第一章 南洋の王国
常夏の子
艶やかな濃い緑の葉の上で、てらてらと光る、鮮やかな青。
距離が目前に迫ったところで、広げた腕を勢いよく閉じた。
「――やったあっ!」
捕獲成功。嬉しくて、思わず声を上げる。軽く膨らませた手の形のまま、一目散に駆けていく。
「母上! 母上っ!」
外に張り出した屋根の下で、もう二人の母と談笑している母を呼ぶ。気づいて、母が微笑んで応える。
「どうしたのです、ステノゴ。何かありましたか?」
「あのねっ! ちょうちょをつかまえたのです! ――ほら!」
傍らに立って、手を広げる。掌の上の光景に、息を呑む。
「あ……」
ばらばらに砕けた残骸。勢いをつけすぎたのだ。母の顔が、悲しみに染まる。
「ステノゴ。悪い行いだと、わかりますね?」
「……はい……」
殺すつもりなど全くなかったけれど、結果は結果なのだ。真摯な気持ちで、砕けた翅を見つめて告げる。
「ごめんなさい……ちょうちょさん……」
母が、控えていた召使いを呼ぶ。
「木箱と竹筆を。もう沐浴をさせてちょうだい。念入りにね」
「かしこまりました、三〈ティゴ〉の王妃様」
礼をして、下の召使いに取りに行かせる。
ほどなくして、揃えが持参された。蝶を箱に入れて、浄めの経文を書いていく。
母に預かってもらうと、六〈ヌム〉の王子付きの召使いとともに、〈清浄の河〉へと向かった。
河岸で腰布一枚になって、経を唱えながら入る。今日は、大きな悪行をしてしまったから、いつもとは違う文言だ。頭まできちんと浸かって、浄めなければならない。
やっと全部を唱え終わった頃、ぞろぞろと、一番目の兄と弟、甥達がやってきた。兄のスルシコが、気づいて意外そうな顔をする。
「おや、ずいぶんと早いじゃないか」
終わりの祈祷をしてから、岸に上がって、おずおずと仰ぐ。
「……ちょうちょを、つぶしてしまいましたから……」
「それなら、もう一回だね」
清廉な顔立ちが、柔らかく告げる。
今、悪行を浄めたから、次は、朝の祈祷をするために、いつも通り入らなければならない。それでも、あんな酷いことをしてしまったのだ。
不安で兄を見つめると、穏やかな声が言った。
「大丈夫さ。祈って説法を受ければ、たとえシワがお怒りになっても、ウィスヌが取りなしてくださる。そんなに心配することはないよ」
促すように背中を優しく押されて、普段の経を唱えつつ、再び入る。
燦々と降り注ぐ太陽。きらめく
朝の日差しの下、牛車の長い列が、のんびりと大通りを進む。
道行く人々が気づいて拝み、口々に挨拶する。
「おはようございます、白い王様!」
「皆、おはよう。よい朝だね。神々のお恵みと平穏を」
父が、鷹揚に頷いて応える。
それから、一〈ストゥンガル〉の王子である兄のスルシコと甥のスクワトへと続き、最後に、思慕する相手に敬意を表す。
誰が人気を一番集めているか、気にしてはいけないと、母には言われているけれど、たくさんの島民が好いてくれていると思うと、誇らしい気持ちになる。特に、それが可愛い女の子なら、なおさらだ。
「ステノゴ王子! おはようございますっ!」
いつもの声に振り見る。
供物の花細工を捧げ持つ少女達。微笑んで、声をかける。
「おはよう、みんな。きみ達に、神々のおめぐみがあるように」
華奢な手が、供物を扇ぐ。掌を差し向け、その精気を受け取る。
花のような笑顔。すてきね、と囁き合う愛らしい声に、心躍る。
あと三年半、十四歳になったら、宮を出て、ンゴボン島の首長の娘の婿となる。こんなふうに、かわいい子だといいな、と思う。
ふと、閃く光が目に入る。
反対側を向く姉の肩を、軽く叩く。振り返った姉に、光の方向を指し示す。そして、その手首を取った。
「スムナリ王女、おはようございます! 今日も、本当にお美しい!」
「あなたこそ、女神スリの化身!」
「わたし達の女神様、どうぞ受け取ってください!」
順番に挨拶する老若男女の顔を、姉が、じっと見つめる。皆の言葉に合わせ、指で掌に文字を書いていく。
いつも最後の少女が頭を下げると、姉は皆に向かって、優しく微笑んだ。扇ぐ人々の一人一人に手を差し向け、供物を受け取る。そして、柔和に手を振った。
幸せに満ちて拝む面々。牛車が進んで体勢が保てなくなる寸前まで、姉は応え続けた。
他に光の合図を送る人達がいないか確認して、今度は、自分宛の呼びかけに振り見る。毎朝こんな調子で、とてもせわしない。
それでも、姉の役に立てるのは嬉しかったし、豊穣の女神スリは、維持の神ウィスヌの妃で、美しいことで有名なのだ。また、命と引き換えに、このマタラムの地に稲をもたらしたと伝えられている。
スムナリ王女は、耳の代わりに、珍しい紫色の瞳を得た。だから、きっと豊かな実りを授けてくれる――特に、スードラの人々は、そう信じて、姉が嫁がず宮に留まることを、瑞兆だと有難がった。
この話をすると、姉はいつも、嬉しそうな、悲しそうな、微笑みを浮かべる。
子供が好きで、弟と妹、甥と姪の世話をよくしている姉からすれば、本当の幸せは、普通のところにあるのかもしれない。
牛車の列が、大通りからそれて、緩やかに坂を登っていく。
ここからは、聖なるクヌニ山の領域だ。澄んだ静けさに包まれつつ、清らかな空気を、めいっぱい吸い込む。
山の中腹まで登ると、おもむろに牛車が停まる。
車で行けるのは、この車停めの空き地までだ。父から順番に降りて、参道を歩む。
立ち並ぶ、数多の氏族寺。石造りの尖塔が、筍のように、いくつもにょきにょきと生えている。そのひとつひとつに、王都カラトゥアン一帯に住む人々の祖霊が、祀られているのだ。毎朝のことながら、背筋が、ぐんと伸びる心地になる。
しかも、今朝は、殺生という重大な悪行をしてしまった。遠くにそびえる本殿から、シワの怒りが飛び出てきそうで、身体の芯が震える。
「そんなにびくびくしなくても、だいじょうぶですよ、おじ上。というか、おれをよんでくれたら、つかまえてあげたのに」
「それは……」
あまりにも綺麗な色だったから、すっかり抜けてしまったのだ。
しかし、この同い年の甥に明かすのは、なんだか嫌だった。察したように、スクワトが淡く溜め息を漏らす。
「もしかして、夢中でわすれていたとか? おじ上、けっこう、そういうところありますもんね」
呆れて首を傾げる姿。
いっそうしょげて、とぼとぼと歩を進める。すると、肩に、そっと手が置かれた。
振り仰げば、姉が、にこにこと微笑んでいる。そして、紫の瞳が虚空を見つめた。
「……何かが、いるのですか、姉上?」
ゆっくりと、美しい顔が頷く。それから、スクワトを向いて、首を振った。
途端、大人ぶった顔が青ざめて、尋ねてくる。
「えっと……神々か精霊のどなたかが……おれに、お怒りだったり……?」
「……ぼくに聞かないでよ」
一瞬、肯定しようかとも思ったが、嘘は悪行だ。年相応に慌てる甥は置いて、姉とともに先を行く。
広い外庭の終点、山門にたどり着くと、整列して、皆で深々と礼をした。
ここをくぐって、階段を上れば本殿だ。破壊と再生のシワ、創造のブラフマ、維持のウィスヌの、尊い三神が祀られている。
今朝は、いつもの祈祷だから、本殿の外周を囲う横道へと進む。
裏まで回れば、ようやく目的地が見えてくる。
大プダンダの庵。入口には、プマンクである二番目の兄のスセハトと、義姉のスアングティ、そして、二人の幼い姪が立っていた。
外界と内界を区切る衝立の石像に礼をして、中へと入っていく。
修行中で小僧をしている、二番目の甥のスキリコが出てきて、先導する。庵を回り込み、最も山側の区画へと足を運ぶ。
敷地の中で、最も聖なる場所。高床の東屋にしつらえた祭壇の前に、大プダンダは座していた。
父が手を合わせ、深々と頭を下げる。
「大プダンダ様。今日も、よき朝を迎えられました。今日一日をつつがなく過ごせるよう、浄めと聖水をお授けいただきたく、参りました」
「白き王よ。今日もよう参った。神々の恵みによって、いつも平穏があるよう祈ろう」
「ご高配、有難く存じます」
皆で一斉に礼をし、高床に上がる。
祭壇の供物に向かい、読経する朗々とした声。いくつも組まれる、複雑な形の印相。祈祷の次第が移るごとに鳴り響く、金剛鈴。
花と香は、神々の馳走となり、クラムビル(ココナッツ)酒は、最上の神酒となる。そして、クヌニ山の湧き水は、さらに高められ、聖水へと変化する。
神々に日々の恵みを感謝しながら、振りかかる聖水を授かる。
毎朝の、静かな心持ちになるこの瞬間が、とても好きだった。最高神であるシワと一体化し、今生こそは、輪廻からの解脱が成されるような気がして、今日も善行に励もうと、心が引き締まる。
(……ちょうちょを殺してしまったけれど……サトリアに生まれたのだから、きっと……)
僧侶のブラフマナ、王族のサトリア、重臣のウェシア、平民のスードラ――全てのワルナ(カースト)の島民が、平穏な一日を送れるよう、一心に祈る。
祈祷が終わり、父が深く礼をして、高座の大プダンダに感謝を述べる。
こうして、分けてもらった聖水を掲げて、皆で宮へと帰るのだ。
しかし、今日は、やらなければならないことがある。スルシコと話し込みつつ前を行く、スセハトを呼び止める。
「ああ、ステノゴ。すまないが今、兄上と大事な話をしていて――」
小さな木箱に気づいて、はたと悲しみが滲む。頷くと、静かな声が告げた。
「すぐに終わるから、少し待っていてくれないか。その間に、姉上を」
振り返れば、姉は一人、残されていた。
遥か虚空を見つめる、静謐な横顔。走り寄って、そっと肩に触れる。
ゆっくりと、表情のない顔が、こちらを向く。紫の瞳に、灯火のように光が宿る。
「姉上。行きますよ」
優しい微笑み。小さく頷いたのを認めて、手を差し出す。兄達の元に戻ると、スルシコに姉を託した。
青い瞳が、つっと歪む。
「……まったく……皆と、足並みを揃えるくらいしろ」
姉が、深々と頭を下げる。
スルシコは苦々しげに溜め息をつくと、姉を伴って、皆のあとを追っていった。
二人の背中を眺めて、スセハトが、ひとつ溜め息をつく。そして、気を取り直すように、柔らかく微笑んで言った。
「――さて、私達も行こうか」
さざなみの聞こえる王都郊外。海寺の中でも、ひときわ豪華な尖塔。
その隣の小さな祠に、木箱を置く。兄が、経を詠唱しながら、火を放つ。
明々と燃える、蝶の棺。輪廻から解放されて、安らかにあれるようにと、一心に手を合わせる。
集めた灰が、波にさらわれ、海へと溶けていく。
この広大な海の力で、魂は浄化され、清らかな霊魂となって、祠に宿るのだ。
祭礼が一通り終わると、明日の朝、精霊となった蝶のために経を上げてもらうよう、兄に頼んで、宮へと帰っていった。
家寺に挨拶し、昼食を終えて、自室に戻った。
扉を開ければ、深く
「ごきげんうるわしゅうございます、ステノゴ王子」
待ち望んだ人。
しかし、今日は、所属する村落の皆で、ニュピとオゴオゴの準備をするからと、休みだったはずだ。
「浄めの祭礼は、もう終わったの?」
「はい。王子のことが気がかりで、わたしが、あまりにもそわそわするものですから、母が見かねて、送り出してくれました」
「さすがイブ。ぼく達のこと、よくわかってるね」
正面に座して、微笑み合う。
スヌンゴとは、たった六ヵ月違いで、同じ乳で育ったのだ。顔を合わさない日のある方が、落ち着かない。
生みの母、一〈ストゥンガル〉の王妃、二〈カリ〉の王妃、そして乳母。
優しい母が四人もいるなんて、本当に贅沢で幸せだ。妻を三人持てるのは、全てのワルナでも王だけだから、前世の自分は、とても偉かったと思う。
「おやすみのご用意は、すんでおります。どうぞ、御意のままに」
「ありがとう。少し、ねようかな」
雨季はもうすぐ終わるものの、まだまだ暑い。涼しくなるまで、昼寝するのが一番だ。
寝台に横たわって、抱き枕を抱える。傍らで、スヌンゴが扇いでくれる。透かし彫りの白檀から香る、芳しさ。
マタラム人らしい濃茶色の瞳を見つめる。
問いかけて柔らかく微笑む、
しかし、明日までは不浄の身なのだ。いつも繋いでいる右手を握り締めて、呟く。
「……ちょうちょを……殺してしまったんだ……だから……」
「左様でございましたか――それでは、歌でもいかがでしょう?」
そっと頷く。
静かな、優しい旋律。そよそよとそよぐ風に乗って、歌声が頬を撫でる。
緩やかに微睡んで、眠りへと落ちていった。
「えっと……おうえいの、あ、な?」
「交易の要、だよ。ほら、前の文字のせいで、つづりが変化しているでしょ」
教科書を指差すと、スクワトが、急に床に手をついて仰いだ。
「ああもう、どうしてだよ⁉ そのままでいろよっ! というか、おじ上は授業休んだのに、おれよりわかるって――もうぅっ!」
「スクワトは、本当にファールサ語が苦手だよね」
ノール語もなのだが、本人の気に病むところなので、言わないでおく。
憤然と姿勢を戻すと、薄青の瞳がファールサ文字を睨む。
「本当なら、あいつらが、ヤワ語を話すべきなんだ。未開の島だとか言って、ばかにしやがって」
北東の大陸の強国、ファールサ。
現在は、マフターブ家が王〈シャー〉の称号を授かり、多様な民族の集まる地域を統治している。
乾燥した厳しい土地柄、商業が主な収入源で、銀貨になれば、何でも商品にする。
その商魂の逞しさは、呆れるほどだ。ほしいものを手に入れるためなら、全く手段を選ばない。特に、黒剛石に関しては、並々ならぬ執着を見せ、争いの火種になっている。
製鉄に適した良質なものは、西のウマス島でしか採れない。
マタラムにシワの教えを伝えた祖師が、迫害を逃れて、ファールサから流れついた時にはすでに、島民達は搾取されていた。
その時からでも、百八十年。
八十八年前、二代目の王が、もうひとつの大国であるスティンヴァーリ帝国に助けを求め、条約を締結したおかげで、過酷な採掘作業と不当な通商から、ようやく解放されたのだ。
それでも、ファールサの商人は、善良な島民から、あの手この手で搾り取ろうとする。殺生と争いを厭い、温厚で穏やかな人々を虐げるなんて、本当にあくどい。
「たしかに、腹は立つけれど……ヤワ語が、大陸の人達にはむずかしいのは事実だし……」
マタラム人は、相手のワルナによって、語体を使い分ける。
例えば、とある国の役人が、最も下位のスードラとして扱われる身分だったとして、上位であるサトリアに、同等のワルナの者に対する話し方で声をかけたら、それこそ、外交問題に発展しかねない。
その点、ファールサ一帯は、いにしえから、大陸の東西を結ぶ交易の拠点として栄えてきた。ファールサ語は、商人の共通語としての長い歴史を持つのだ。
ノール人でさえ、多数の異国人が集まれば、ファールサ語で話すのだから、どちらにしろ、サトリアの子弟の必修科目なのである。
「おれからしたら、ファールサ語とノール語の方が、ずっとむずかしいですよ……」
唸る溜め息。濃い金色の短い髪を乱雑に掻いて、再び教科書に向き合う。
「でも――いや、だからこそ、おれ、がんばらないと。強い王になって、みんなを守らないといけないんですから」
「きっと、スクワトならなれるよ。ンゴボン島に行っても、おうえんしているから」
「……あと三年、なんですね……」
途端に、薄青の瞳が幼い色を宿す。
離れ離れになるのは寂しいけれど、いずれは、スクワトの子が降りてきて、自分の子と結婚するのだ。
離れていても、そうして繋がっていく。
主要五島のひとつながら、貿易港すらない僻地で、スクワトの活躍を、のんびり聞くのも悪くない。
「まだまだ、先の話だよ。――さあ、香りが変わった。せめて、きりのいいところまで終わらせよう」
スクワトが伸び上がって、香盤時計を眺める。
小さく上がる声。教科書を、しっかりと持ち直す。
「スブラノが、ちゃんと起こしてくれたらっ……!」
「また、そんなこと言って。抱きまくらにしがみついて、はなれなかったのは、きみでしょ。――じゃあ、ぼくが一文ずつ読むから、続いてね」
ぐっと頷く面立ち。
目で軽くさらい、つっかえないようにしてから、息を吸い込んだ。
のんきな足音を刻みながら、荷牛車が街道を行く。
満杯に積まれた荷を背もたれに、島民達の営みを眺める。
日が傾き出して、暑さが少しましになるこの時間は、一日の後半の始まりだ。水浴びを終え、男達は再び仕事に取りかかり、女達は夕方の祈祷の準備を始める。
分かれ道に差しかかって、牛車が、ゆっくりと停まる。
「スクワト王子、ステノゴ王子。私どもの家は、ここから左でございますので」
「うん、ありがとう。助かったよ」
荷台から降りて、スクワトが、威厳たっぷりに笑う。
よく日に焼けた顔が、温厚な微笑みを浮かべる。
「白い方々をお乗せできて、光栄です。どうぞ、お気をつけて」
再度二人で礼を言うと、島民は深々と頭を下げて、家路についていった。
見送って、声の届かないところまで牛車が行った途端、薄青の瞳が、にやりとする。
「おじ上。海まで競争ですからね」
言うが早いか、弾かれたように、スクワトが駆け出す。
斜め上から、近習のスブラノの小さな溜め息。慌てて追いかける。
「待ってよ! ぼく、そんなに速く走れないのに……!」
海岸へと続く道。途中には、露店が、いくつも立ち並んでいる。
なんとか人々をかわしながら、スヌンゴとともに行く。五歳上のスブラノは、あっという間に遥か彼方だ。
さすがに気力を失って、立ち止まる。
二人合わせたら、運動も語学もできて強かっただろうに――とは、よく言ったものだ。しかし、兄のスルシコは、もう少し、スクワトの努力を認めてあげてもいいと思う。
荒い息をついて、道の先を眺める。
と、横から声がかかった。
「ごきげんよう、ステノゴ王子。揚げグダン(バナナ)、いかがですか? 午前の残りですから、ちょうど冷めて、食べ頃でございますよ」
竹串に突き立った、香ばしい茶色の誘惑。
思わず買いたくなるが、生唾を飲み込んで耐える。
「水浴びが、まだだから。ごめんなさい」
「私は、しばらくおりますので。よろしければ、お立ち寄りくださいませ」
礼を告げて、再び走り始める。
といっても、小走り程度に留める。どうせ負けるなら、思いきり負けて、甥の得意な顔を見る方がいい。
ようやくたどり着くと、いつも通りの満面の笑みがあった。
「おれの勝ち、ですね」
「ぼくの負けだよ」
苦笑がこぼれる。
身綺麗にしたら、宮に戻って、午後の授業だというのに、もうくたくただ。
ひとしきり勝利の喜びを味わって、スクワトが上衣に手をかける。腰布一枚になると、助走をつけて飛び込んだ。あとを追って、打ち寄せる波間へと走る。
色とりどりの珊瑚に覆われた海底。
深く潜って仰向けば、水面が様々な円を描いて、たゆたっている。きらめいて綺麗なのに、どこか沈んでいきそうな微睡み。
息の量を察して、ゆっくりと浮上していく。
突き抜ける青い空と燦々と輝く太陽。明るい光景との落差に、不思議な心地になる。目線を少し傾ければ、聖なるクヌニ山の威容が見える。
山は清浄であり、海は不浄である。
しかし、広大な海は、全ての穢れを流し、浄めてくれる。クヌニ山の怒りだという恐ろしい黒い砂も、白く浄められれば、魚達の住み処となる。
頭のすぐ横に、にゅっと顔が飛び出てくる。びっくりしつつも、なんとなく予想はついていたから、苦もなく体勢を整える。
「もう、スクワト――どうしたの?」
不満そうな薄青の瞳。眉尻を下げて微笑む。
「いっしょに泳ぐ?」
頭が引っ込む。すぐさま息を吸って、水底へと戻っていく。
黄、赤、青。目に鮮やかな魚の群れ。向かい合わせで、くるくる巡る。
気が済んだようで、スクワトが海面を目指す。
一緒に顔を出せば、近習の二人が手を振っていた。そろそろ時間だ。
岸に上がると、腰布を絞り、水気を払った。手渡された上衣と飾り布を受け取る。
と、スブラノとスヌンゴが、はっと砂浜に額づいた。
その方向。大プダンダの尊い姿。
手早く衣を整えて正座し、頭を下げる。ゆったりとした所作で、歳月を重ねた足が、黒砂を踏んでいく。
緩やかな声が、降ってくる。
「白き王子らよ。スードラの善き民らよ。今日も健やかじゃのう」
「大プダンダ様におかれましては、ごそうけんでいらっしゃる由、祝着至極にぞんじます」
細い白髭が、ふむふむと鷹揚に頷いて、ふと、海を向く。
「何やら、精霊が騒がしゅうてのう。気になって、来てみたのじゃが――」
遥か遠くを見はるかす横顔。海と空の境すら越えていきそうな、悠久の眼差し。
向き直って、穏和な微笑が告げる。
「悪鬼にさらわれぬよう、まじないをしてあげよう」
一礼して、スクワトとともに進み出る。頭に右手が乗り、短い経が唱えられる。
身体の中でも、最も聖なる場所。そこから精気を授かる栄誉に浴する。サトリアに生まれてよかったと、心の底から感謝する。
「――わしに気にせず、行きなされ。神々の平和を」
「ありがとうございます、大プダンダ様。神々の平和を」
スクワトが応えて、二人で深く礼をする。
大プダンダは、にこにこと微笑むと、ゆったりとした足取りで、崖の方へと歩んでいった。
「二人とも、もういいぞ」
額づいたまま微動だにしなかった近習達が、おもむろに顔を上げる。
高揚と畏怖の入り交じった面立ち。スヌンゴに至っては、微かに震えていた。しゃがんで微笑みかける。
「だいじょうぶ? 立てる?」
「……おそれ入ります……だいじょうぶです……」
「驚いたよね。ほら、掴まって」
スブラノが、右手を差し伸べる。
スヌンゴは右手で取ると、しっかりと立ち上がった。顔色も少し戻ってきて、ほっとする。
浜の境から、呼ぶ声が聞こえて振り見る。
近習のスメラティだ。後ろでは、姉のスムナリが手を振っている。
応えて駆け寄ると、快活な声が宣言した。
「泳ぐなら、お腹が空くと思いまして、おやつをお持ちしました!」
覆いの取り払われた籠。中身を覗いて、歓声を上げる。
「揚げグダン!」
それも、乾燥サンテン(ココナッツミルク)をまぶした豪華版だ。
姉の招く所作。右の掌を差し出すと、細い指が文字を描いた。
――ステノゴ、元気を出して。
大きめに口を動かし、手を合わせて礼を言う。紫の瞳が、温かくきらめく。
「さあ、ご用意できました。どうぞ、お座りください」
広げられた
最上の方角であるカジャ(山側、北)にスクワト。そこから、太陽の昇る東と沈む西に座る。
しゃりしゃりと、サンテンの白い衣をまとったグダン。艶やかな葉の皿を背景に、輝いて見える。
思いついて、後ろを振り返る。
「スヌンゴ。クラムビル水が飲みたいんだけれど――」
真正面を見つめて、緊張した面持ち。もう一度、名を呼ぶ。
「――は、はいっ! 何でございましょう⁉」
「クラムビルを、採ってきてくれるかな?」
淡く苦笑する。
平静さが戻ってきて、日焼けした黄色い肌が、ほんわりと赤くなる。
「……失礼いたしました。行ってまいります」
「気をつけてね」
言いつつ、耳に口を寄せて、
「登っている最中は、意識したらだめだよ」
と囁く。スヌンゴの、何とも言えない焦った表情。
スクワトも飲みたいと言い出して、スブラノとともに行く背中を見送る。
「どうしてスヌンゴは、スメラティがいると、あんなにぎこちなくなるんだろうな?」
下座の二人が瞬き、顔を見合わせて微笑む。薄青の瞳が不服に歪む。追求が始まる前に、口を開く。
「スードラにだって、いろいろあるんだよ。もう時間もないし、早く食べよう」
竹串を掴んで、思いきりかぶりつく。
サンテンの優しい甘さと、半生になったグダンのねっとりとした甘さ。
木から採って、生のまま食べるのもおいしいけれど、クラムビル油の染みた衣との、味の重ねがけは、やっぱり格別だ。
近習二人が、クラムビルの実を抱えて、戻ってくる。
外のごわごわした剛毛を剥ぎ、砂浜にしっかりと固定すると、スブラノが腰に提げた山刀を抜いた。
丸い実の上部に、勢いよく刃が当たる。
固い皮が蓋のように外れれば、準備完了だ。スクワトから順に配られていく。
生温い汁が、甘く喉を潤す。日もだいぶ西に落ちてきたとはいえ、本当に暑い。ノール人の父祖は、きっと難渋したにちがいない。
一気に飲み干して、息をつくと、スヌンゴに渡す。
「中休みの時にでも食べて」
「よろしいのですか?」
本当は、ふたつに割って、中身も食べたかったけれど、午後の授業に間に合わなくなってしまう。
スメラティを一瞥して、そっと囁く。
「仲よくね」
紅潮する頬。小さな声が礼を言う。
頷くと、姉とスクワトに呼びかけて、腰を上げた。しかし、
「ウテノオ、あめっ!」
姉の大音量が突き抜ける。スクワトが、耳を押さえて大げさに唸る。
「びっくりしたー! スムナリおば上、声が大きいですって」
きっと睨む、紫の瞳。掌を下にして、ゆらゆら揺らす。はっとして、すかさず座った。皆で身体を寄せて、頭を内側に仕舞う。
次の瞬間、どんと突き上げる衝撃が、全身を襲った。
クラムビルの葉のざわめき。どこどこと、実の落ちる音が、そこかしこで轟く。クヌニ山よ、しずまれ、と経を唱えて一心に祈る。
「……止まった……?」
おもむろに、身を起こす。
砂浜に散らばった、クラムビルの実。山も、海も、何事もなかったように静かだ。
「けっこう、大きかったね……」
蒼白な顔で、スクワトが頷く。
最近、妙に回数が多く、強さも増している。父や兄達でさえ、神々の怒りではと、おののくほどだ。
しかし、震えながらクヌニ山に額づく近習達を見て、口にせずにおく。スードラの彼らを、やみくもに怖がらせるだけだ。
「――さあ、早く海からはなれよう。大波が来たらいけない」
弾かれたように、近習達が顔を上げ、手早く敷物が巻き取られる。
スブラノが、荷物を携えて頷く。先頭にスクワト、姉とスメラティを真ん中に、列をつくって、足早に岸を去った。
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