第9話 海岸通りに春が舞った日
《side B》
──どうして、弾き語りができるなんて言ったんだろう。
自分で言っておきながら、恥ずかしさが込み上げてくる。
きっと隣で笑っている綾瀬が、学校のときとは違って見えたからもしれない。屋上にいるときよりも、ずっと近くに感じる。風に揺れる髪の先まで、太陽の光をまとっているように見えた。
チューニングする姿をまじまじと見られて、少しだけ指先に緊張が走る。
いつもなら気にも留めない仕草なのに、綾瀬の視線を意識した途端、指先がぎこちなくなった。
「……笑わないで聞いてくれる?」
「笑うわけないじゃん!」
そう言って、綾瀬はまっすぐ俺を見つめてくる。その瞳は、夏の日差しを閉じ込めたようにきらきらと輝いていた。
「綾瀬……さすがに恥ずいから、前向いてて」
「わ、ごめん! 前向いてるね!」
慌てて姿勢を正した綾瀬は背筋をピンと伸ばして、膝の上で両手をぎゅっと握りしめている。なんだか、俺より綾瀬のほうが緊張しているように見えて──それが少しおかしくて、ふっと笑みがこぼれた。
軽くギターを鳴らして、咳払いをひとつ。
「じゃあ……『海岸通り』って曲、
曲が始まる前のMCみたいに呟いて、弦を弾き出した。
♬⋆.˚♬⋆.˚♬⋆.˚
──緊張したあ……。
弾き終えた瞬間、指先がじんじんと痺れ始めた。
はじめて誰かに聞かせた弾き語り。自分的には、まあよくできたほうだとは思うけれど──綾瀬は、どう思ったんだろう。
顔を上げると、前を向いていた彼女がゆっくりとこちらに顔を向けた。頬にかかる髪を風がさらって、日差しに煌めく。
その瞳はさっきよりもずっと輝いていて、唇はきゅっと結ばれていた。
「どう、だった?」
そう聞かずにはいられなかった。
心臓がうるさい。こんなに緊張するのは、いつぶりだろうか。
「……すごかった、感動しちゃった! 亮くんだって歌上手いじゃん! ほんと、すごいよ!」
満面の笑みと大きな拍手。こわばっていた身体から、一気に力が抜けた。
喜んで、褒めてもらえたのが単純に嬉しい──だけではなくて、彼女の笑顔を間近で見られることが、なにより胸を満たしていた。
「よかった、そう言ってもらえて安心したわ」
「もったないないよ! 私が歌うより、亮くんが歌ったほうが絶対いいって!」
「それは……違う」
自然と声が少し低くなった。綾瀬の純粋なまでの笑顔を見ていると、つい本音を言いたくなる。
「俺は、綾瀬に歌ってほしい」
「……うん、私も、そう言ってもらえて嬉しい」
彼女は目を細めて、今度はやさしく笑う。それは夕凪みたいに静かで、儚い笑顔だと思った。
「『海岸通り』、だっけ? この曲は聞いてなかったから、帰ったらちゃんと聞くね」
「歌詞に『桜』とか『春』とか出てくるから、思いっきり季節外れの曲だったけど、いい曲なんだ」
綾瀬はにこりと笑って、小さく頷いた。
「海岸通りって、なんか屋上からの景色みたいだね。また屋上でも聞いてみたいな」
──屋上、か。
綾瀬と親しくなったのは、たったの半月前。あの日の海風や初めて綾瀬の歌声を聴いたときの衝撃、二人きりで過ごした時間がまざまざと蘇る。
彼女と出会って、音楽の楽しさをさらに知って、もっとギターを弾きたくて、もっと彼女に近づきたくて──。
「綾瀬ってさ……下の名前、なんだっけ?」
「莉緒、だけど?」
不思議そうに、きょとんと首を傾げる。はらりと揺れる髪の毛、長いまつ毛からのぞく綺麗な瞳。
何度も見たことのある顔なのに、こうして改めて見るとやけに眩しい。なのに、目が離せなくなってしまう。
「……莉緒」
思わず呼びかけた瞬間、しまった、と思った。
「あ、ごめん。なんか、また一人で舞い上がったかも。呼び捨てなんて嫌だよな」
「……ううん、全然」
彼女はうつむいて、弾き語りを聞いていたときみたいに姿勢を正した。
「むしろ……呼んでほしい、かも」
元気に笑った顔じゃなくて、恥じらうような赤みがかった頬。その仕草に、胸がぎゅっと締め付けられる。
そして、気がついた。以前にも感じた、心の中で何かが小さく弾ける音の正体。
たぶんこの感情は──まだ芽生えたばかりの、彼女を想う気持ちだ。
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