獅子王家の最後の姫

平本りこ

1 竹林を駆ける①

 どこか、死ぬのに相応しい場所はないか。


 深夜の竹林を縫うように駆け、さきは荒い息の合間に思考を巡らせた。


 追っ手の気配が迫っている。逃げ切ることは不可能だ。夫の屋敷を出る際に持ち出した行燈からはぼんやりと朱色の明かりが漏れ出して、咲の居場所を皆に知らせている。


 身を隠すには都合が悪い。とはいえ、月のない晩のこと。明かりなしに竹林を走り回ることなどできやしない。唯一の光源を捨てるわけにもいかぬのだ。


 咲は、気の強そうな大きな切れ長の目で辺りを見回して、行き先も決めぬまま、無謀にも走り続ける。


 男まさりとはいえ、十八歳の姫君である咲の体力は、無尽蔵ではない。いつかは追っ手に捕らえられ、敵の王に献上されるだろう。実際、咲を追う武官たちは、「龍王の元へお連れ申す」と述べて咲を捕えようとした。


 それだけは、あってはならない。敵に利用されるくらいならば、命を捨てるべし。幼少の頃より、繰り返し言い聞かせられてきたのだから、とうに覚悟はできていた。


 相応しい死に場所さえあればすぐにでも、懐刀で喉を掻っ切り果てて見せよう。だが可能ならば、この体に流れる血を一滴たりとも敵の手に渡してはならない。それが、獅子王家ししおうけに生まれた者の最後の務めである。


 全力疾走に酷使され続けた全身が、声なき悲鳴を上げている。肺と心臓が破裂しそうに痛む。喉の奥から金臭い味が込み上げて、自分の呼吸音で鼓膜がおかしくなりそうだ。


「あ……」


 体力の限界だったのだろう。裸足の爪先が木の根を蹴り、身体が宙に投げ出された。急所を庇おうとした拍子に手から離れた行燈が、一足先に斜面を滑る。咲は身体を丸め、斜めに繁茂する篠笹の間を転がった。やがて、ひときわ竹が密集する辺りで背中を打ち付けて、辛うじて滑落を免れた。


 全身が痛む。頬や腕などに小さな切り傷ができ血が滲んでいるが流血はない。咲はひとまず安堵する。蹲り痛みの波が引くのを待ってから、毅然と呟いた。


「海へ行こう」


 そして、この身を海底に沈め、永劫に浮かび上がらぬようにするのだ。荒れ狂う大海原の景色を思い浮かべ、息を整えてから腰を上げる。その途端、足首に激痛が走り、思わず片足を浮かせて尻もちをついた。


 小袖の裾を持ち上げて足首に手を沿わせると、熱を持ち腫れている。どうやら酷い捻挫を負ってしまったらしい。これでは海へ出るどころか、夫の屋敷の裏山であるこの竹林を抜けることすらできぬだろう。


 ここまでか。咲は懐刀を取り出して、漆に金箔が散りばめられた鞘を撫でる。


 金箔の桜吹雪は、咲の生家にのみ許された意匠だ。異界の幻獣である獰猛な金獅子きんじしを従える血を身に宿す血族という立場を利用して、島国の南半分を統治する獅子王家。その一の姫が咲である。本来ならば、履物もなく夜間に山中を逃げ回らねばならぬほど落ちぶれた存在ではないはずだ。


 しかし、金箔の鞘を見て咲の脳裏に浮かぶのは自己憐憫でも憤怒でもなく、不甲斐なさだった。


 咲はおもむろに鞘を抜く。研ぎ澄まされた白刃も、宵闇の中では黒く禍々しく沈んで見える。


 敵の目と鼻の先で果てれば、流れ出た血液は乾ききる前に回収されて、金獅子を操ることに利用されてしまうかもしれない。そうなれば、敵の手が届かぬ場所まで逃げることができなかった咲の咎だ。とはいえ、生きてこの身を利用されるよりはましである。


匡総まさふさ、あとは頼んだぞ」


 生死もわからぬ年子の弟の名を呟き、咲は自身の心臓の真上に切っ先を突き付けた。柄を強く握り締め、大きく息を吸い、覚悟を決めた。その時だ。


 背後から何者かの腕が伸び、懐刀が弾き飛ばされた。何が起こったのか理解が追い付くよりも前に、背中から抱きかかえるようにして全身を拘束される。反射的に飛び出しかけた声は、押し付けられた手のひらで封じられた。


 腰に触れた柄から、相手は帯刀した武官だと知れる。もしや龍王の手の者か。


 咲は咄嗟に武官の手のひらに嚙み付いた。突然の抵抗に驚いたのか、小さな呻き声とともに、咲の口を覆っていた圧が緩む。その隙に身をよじり声を上げた。


「触れるな、無礼者! 龍王の元へ連れて行くというのなら、今この場で舌を噛み切ってでも死ぬ」


 新たな敵を呼ばぬよう、ひそめた声量であったが、語気の鋭さに相手は束の間息を呑む。


 隙あらば逃げ出そうとして暴れ始めた咲の身体を再び強く抑え込んでから、彼は切迫した声音で囁いた。


「咲姫様、落ち着いてください。私です。弟君匡総まさふさ様の傅役もりやく浦部うらべ春臣はるおみです」


「浦部……春臣?」


 思わぬ名乗りに動きを止め、咲は首を巡らせて背後の男の顔を見た。


 暗がりの中、ぼんやりとした輪郭が浮かぶだけで、顔立ちは判然としない。しかし、低く穏やかだが明瞭に耳に届くその声は、幼少の頃より聞き慣れたものだった。


「春臣、本当に春臣なのか?」


 疑念が入り混じった声音ながらも、咲が対話する姿勢を見せたことでやや安堵したのだろう。春臣は小さく息を吐いてから拘束を解いた。


「突然のご無礼をお許しください。ですが、自刃などしてはなりません」

「この血を利用されるくらいならば、いっそ潔い死を。獅子王家に生まれた者の務めだ」

「なれど今ではない。獅子王陛下はあなたに逃げよと仰せです」

「父上が? ご無事なのか?」

「いいえ」


 春臣は言葉を濁すことなく答えた。


「謀反人に追い詰められて、御自ら水路に身を投げ崩御されました。獅子王は今や、姫様の弟君、匡総様です」

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