第1話 屋上の向こう
──やばいやばい! スマホ引き出しに忘れるなんて……!
放課後の廊下を全力で駆け抜ける。
高校二年生、スマホがないなんて死活問題。もはや世界の終わりレベルだ。
生徒たちはもう部活動やバイト、遊びとそれぞれの居場所へと散っている。下校時間を過ぎて行き交う人がいなくなった廊下は、迷宮に迷い込んだみたいに静かだった。
教室へ滑り込んで、勢いよく引き出しを開けて──。
「……あったぁ! よかったあ〜」
胸を撫で下ろして、スマホを握りしめる。
ほっとしたそのとき、廊下の向こうに影が動いた。ギターケースを背負った男の子が、ゆっくりと歩いていく。
耳にはイヤホン。傾き始めた日差しが差し込む廊下を、髪をなびかせながら通り過ぎていく。
その人物を、私はよく知っていた。
去年、同じクラスだった男の子。
明るい性格だけど、無駄に騒ぐタイプじゃない。ぱっちりした二重に高い鼻。影に隠れながら、女子からは割と人気のあるほう。
かくいう私も、彼のことが好きだった。
どうして好きなったのかは、もう覚えていない。
高校で初めて知り合って、席が近くなって、声や仕草、笑顔に惹かれてしまって──。
恋って、落ちるまでは単純明快。でも、一度でも落ちたら抜け出せない沼みたいに複雑怪奇。
気づいたら目で追っていて、ふとした笑顔に勝手に胸がときめく。他の女子に向ける笑顔に、少しだけ胸が痛むこともある。
そんな私の純度百パーセントの恋心は、学年が上がってクラスが離れても変わらなかった。
──亮くん、ギターなんて持ってたんだ……?
高一のときには、そんな話を聞いたことがなかった。
新しく始めたのだろうか。なら、いつから?
どんな曲を弾くのだろうか。たとえば、好きなアーティストは?
知りたい気持ちが止まらない。だって、もう二年も彼に気持ちを寄せているのだから。
だから、亮くんのあとをこっそりつけちゃったのも──たぶん自然なことだったんだ、と思うことにした。
♬⋆.˚♬⋆.˚♬⋆.˚
亮くんの足は、迷うことなく屋上へと向かっていた。
そして手慣れたように鍵をドアノブに差し込んで、眩しい光の中へ消えていく。
──なんでまた、屋上……?
屋上は常に施錠されていて、生徒は立ち入りできないようになっている。どうして亮くんは、鍵を持っているのだろう。
──なんかストーカーみたいだけど……。
少しの罪悪感を抱きつつ、ドアの前で聞き耳を立てる。ひやりと冷たい鉄の感触が耳に伝わった。
ほどなくして、聞こえてきたのは──ギターの音。
ところどころつっかかる、
──これ、亮くんが弾いているの……?
おそるおそるドアノブに手をかけると、なんの抵抗もなく、くるりと回った。
──鍵、空いてる……。
心臓がどくんと跳ねる。
どうしよう、入ってもいいのかな。そんな考えを押しのけるように、そろりとドアを開けて屋上へ一歩踏み出す。
音に導かれて、なんて言ってしまうのは都合のいい解釈。きっと私は、亮くんの弾いてるいる姿が見たかっただけ。
それでも、懸命に爪弾くその音に惹きつけられたのは、たしかな事実だった。
目に入ってきたのは、地べたに座ってアコースティックギターを抱えている彼の姿。
海風と一緒に亮くんの髪がふわりと揺れた瞬間──弦を押さえていた指が離れ、顔を上げた彼と目が合った。
「……あ、綾瀬?」
亮くんは少し驚いたように目を見開いた。
「わ、ごめん! 別にあとをついてきたわけじゃなくて……ギターの音が聞こえたから、その、つい……!」
なんて、自分でも苦しい言い訳だと思う。
「あー……鍵かけ忘れてたわ」
彼は頬をかきながら、照れくさそうに笑った。
「……とりあえず、こっち来る?」
「いいの……?」
「見られたままどっか行かれるほうが恥ずいじゃん」
もしかしたら、彼も言い訳をしたかったのかもしれない。
私はたどたどしくドアを閉めて、つまみを
──めっちゃ緊張するっ……!
隣の席にだってなったことなかったのに、心の準備もなく、いきなりこんな至近距離。亮くんに心臓の音まで聞こえそうで、落ち着く暇なんてなかった。
「下手だと思っただろ」
不意に亮くんが口を開く。照れてるけど、少しだけ拗ねたような声音だった。
「……えっ?」
「ギター」
「ぜっ、全然! 私、楽器弾けないし、すごいなって思ったよ!」
慌てて否定すると、彼は小さく肩をすくめた。
「去年の二月くらいからなんだよね。弾き始めたの」
「あ、じゃあ始めてから四ヶ月くらいなんだね」
私が会話を広げるよりも先に、亮くんが独り言のように会話を始める。その顔は恥ずかしさを抑えているようで、“聞かれるくらいなら、先に話す“みたいな強がりにも似た感じがした。
「ほんとはエレキが欲しかったんだけど、金が足りなくて買えなくてさ。星野先生に言ったら『音楽室にある俺のアコギ貸してやる』って、とりあえず借りてる」
「星野先生って……一年のときの担任?」
「うん。あの人、軽音の顧問もやってるから」
「へえ、初耳!」
星野先生は、三十代半ばくらいの眼鏡をかけた男性教師。優しくて、声を荒げながら怒ったところは見たことがない。でも、悪いことをしたら理詰めで
「星野先生、昔バンド組んでたんだって。それで話が合ってさ」
「先生が!? 意外」
どちらかというと、おとなしそうな先生だったから驚いた。あの先生がギターを持ってる姿なんて、想像できそうにない。
目を丸くしている最中、スカートのポケットの中で震えているスマホに気づいた。
《スマホあった?》
《おーい》
《
《だいじょぶ?》
画面には、昇降口で待ってもらってる友だちからのメッセージが並んでいた。
──忘れてた……!
《ごめん、先生につかまっちゃった! 先に行ってて!》
指が勝手に動いていた。
送信ボタンを押したあと、胸が少し痛む。嘘をついたのに、罪悪感より先に浮かんだのは──“もう少しここにいたい“っていう気持ち。
屋上の風が私たちを撫でていく。
抱えたギターに視線を落とす亮くんの顔は、海が煌めきを散らしているみたいに、きらきらして見えた。
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