第5話 ほどけない曲を持ち寄って


 ──“また来週”。

 

 亮くんの言葉を何度も思い出しながら過ごした一週間は、いつもより少し長く感じた。

 授業中も、放課後も、恋に落ちたときよりも今のほうがずっと、亮くんのことを考えていた。


 そして今日。

 屋上のドアを開けた瞬間、潮の香りと一緒に風が吹き抜ける。ギターを膝に乗せた亮くんが、こちらを見上げて微笑んだ。


「よ、綾瀬」

「久しぶり、だね」


 たった一週間。

 廊下ですれ違ったり、姿を見たことはあったから、「久しぶり」なんて本当はおかしいけれど。それでも待ち遠しかった気持ちが抑えられなくて、その言葉が口をついて出ていた。


 ドアを閉めて鍵をかける。屋上の風が近づく夏の匂いをかすかに運んでいる。

 なびいた髪を耳にかけて、ギターを抱える亮くんの隣に腰を下ろした。


「覚えてきたよ」

「さすが」

「亮くんは、どう?」

「んー、まあ、なんとなく? サビは大丈夫」

「そっか。なんか……緊張するね」


 カラオケとは違う空間。好きな人が奏でる生演奏に、加工のない生の歌声。緊張しないほうがおかしいに決まっている。


「どっちから歌う?」


 亮くんは弦を軽く弾きながら、上目遣いでこちらを向いた。前髪の隙間から無防備な瞳がのぞく。その破壊力たるや。亮くんはきっと無自覚なんだろう。

 

「りょ、亮くんはどっちがいい?」

「俺は……あいみょんからかな。練習する時間あんまなかったし、自信ないほう先に弾きたいかも」

「忙しかったの?」

「いや、俺ギター持ってないって言ったじゃん? だから放課後の週三くらいでしか触れないんだよね」

「あ、そっか……」


 思っていた以上に少ない時間。その限られた中で、私と歌うためにギターを弾いてくれたことが嬉しかった。

 一弦一弦、亮くんはチューニングするように弦を鳴らす。すべての弦を弾いて、納得したように小さく首を縦に振った。

 

「……綾瀬は、いける?」

「うん」


 お互いの視線を合わせる。


 ──不思議……。


 声には出していないのに、自然と呼吸が合っていく。波の音も風の音も、私たちの呼吸に合わせるように通り過ぎていく。

 

 亮くんと呼吸がぴったりと合った瞬間──彼の指が弦をかき鳴らして、イントロが始まった。

 どこか頼りないけれど、それでも懸命な響き。

 そのリズムに合わせて、私は息を吸って歌い始めた。


 ♬⋆.˚♬⋆.˚♬⋆.˚


 ギターの音が止んだとき、屋上の空気がすうっと静まった。波の音とギターの余韻だけが心地よく残る。

 アウトロを弾き終えて、ひと息つく亮くんを見届けてから、私は大きな拍手を彼に向けた。


「……すごい! ギターって、かっこいいんだね! それに私、こんなに歌うのが楽しいって思ったのはじめてだよ!」


 亮くんは驚いたように目を瞬かせてから、照れくさそうに笑う。


「いや、綾瀬の歌が上手いから。だいぶ助けられたわ」

「全然! 亮くんのギターだって、すごいうまかったよ!」

「……さんきゅ」


 目を細めて、幼く笑った顔。何度見ても、心臓がきゅんとする。

 照れくささを隠すように、亮くんの弦をはらりと鳴らした。


「このまま、アジカンいってもいい?」

「もちろん!」


 大きく頷いて、また呼吸を合わせていく。

 ふっと亮くんの視線がギターの弦に移って、イントロのギターリフが爪弾かれた。

 さっきよりも滑らかな指の動き。好きな曲、きっかけの曲だから──亮くんは何度もこの曲を練習して、何度も弾いてきているんだろう。

 歌い出しのことろで、彼と目が合う。私は大きく息を吸って、彼の音色に歌を乗せた。


 ♬⋆.˚♬⋆.˚♬⋆.˚

 

「……はあー! 緊張した!」


 亮くんがアウトロのリフを弾き終えて、私は肺の奥まで溜め込んでいた空気を吐き出した。

 好きな人の好きな曲を、好きな人の前で歌う。体の芯まで熱くて、鼓動の音がまだうるさかったけれど、幸福感でいっぱいだった。


「やっぱ綾瀬すごいわ。めっちゃかっこよかった」

「そっ、そうかな」

「綾瀬に頼んで正解だったな。歌が上手い人に合わせると、自分も上手くなった気がする」

「さっきも言ったけど、亮くんだって上手いって」

「まあ、この曲は自信あったから」


 亮くんは得意げに鼻を鳴らして、満足そうに微笑んだ。その仕草は、やっぱり子どもみたいに可愛くて。

 けれど弾いているときの彼は、全然違った。何度も目が合って、指先が迷いなく動いていて──弾き慣れた人の余裕がそこにあった。

 

「かっこいい曲だよね」


 一週間前、初めて亮くんに聞かせてもらったときも同じことを言った。

 でも今は、あのときよりもずっと強くそう思う。

 

「だろ」

「失恋ソング、だよね。なのにメロディがバラードっぽくないし、歌詞も「つらい」とか「苦しい」ってあるわけじゃないのに、伝わってくるっていうか。なんか、うまく言えないけど、聞いてるうちにどんどんハマってった」

「そうなんだよ。歌詞がさ、今時のバンドっぽくないっていうの? アジカン聴いてると、現代文の偏差値が上がった気がするんだよね」


 そう言って笑った目の奥は、とても輝いてた。

 好きな人が好きなことを話してるときの顔が、こんなにも愛おしく映るなんて知らなかった。その顔を、いつか私自身のために見せてくれたら──なんて、それはきっと高望み。


 ──今は、亮くんのそばにいれるだけでじゅうぶん。


 彼と私を繋いでくれる、放課後の秘密。

 この時間が、ずっと続いてほしい──そのくらいなら、願ってもいいよね。

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