」

「なるほど。ならば話は単純だ」


 咲は、帯に挿した懐刀を撫でた。


「決して捕らわれることなく、生きて逃げる。ならばこの刀の出番はまだ先か」


 春臣が腹の奥に裏切りの謀略を抱えていないとも限らない。だが、自力で歩くこともできぬ咲にとっては、彼だけが唯一頼ることのできる存在だった。


 布地を通じて、春臣の背中の熱を感じる。冬が去り花が咲き始める季節とはいえ、夜気はまだ冷える。咲は、春臣の首に回した腕に少し力を込め、身体を寄せた。

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