第2話 遭難配信者と、一石の衝撃


 アリスは泥と枯れ葉にまみれた身体を小さく丸め、茂みの陰で息を殺していた。

 心臓が早鐘を打っている。

 肺が酸素を求めて悲鳴を上げているが、深く吸い込むことすら許されない。呼吸音ひとつで、命が刈り取られる状況だった。


 (……バレてない。まだ、バレてない……はず)


 数メートル先。

 木漏れ日が差し込む開けた場所で、信じられない光景が広がっていた。

 男が一人、キャンプをしているのだ。


 整えられた石積みのかまど。

 パチパチと爆ぜる、手入れされた焚き火。

 そして鉄板の上で焼かれている、分厚いベーコンブロック。


 脂が焦げる香ばしい匂いが、風に乗って漂ってくる。

 アリスの空っぽの胃袋が、恥ずかしいほどの音を立てて収縮した。昨日の夜から、携行食のビスケット一枚しか口にしていない。


 (美味しそう……じゃなくて! なんでこんな所に人がいるの!?)


 ここはS級ダンジョン『奈落の森』の深層だ。

 地上とは魔素の濃度が違う。呼吸するだけで肺が焼けつくような致死エリア。

 アリスのようなD級探索者が足を踏み入れていい場所ではない。

 それなのに、あの男はまるで自宅の庭でくつろぐかのように、平然とビールを飲んでいる。


 助けを求めたい。

 喉まで出かかった声を、アリスは必死に飲み込んだ。男が怖いからではない。

 男の背後にある闇の奥から、二つの赤い光がギラリと輝いたからだ。


 ――グルル、ルゥ……。


 地獄の底から響くような唸り声。

 漆黒の体毛に覆われた巨体。鋼鉄をも噛み砕く顎。

 ヘルハウンドだ。推定Lv.90。

 一度狙った獲物は地獄の果てまで追いかける、深層の処刑人。


 (ここまで追ってきたの……!?)


 アリスの身体がガタガタと震え出した。

 数時間前、中層での配信中に突如現れた“落とし穴(トラップ)”によって、アリスは深層へと滑落した。

 運悪く、そこはヘルハウンドの縄張りだった。

 機材の大半を囮にして、泥水をすすりながら逃げ回り、ようやく撒いたと思っていたのに。


 ヘルハウンドの濡れた鼻先がひくつく。

 奴は迷っていた。

 目の前には、無防備に背中を晒して肉を焼く男。

 そして茂みの中には、疲弊しきった小娘(アリス)。

 どちらから喰らうべきか、品定めをしているのだ。


 (ごめんなさい、ごめんなさい……私のせいで……!)


 アリスの目から涙が滲む。

 このままでは、あの無関係なキャンパーも巻き添えになる。

 叫んで知らせるべきだ。逃げて、後ろに化け物がいる、と。

 だが、恐怖で声帯が凍りついたように動かない。


 手の中にあるのは、画面のひび割れたドローン操作端末だけ。

 アリスは、崖っぷちの配信者だった。

 実力はあると言われた。探索技術も磨いた。けれど、いつだって「運」が悪かった。

 ボス戦のクライマックスでカメラが故障したり、配信中に他の大手チャンネルが祭りを始めたり。

 努力しても、努力しても、数字は残酷なまでに伸びなかった。


 (ここで死ぬのかな。誰にも見られず、再生数ゼロのまま)


 不意に、操作端末の画面が明滅した。


 『緊急記録モード』


 (……これなら、深層でも撮れる。記録を残さなきゃ)


 探索者としての生存本能。

 そして、心の奥底で燻る、配信者としての業(ごう)。


 (この映像は……もし生きて帰れたら、絶対にバズる)


 不謹慎だとは分かっている。

 それでも、アリスは震える指で『REC』ボタンを押した。

 透明化したドローンのレンズカバーが静かに開き、死の舞台を映し出す。


 その直後。

 ヘルハウンドが動いた。

 地面を蹴る音すらさせず、闇の中から弾丸のように飛び出す。

 標的は――肉を焼く男の背中。


「あ……っ!」


 アリスの口から、小さな悲鳴が漏れた。

 間に合わない。

 あの人の首が、飛び散る。


 ◇◇◇


 ……妙な気配がする。


 俺は『ドライスター』のプルタブに指をかけながら、内心で深く溜息をついた。

 せっかくの最高の一杯が台無しだ。


 俺の背後、数メートルの茂み。

 そこに「人間」がいることは、数分前から気づいていた。

 微かな呼吸音。泥と汗の匂い。そして極限状態特有の、鉄錆のような血の匂い。

 おそらく遭難者だ。それも、かなり若い。


 (面倒だな……)


 俺がこの深層まで降りてきた理由はただ一つ。「静寂」だ。

 誰の視線も感じず、誰の期待も背負わず、ただ自分のためだけに時間を使いたい。

 人助けをするつもりもなければ、ごっこ遊びのような探索者パーティに加わるつもりもない。

 向こうが出てこないなら、このまま無視して肉を食うつもりだった。


 だが、招かれざる客はもう一匹いた。


 風上から漂ってくる、腐肉と獣の悪臭。

 野良犬だ。

 地上の図鑑では「ヘルハウンド」とかいう大層な名前で呼ばれ、災害指定されている魔獣らしいが、俺にとってはただの獰猛な害獣に過ぎない。

 キャンプ場のゴミを漁るカラスや、食卓の周りを飛び回るハエと同じだ。


 野良犬は、茂みの中の遭難者と、俺の手元のベーコンを交互に睨んでいるようだった。

 殺気が肌を刺す。

 奴の筋肉が収縮し、重心が低くなるのが「気配」で分かる。

 飛びかかる予備動作(セットポジション)だ。


 (……チッ)


 俺は舌打ちをした。

 関わりたくはない。

 だが、せっかくの聖域(キャンプ地)で、目の前で人間が食い殺されるのを見ながら飯を食うのは、もっと御免だ。

 血飛沫が飛べばビールが不味くなるし、死体の処理も面倒くさい。何より、そんな夢見の悪い光景を脳裏に焼き付けたくはない。


 俺は足元に転がっていた、親指大の小石を無造作に拾い上げた。

 視線は焚き火の炎に向けたまま。

 身体の軸も動かさない。

 ただ、小石を握った右手を、だらりと下げる。


「グルァァッ!」


 空気が裂けた。

 野良犬が地面を蹴ったのだ。

 速い。

 一般の探索者なら、瞬きする間に喉笛を喰いちぎられる速度だ。

 音速に近い突進。質量を持った死の塊。


 ――だが、【選球眼】を持つ俺の視界では、世界は泥のように重く、遅い。


 奴の軌道が見える。

 筋肉の動き、牙の角度、着地予想地点。すべてがスローモーション映像のように脳内で解析される。


 (盗塁のスタートにしては、あまりにも初動が大きすぎる)


 完全にモーションを盗んでいる。

 これなら、振り向く必要すらない。


 俺は手首のスナップだけで、小石を弾いた。

 肩も肘も使わない。指先のリリースと手首の返しのみ。

 野球で言うところの【牽制球(スナップスロー)】だ。

 リードを取りすぎた走者の不意を突き、刺すためだけの、予備動作のない送球。


 ――パァンッ!!


 森の静寂を破り、空気が破裂する音が轟いた。

 指先から放たれた小石は、瞬時に音速を超えた。

 断熱圧縮で生じた衝撃波をまとい、物理的な弾丸となって、空中でヘルハウンドと交錯した。


 グシャリ。

 果物が潰れるような、湿った音が響く。


 次の瞬間には、ヘルハウンドの頭部は弾け飛んでいた。

 残された巨大な胴体だけが、慣性の法則に従って数メートル吹き飛び、地面を転がって動かなくなる。


 舞い上がった土煙が、風に流されていく。

 再び、森に静寂が戻った。


「……シッ。あっち行け」


 俺は野良犬(だったもの)に興味を失い、手の埃を払った。

 血生臭くなる前に、さっさと土に埋めないとな。

 幸い、ベーコンは無事だ。


 俺は缶のプルタブを引いた。


 プシュッ。


 軽い音と一緒に泡が立つ。

 焼き加減を確認し、俺はそのままビールを口に運んだ。


 ◇◇◇


 アリスは、自分の目が信じられなかった。

 呼吸をするのも忘れ、茂みの中で硬直していた。


 (え……? いま、なにが……?)


 何が起きたのか、まったく見えなかった。

 男は、ただ座っていただけだ。

 剣を抜いてもいないし、魔法の詠唱もしていない。

 ただ、軽く手を振ったように見えた直後、大砲を撃ったような破裂音がして――S級相当の魔獣の頭が、跡形もなく消し飛んでいた。


 (魔法……? ううん、魔力反応なんてなかった。ただの、石……?)


 S級モンスター、ヘルハウンド。

 熟練のフルパーティでさえ、犠牲を覚悟して挑む相手だ。

 それが、たかが石ころ一つで?

 しかも、男は肉を焼く手すら止めていない。まるで、まとわりつく羽虫でも追い払ったかのような態度で。


 アリスの手の中で、操作端末が微かに震えている。

 緊急記録モードは、今の光景を捉えていたはずだ。

 画面を覗き込む。


 ――同接数:48人


 普段なら一桁の視聴者数が、じわじわ増え始めている。

 コメント欄が、ポツポツと流れ始めていた。


『え?』

『今のなに?』

『ヘルハウンドが一瞬で溶けたぞ』

『このおっさん何者?』

『石投げた? 石で死んだの?』


 アリスの背筋に、恐怖とは違う種類の震えが走った。

 この人は、一体何者なんだろう。

 ただの遭難者じゃない。こんな深層で、たった一人でキャンプを楽しめるほどの怪物。


 (声を……かけても、いいのかな)


 助けてもらった形になる。お礼を言うべきだ。

 けれど、不用意に近づけば、あのヘルハウンドのように消し飛ばされるかもしれないという本能的な恐怖が足を止める。


 その時。

 風向きが変わった。


 森の奥から、先ほどの野良犬とは比べ物にならない、圧倒的なプレッシャーが近づいてくるのを肌で感じた。

 空気が重くなる。

 鳥たちのさえずりが止まり、森全体が畏怖するように沈黙する。


 (なにか、来る……!)


 アリスはガタガタと震えながら空を見上げた。

 だが、目の前の男は、近づいてくる災厄になど気づいていないかのように、静かに**缶**を傾けていた。


---


**【本日のキャンプメモ】**

**一言:** 牽制球(けんせいきゅう)。走者を釘付けにする技術だが、害獣退治にも使える。手首のスナップだけで投げるのがコツだ。肩を消耗せずに済むからな。


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――――――――――――作者からのお願い―――――――――――

読んでいただきありがとうございます。


ヘルハウンドを一撃で粉砕する牽制球、いかがでしたか?

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次話、いよいよドラゴン襲来。

そして伝説の「場外ホームラン」が生まれます。必見です!

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