第7話 それでは、また夏休みに


 七月に入って、空気はすっかり夏の匂いになっていた。


 ──今日、亮くんに会える。


 待ちに待った一週間。

 その間に何度も口ずさんで、歌詞もメロディも頭に叩き込んだ。


 一歩一歩、階段を上って屋上のドアを開けると、熱を含んだ海風と一緒に蝉の声が押し寄せる。

 その真ん中で、亮くんがアコギを抱えて座っていた。

 

「お待たせ」

「全然。むしろ早いくらい」

「なんか、気が急いじゃって」


 屋上に来る前、亮くんから「チューニングするから、十分後くらいに来て」とメッセージが届いていた。

 でも、じっとなんてしていられない。気づいたら、私はスマホを握ったまま屋上へ向かっていた。


 亮くんは一弦ずつ音を確かめながら、左手でくるくるとをツマミのようなものを回していく。

 指先の動きは大事な物を扱うように静かで、丁寧で、なんだか見惚れてしまう。


「こんなの、見てても面白くないだろ」

「面白いよ! っていうか、すごいなあって感動してる。全然知らなかった世界だから、見るの楽しいよ」

「……そんなふうに見られると、なんか緊張するな」


 亮くんはそう言って笑いながら、もう一度弦を爪弾いた。

 風に揺れる前髪の隙間から覗く横顔は、真剣そのもの。指先が軽やかに動くたび、弦が小さく震えて音を立てる。

 その一音一音に、胸がくすぐられる。


「……やっぱ、かっこいい」

「え?」

「あ、いや、えと……ギターが! かっこいいなって!」

「そっか」


 頬が熱くなるのをごまかすように、わざとそっぽを向く。潮の香りを含んだ風が通り抜けて、ほんのり甘い空気が残った気がした。


「……よし、準備完了。綾瀬、いける?」

「うん……緊張するけど」

「大丈夫。俺もめっちゃ緊張してる」


 笑いながら言う亮くんの声に、少しだけ肩の力が抜けた。それでも心臓の音は、まだ落ち着いてくれない。


「じゃあ、はじめのコード鳴らすね」

「うん」


 彼の指が弦を撫でる。アコギの柔らかい音が、風に混じって広がっていった。


 ──夏の空に溶けていくみたい。


 小さく息を吸って、歌い出す。亮くんのギターと自分の声が、ゆっくりとひとつになっていく。

 彼の指が刻むリズムに合わせて、声を重ねていくうちに、緊張はすっかりどこかへ消えていた。


 風が吹いて、髪が揺れる。

 それでも、歌を止めたくなかった。いま、この瞬間だけは──亮くんと私の音が、ちゃんと重なっているから。


 ♬⋆.˚♬⋆.˚♬⋆.˚


 最後のコードが鳴り終わると、屋上に静けさが戻ってきた。蝉の声と、遠くの海のざわめきだけが響いている。


「すげぇな、綾瀬。俺の思ってた以上」

「……ほんと?」

「ほんとほんと。この曲ムズいって言ったじゃん。だけど抑揚もリズムも、マジで完璧」

「嬉しい……! ありがと!」


 これまで何度か「歌が上手い」って褒められたことはあったけれど、社交辞令のひとつだと思っていた。けれど亮くんに言われると、不思議と本当のことみたいに思えてしまう。

 それに亮くんのギターだって、聴いていて心地いい。私のことばかり褒めてくれるけれど、本当は亮くんの音のほうがずっと素敵だ。


「実はさ……このギター、夏休み中借りられることなったんだよね」

「じゃあ、これまで以上に弾けるようになるね」

「うん。でさ……」


 亮くんは少し視線を泳がせて、指先でギターの弦を軽く弾いた。

 その小さな音が屋上の静けさに吸い込まれたとき、亮くんがふと視線を上げて、まっすぐに私を見つめた。


「夏休みも、たまに会わない?」


 その言葉と、彼の視線に射抜かれる。鼓動が一拍遅れて、身体中にどくんと鳴り響いた。


「……え」

「いや、夏休み入ったら屋上来れなくなるしさ。ほら、会う機会がなくなるっていうか……」


 何かを言い訳するように、亮くんはもじもじと視線を落とした。

 やがて小さく息を吐いて、意を決したように口を開く。


「綾瀬の歌、もっと聞きたい」

「……っ、うん! 会う!」

「決まりな」


 お互い、照れくさそうに微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る