空蝉の夢
月雲花風
空蝉の夢
昭和五十八年、九月。
奥羽山脈の懐へと分け入るバスの車窓は、執拗なまでの深緑に塗り潰されていた。
高石浩一は、几帳面に折り畳まれた資料と窓外の景色を交互に追う。
今回の出張は、ある企業の工場誘致に伴う事前調査だ。
目的地は『空蝉町(うつせみちょう)』。
古い地図に辛うじてその名を留めるだけの、近代化から見捨てられた陸の孤島である。
終点のバス停に降り立った瞬間、鼓膜を圧するほどの静寂が襲った。
肌にまとわりつくのは、重く湿った空気だ。
秋口だというのに、この場所だけは梅雨の終わりのような停滞した湿度に支配されている。
高石は眼鏡を外し、ハンカチで丁寧にレンズを拭った。
視界に一点の曇りも許さぬのが、彼の性分だ。
だが、どれほど拭き上げても、湿った大気がそれを拒む。
視界はどこか朧げなままであった。
「……やれやれ」
独り言を吐き捨て、予約した宿へと足を向ける。
町は死んだように静まり返り、人影はない。
黒ずんだ木材が湿気を吸い、道沿いの民家はどれも重苦しい色を放っていた。
ふと、視界の端で何かが蠢いた。
右手に建つ民家の屋根だ。
数百枚もの瓦が、巨大な爬虫類の鱗のように一斉に逆立ち、波打ったように見えた。
高石は足を止め、その屋根を凝視する。
……しかし、そこにあるのは苔むした無機質な瓦の列に過ぎない。
風もなく、生き物の気配もなかった。
「疲れているのか」
自分に言い聞かせ、地図を広げた。
高石は論理と規律を重んじる男だ。ルートも建物の配置も、完璧に把握していなければ気が済まない。
五分前、三叉路を右に曲がった。そこには傾いた街灯があったはずだ。
だが、今来た道を振り返ると、そこにあるのはただの直線だった。街灯など影も形もない。
目的地への道は不自然に歪み、地図にない細い路地が幾筋も枝分かれしている。
測量ミスか、地図の版が古すぎるのか。
胃の底に、冷たい氷の欠片を飲み込んだような違和感が宿る。
方位磁石を確認するが、指針は目的を失ったように震え、定まらない。
焦燥に駆られながら辿り着いた宿の看板には、『水月館』と刻まれていた。
「ごめんください。本日より宿泊する高石です」
呼び鈴を鳴らすと、奥から初老の男が姿を現した。
主人は高石の顔を見るなり、旧知の仲であるかのように破顔した。
「ああ、高石さん。お待ちしておりましたよ。今年もまた、この季節に来てくださるとは」
高石は絶句した。
この町を訪れるのは初めてだ。この宿の記憶など微塵もない。
「……失礼ですが、私は初対面のはずだ。何かの勘違いでは?」
主人はそれを冗談だと受け取ったのか、力なく笑った。
その瞳は、濁った水底のように感情が読み取れない。
「またまた、そんなことを。去年のあの晩、ここで一緒に酒を酌み交わしたじゃありませんか。ほら、山の方で熊が見つかった、あの騒ぎの時に……」
主人の語る細部は、あまりに具体的で、かつ親密だった。
記憶にないはずの光景が、主人の言葉を通じて、あたかも自分の経験であったかのように脳裏に像を結び始める。
高石はそれを必死に拒絶した。
秩序を重んじる彼にとって、記憶の不一致は自己の崩壊に等しい。
「私は、初めて来たんです。仕事で、調査のために」
声を荒らげる高石の肩を、主人は湿った手袋のような手で軽く叩いた。
「ええ、ええ、分かっておりますとも。さあ、中へ。お部屋は、いつもの場所を用意してありますから」
案内された部屋は、迷路のような廊下と階段の先にあった。
歩くたび、感覚が決定的に狂い始める。
先ほど通った廊下の長さが、戻る時には倍以上に伸びている。
窓外の庭も、一瞥するたびに木々の配置を変えていた。
空間そのものが、呼吸に合わせて形を歪めているような、得体の知れない流動性。
部屋に入り一人になると、高石は畳に座り込み、荒い息を整えた。
カバンからペンを取り出し、今日の出来事を時系列に書き出そうとする。
しかし、ペン先が紙に触れる直前、彼は気づいてしまった。
手首に巻かれた腕時計の針が、狂ったように逆回転を始めていることに。
壁の隙間からは、風の音でも虫の音でもなく、何百人もの人間が同時に囁き合うような、意味をなさない「音の塊」が漏れ聞こえてくる。
この町は何かが決定的に欠落しており、同時に、何かが過剰に充満している。
高石浩一の、答えのない滞在が始まった。
昨夜、「水月館」で交わした不可解な対話は、眠りとともに霧散してはくれなかった。
高石浩一は、重く湿った布団の感触を肌に引きずったまま、早朝の空蝉町を歩いていた。
街路を包む空気は、冷気というよりは密度の高い粘土に近い。肺の奥にこびりつくような、不快な重みがあった。
几帳面に整えられた手帳を開く。
「やるべきこと」の筆頭。滞在手続きのため、彼は町役場へと足を向けた。
役場の建物は、昭和初期を思わせる古びたコンクリート造りだった。
正面玄関に自動ドアはない。重い木製の扉を肩で押し開ける。
その瞬間、鼓膜を打ったのは、異常な響きを伴う時計の刻音だった。
ホールの中央に据えられた巨大な柱時計。
その針は、あろうことか反時計回りに動いていた。
三秒ほど静止したかと思えば、次の瞬間には一気に五秒分も跳ね戻る。不規則極まりないリズム。
高石は眉をひそめ、自身の腕時計に目を落とした。
その秒針もまた、柱時計の狂気に呼応するように、痙攣した虫の足のような動きを見せていた。
「……失礼します。滞在の手続きを」
窓口へ歩み寄ると、一人の女性が座っていた。
名札には「伊波佐苗」とある。
彼女は、高石が近づく前から、人形のように固定された姿勢でそこにいた。
瞳に光はない。底の見えない深い淵を覗き込んでいるような錯覚。
彼女は表情を一切変えず、応じた。
「書類はこちらです。必要事項を正確に。一文字の誤差も、一画の欠損も許されません」
人の喉から発せられたものとは思えない、無機質な声だった。
劣化しきった古い録音テープを再生しているような。
高石が書類にペンを走らせる間も、彼女は瞬き一つせず、高石の「動き」そのものを検品するかのような視線を注ぎ続けていた。
ふと、視界の端に違和感を覚えた。
窓口の奥へと続く廊下が、白く濁った霧に包まれている。
それは気象現象ではない。
廊下の輪郭を、壁の質感を、存在すべき空間の奥行きを、物理的に削ぎ落としていくような「実体を持った虚無」だった。
しかし、目の前の女は、その異常を視界に入れているはずなのに、微塵も動揺を見せない。
「……あの、奥の霧は一体何なのですか。それに、あの時計も」
高石が震える指で柱時計を指すと、佐苗はゆっくりと、機械的な予備動作を伴って首を巡らせた。
そして、世界の絶対法則を述べるかのような口調で、淡々と言った。
「昨日の町と今日の町が、続きである必要はありません。あなたが昨日食べた食事と今日の食事が同じである必要がないのと、同義です」
「そんな論理があるか。昨日、宿の主人は私を知っていると言った。そして今日は、時計の法則そのものが崩壊している。あなたには、これが見えていないのか」
高石の訴えに対し、佐苗は静かに書類を受け取った。
指先がわずかに高石の手の甲に触れる。氷のように冷たく、血の通っていない感触。
彼女は窓の外を、顎でしゃくった。
景色は一変していた。
空は灰色を通り越し、既存の言語では定義できない、虹を裏返したような色彩へと移ろっている。
さらに、町の家々、街灯、アスファルトの路面が、まるで巨大な肺の一部であるかのように、ゆっくりと膨張し、次の瞬間には吸い込まれるように収束していく。
「呼吸」しているのだ。町そのものが。
「定位置に留まること。それがこの町での唯一の正解です。変化を数えるのはおやめなさい。砂漠で砂粒を数えるよりも無意味な行為ですから」
佐苗の言葉を聞くうちに、高石は奇妙な感覚に陥った。
この徹底して無機質で、変化を拒絶する女の佇まいこそが、狂い始めた空間を「日常」という枠組みに繋ぎ止めている重石ではないのか。
彼女が平然と事務作業を続けているからこそ、世界は完全に崩壊せずに済んでいるのではないか。
信じてきた論理、秩序、正解という名の地平が、足元から音を立てて溶解していく。
高石は、書類を受理した彼女の、光のない瞳に映る自分の顔を見た。
そこには、正気を失いかけた男の、醜く歪んだ表情だけが浮かんでいた。
外では、呼吸を繰り返す町が、また一つ大きく膨らんだ。
窓ガラスが、軋むような音を立てた。
町外れの「笹森古道具店」は、朽ちた木材と錆びたトタンの堆積だった。
巨大な墓標。あるいは、都市が排泄した残骸。
高石浩一は、不規則に脈動する足元の地面を呪いながら、重い引き戸を引いた。
湿った空気。墨汁の匂い。
そして、古い紙が腐敗していく時に放つ、粘りつくような甘み。
店内に並んでいるのは「道具」の死体ばかりだ。
脚の長さが揃わぬ机、眼窩のない窓枠、用途不明の、歪な金属の塊。
奥の帳場で、店主の笹森善治が筆を走らせていた。
傍らの古い短波ラジオが、砂を噛むようなノイズを吐き出し続けている。
それは時折、何かの呻き声のように聞こえた。
笹森は高石に気づきながらも、筆を止めない。
和紙の上に黒々と書き殴られていたのは、精緻を極めた幾何学図面だ。
定規も使わず、それでいて視覚を逆撫でするほど複雑な、狂った設計図。
「……理解しようとするな。ただの記録だ」
笹森の声は、乾いた砂が擦れ合うような響きを持っていた。
彼は一度も高石を見ようとはしない。
「この町では、今、あらゆるものが剥がれ落ちている。
既存の言語、数学、物理法則――。
それらが古い皮膚のように剥落し、その下にある『剥き出しの不条理』が露呈し始めているのだ」
高石はその図面を凝視した。
立方体でありながら球体の性質を持ち、中心に向かって永遠に遠ざかり続ける、視覚の迷路。
論理を重んじる高石の脳が、その構造を拒絶して激しく疼いた。
「剥がれ落ちる……? 一体、何が起きているんです」
笹森は、初めて顔を上げた。
その瞳は濁り、何キロも先を測量しているかのような、焦点の定まらない空虚さを湛えていた。
「概念だよ、高石さん。
例えば、そこに椅子がある。かつてそれは『座るための道具』だった。
だが、今はどうだ? 明日には、それはただの『奇妙な角度で固まった木片』に退行するだろう。
『椅子』という言葉が内包していた意味、機能、歴史が、音もなく霧散していく。
君が今踏んでいる床も、いつまで『床』としての強度を保てるかはわからん」
笹森は立ち上がり、壁にある変哲もない木製の扉に手をかけた。
「この町の空間は、もはや連続性を失っている。
因果の糸が解け、端から綻んでいるんだ。見てみるか」
扉が開いた瞬間、刺すような冷気が高石を襲った。
向こう側にあったのは、店の裏通りではない。
吹き荒れる吹雪の中に、見たこともない峻険な雪山がそびえ立っていた。
笹森は一度扉を閉め、再び開く。
今度は、音一つない鉛色の海だった。
波は物理法則を無視して垂直にせり上がり、重力に逆らうように砕けている。
空間の断絶。高石は強烈な目眩を覚え、壁に手をついた。
しかし、その壁の感触さえも、指先からずるりと滑り落ちていくような不確かさに満ちている。
「この町全体が、巨大な『欠落』に向かって収束している」
笹森はラジオのダイヤルを回し、ノイズの周波数を調整した。
「意味の消失、空間の崩壊。最後には君自身も、その対象になるだろう。
高石さん、忠告だ。自分の名前を、自分の過去を、決して手放すな。
それさえも『椅子』と同じように、ただの無意味な音の羅列へと変容しかけているのだから」
笹森の言葉と呼応するように、ラジオから一瞬、声がした。
幼少期の記憶にしかないはずの、母親の呼び声。
だがそれは、すぐに暴力的なスタティック・ノイズの中にかき消されていった。
空蝉町の空気は、もはや呼吸のための気体ではなかった。
それは粘りつく記憶の澱(おり)だ。吸い込むたびに、高石浩一の肺胞は「他者の過去」で塗り潰されていく。
午後、灰色の街灯が並ぶ裏通り。一人の女が立ち塞がった。
三十代半ば。整った顔立ちには深い悲哀が刻まれ、その瞳は湿った泥のような色をしていた。
高石が避けようとした刹那、女の唇が震えた。
「……お父さん? お父さんなのね」
足が止まった。冗談にしては質が悪い。自分にこれほど大きな娘がいるはずもない。
だが、女は高石の袖を掴み、堰を切ったように語り始めた。
「覚えている? 八歳の夏、裏山で迷子になった私を見つけてくれた時。お父さんの掌は松脂の匂いがして、とても暖かかった。あの時剥げた膝の傷、今でも消えないのよ」
捲り上げたスカートの裾。そこには、確かに古い傷跡があった。
高石の理性が「知らない」と拒絶する。だが、その叫びを圧殺するように、脳の奥底で火花が散った。
松脂の匂い。夏の蝉時雨。震える小さな手。
覚えのないはずの情景が、極彩色の鮮やかさで意識を侵食していく。
几帳面な両親との静かな生活、大学時代の孤独、この町へ辿り着くまでの道程――。
自分自身の「真実」が、水に溶けるインクのように薄れていく。代わりに女の語る偽りの物語が、強固な事実として神経系に根を張った。
高石は己の輪郭が霧散する恐怖に耐えきれず、女を振り払い、逃げるように宿へ戻った。
だが、水月館(すいげつかん)は、もはや彼の知る場所ではなかった。
玄関の上がり框(かまち)は異常に低く、二階へ続くはずの階段は、迷路のように水平方向へと伸びている。
自室の扉を開けると、そこは八畳の和室ではなく、窓のない、異様に細長い空間へと変貌していた。
何より彼を戦慄させたのは、四方の壁を埋め尽くす膨大な記述だ。
壁紙の模様ではない。すべて万年筆で書き込まれた「日記」だった。
筆跡は、間違いなく自分自身のものだ。
そこには昭和三十年から現在に至るまで、この空蝉町で過ごした卑近な日常が、呪詛のような執着で綴られていた。
『昭和四十二年六月。佐苗さんと川へ蛍を見に行った。彼女の指先は冷たかった』。
高石は絶望とともに、その文字をなぞった。
自分が生まれる前の日付が、自分の手で記されている。因果は、修復不能なまでに破綻していた。
昨日の出来事が今日の結果をもたらすという、普遍的な論理はこの町では機能しない。
時間は細分化され、それぞれの断片が独立した檻となって高石を閉じ込めている。
やがて、感覚の変換が始まった。
廊下を歩く足音が、鮮やかな紫色の火花となって視界を散らす。
窓から差し込む夕刻の光は、数百キロの鉛のごとき質量を伴って高石の肩にのしかかり、その身を畳へと押し潰そうとする。
光はもはや輝きではなく、重力そのものだった。
高石は、自分が自分であるための最後の境界線が、町の重い沈黙の中に溶け出していくのを、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
彼はもはや、自分が「いつ」の「誰」であるかを証明する術を持たなかった。
高石浩一の視界から、ついに「意味」の輪郭が剥げ落ちた。
目の前にあるのは、かつて「家屋」と呼ばれた木材と瓦の集積に過ぎない。足元に横たわるのは、「道路」という名の平坦な硬度だ。
脳はもはや、それらを既知の概念として結びつけることを放棄していた。
そこにあるのは、ただの色、ただの質感、ただの無機質な広がり。
秩序と論理を何よりも重んじてきた男の理性は、空蝉町の湿った沈黙に食い破られ、跡形もなく消え去っていた。
傍らに、宿の主人が立っていた。
抑揚のない無機質な表情は以前と変わらない。だが、彼の身体の境界線は曖昧になり、背景にある古い板塀の木目と同化し始めていた。
「高石さん、今日の予定は……」
口を開いた彼の声は、途中で言葉としての形を失った。錆びた弦を弾くような、不快な共鳴音。
彼女はもはや個別の人間ではない。この町という巨大な「非存在」を構成する、一つの部品、あるいは一編の影に過ぎなかった。
数歩先では、笹森善治が地面に這いつくばり、何かを測量していた。
しかし、その手に握られた巻尺に目盛りはない。ただの白い帯が、虚空へと無限に伸びているだけだ。笹森の身体もまた町の陰影に溶け出し、その輪郭は陽炎のように揺れていた。
高石は町の中心部へと足を進めた。
役場があったはずの場所。そこには、空間そのものが内側に爆ぜたような、あるいは宇宙という布地が引き裂かれたような「何か」が鎮座していた。
それは黒く、同時に眩いほどに白く、そして何色でもなかった。
視線が触れた瞬間、理性が悲鳴を上げる。
「定義不能の歪み」――。
論理が途切れ、因果が死に絶えた場所。重力は色彩に化け、時間は砕けたガラスのように静止し、存在と非存在が激しくせめぎ合っている。
思考が、泡のように脳裏に浮かんだ。
この町は、宇宙が誕生する際に生じた定義の「捻じれ」そのものなのではないか。
あるいは、現実というプログラムに生じた、修復不可能なバグの集積地点。
だが、そんな仮説さえ今の高石には無意味だった。
定義すること自体が、この場所では最大の禁忌なのだ。
ふと自分の手を見る。指先から徐々に透明になり、透けて見える地面の石ころの方が、己の肉体よりも確かな存在感を放っていた。
記憶が、言葉が、砂時計からこぼれる砂のように意識の底から消えていく。
自分が誰であり、なぜここにいるのか。その問いに対する「正解」は、この無の世界では空虚な響きに過ぎない。恐怖さえもが定義を失い、霧散していく。
残されたのは、圧倒的な「虚無」との融合。
個が消失し、あの定義不能の歪みへと吸い込まれていく感覚だけだった。
高石は、自分が自分であるうちに最後の力を振り絞って走り出した。
背後で、町が、音が、人々が、一つの巨大な「空白」へと収束していく。
逃げ出したのか、それとも追い出されたのか。
奥羽山脈の深い霧を抜け、町を飛び出したとき、振り返った先に光景はなかった。
地図に記されたはずの座標には、ただ深い沈黙を湛えた山肌が広がっているだけだった。
空蝉町は、誰の記憶にも留まることなく、最初から存在しなかったかのように、この世界から静かに剥落した。
高石の胸に残ったのは、癒えることのない、名もなき精神の空洞だけであった。
新宿駅に降り立った瞬間、高石浩一を襲ったのは暴力的な色彩と騒音の奔流だった。
山手線の軋む金属音。行き交う靴音。コンクリートの照り返し。
昭和五十八年の東京は、狂気じみた熱量に膨れ上がっている。
つい数日前まで彼がいた、あの湿り気を帯びた静寂の地――空蝉町(うつせみちょう)とは、世界の位相そのものが異なっていた。
高石は自身の掌を見つめた。
あの町で透明に透け、消えかかっていた肉体は、いまや確かな質量を持ってそこにある。
だが、芯がごっそりと抜け落ちたような、奇妙な浮遊感が彼を支配していた。
丸の内にある本社ビルの重厚な扉をくぐったとき、受付の女性が小さく悲鳴を上げた。
まるで死人でも見たかのような反応が、高石にはひどく滑稽に思えた。
「高石君! 君、一体どこへ行っていたんだ!」
部長の村井が、額の汗を拭いながら叫んだ。
その顔には怒りよりも、説明のつかない不気味なものに対する当惑が張り付いている。
村井の背後では、同僚たちが遠巻きに高石を窺っていた。
「どこへ、とは。……指示通り、空蝉町の測量へ行っておりました」
高石は淡々と答えた。
声は掠れ、自身の耳にもどこか遠い場所から響いているように聞こえる。
「空蝉町? 何を言っている。そんな指示を出した覚えはない。君は二週間、無断欠勤していたんだぞ。警察に届けようかという話まで出ていたんだ」
村井の言葉に、高石の思考が一時停止する。
論理を重んじる彼にとって、上司が既定の事実を否定するという事態は、空間が歪むこと以上に受け入れがたい「エラー」だった。
「失礼ですが、部長。私は部長の署名が入った出張命令書を受け取り、経理から旅費の仮払いも受けています。これは、その測量結果の写しです」
高石は使い込まれた革鞄から、一通の茶封筒を取り出した。
中には、あの町で笹森と共に、あるいは独りで記した、緻密極まる測量図と日報が収められている。
村井は疑わしげにその書類をひったくった。
指先が紙に触れた瞬間、微かに震える。
「……なんだ、これは」
村井の顔から血の気が引いていく。
書類には、確かに村井自身の筆跡で署名があり、社外秘の社印が鮮明に押されていた。
日付、形式、すべてが完璧な、弊社の公式な公文書である。
さらに不可解な事態が続いた。
総務部の奥底、厳重に保管されている公文書の原本を照合したところ、そこには高石が持っているものと寸分違わぬ「空蝉町測量に関する命令書」の控えが存在していたのだ。
ファイルされた他の書類と同じように、それは平然と、当然のような顔をしてそこに鎮座していた。
だが、その書類を見た村井も、決済に関わったはずの課長も、経理の担当者も、誰一人として「空蝉町」という名称を、そしてその出張を命じた記憶を持っていなかった。
「……この、空蝉町というのはどこにあるんだ?」
地図広報課の課長が、最新の国土地理院の地図を広げて尋ねた。
高石が指し示した奥羽山脈のその地点には、ただ深い緑の等高線が描かれているだけだった。
町どころか、林道すら通っていない未開の山岳地帯。
「ここに、あったんです。私は確かにそこに滞在し、宿に泊まり、役場の人間と話をしました」
高石の脳裏に、光のない瞳をした伊波佐苗の顔や、ノイズの混じるラジオを抱えた笹森の姿が、一瞬だけ鮮明にフラッシュバックした。
しかし、それを言葉にしようとした瞬間、記憶の輪郭が急速に滲み始める。
結局、この事件は「極度の過労による高石の記憶混濁」と、「管理部門の重大な事務的ミス」という、強引な結論で片付けられることになった。
書類が存在する以上、高石の嘘ではない。
しかし、目的地が存在しない以上、それは「あってはならないミス」として、闇に葬られることになったのである。
高石には一ヶ月の特別休暇が与えられた。実質的な謹慎に近い処遇だった。
一週間後。高石は自宅の書斎で、自分が持ち帰った測量図のコピーを眺めていた。
あの日、あんなに鮮明に焼き付いていた空蝉町の情景が、今はもう、古いモノクロ映画の断片のように頼りない。
幾何学的に歪んだ家並み、逆回転する時計、紫色の音。
それらは今や、言語化できない抽象的な概念へと退行しつつある。
ふと、高石は図面の中に、自分の筆跡ではない書き込みを見つけた。
――『ここは、もうどこにもない』
それは笹森の筆跡だった。
高石は、自分がいつこれを書かれたのかを思い出そうとしたが、意識は泥のような眠気に吸い込まれていく。
窓の外では、東京の街が騒がしく、それでいてひどく希薄な音を立てていた。
あと数日もすれば、自分はこの町の名前さえ忘れてしまうだろう。
あの町で見た「定義不能の傷口」が、自分の精神の欠落であったのか、それとも世界の綻びであったのか。
それを問う情熱さえも、夏の終わりの陽炎のように消えていく。
高石はゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏側に残る最後の空蝉町の残像は、一匹の蝉が脱皮した後の殻のように、中身のない、ただの空虚な形をしていた。
空蝉の夢 月雲花風 @Nono_A
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