帰還の蝶【長編・本編執筆済み】
清水朝基
序
氷雪
ソル暦二四九年十月中旬。
大陸の北部を統治するスティンヴァーリ帝国に、一月早い冬が到来した。人々は、十分な蓄えのないまま、厳寒を耐えることとなった。
そこへ、熱病が、どこからともなく湧き出してきた。
約七十年に及ぶ麗らかな春が終わりを告げて以来、冬になると、必ず流行する恐怖の病。
高熱と激しい咳を伴い、限られた保存食で長い冬をしのがなければならない人々にとって、罹患は、ほぼ死を意味した。
それでも、南東のコルプ地方と南西のヘスト地方が比較的まだ暖かかった頃は、北東のヴァーリ地方に被害を出すのみで済んでいた。
しかし、ノール(北方)の地は凍てつき続け、ソル暦二〇九年十月中旬、ついに全土に猛威を振るった。そして、二ヵ月後には、皇帝の命をも奪った。在位九年の短い治世であった。
跡を継いだ第十代皇帝は、薬草院の神官達に命じて、熱病の研究を強く推し進めた。
しかしながら、四十年経った現在でも、特効薬は、いまだ見つかっていない。早期に処方すれば、症状を軽減し、生存率を高める調合薬が発明され、それが、唯一の希望であった。
*
ファールサ暦二二一年八月中旬。
秋の盛りの涼風が、喜ばしい知らせを運んできた。
北方に、例年よりも早く、冬が訪れた。何かと邪魔立てしてくるノール人は今、流行り始めた熱病に、戦々恐々としているという。
(いと高き唯一の神ホダーの導きを拒否するからだ。愚かな異教徒め)
どこもかしこも、まったく不敬な輩ばかりである。
四年余り前、地方庁の官吏を全てファールサ人とし、現地の言葉での管理を廃止する旨を発布してからというもの、異教徒と改宗者が騒がしくなっている。税が重いだの、不当な差別だのと、いったい、どの口が言うのか。
聖典ハーンは、ファールサ語で書かれている。
神の語る言葉はファールサ語であり、その啓示を聴いたのは、ファールサ人の預言者ハルフなのだ。
この地を統べる者は、伝統的なファールサ人でなければならない。これは、先代の王〈シャー〉であるクーロシュの念願でもある。
しかし、こういう大事な時に限って、面倒は重なるものである。
うるさい輩は貧しい者ばかりだ。騎兵で蹴散らせば、あっという間に瓦解していく。おかげで、ずいぶん入れ替えも捗った。
ところが、草原の民となれば、片手間とはいかない。
冬が早く来るということは、家畜を太らせる猶予がない、ということだ。
食うに困れば、連中は高原を下りて、町へとやってくる。そうして迷惑千万にも、町民達の蓄えを強奪していくのだ。
すでに、東部を治める太守〈アミール〉のメフルダードから、苦情が届いている。何か憂さ晴らしの品でも掴ませてやらねば、今後の計画に支障が出る。
そうでなくとも、度重なる戦で、黒剛石と鉄鉱石が慢性的に不足していた。早急に、手を打たねばならない。
王〈シャー〉の間の扉を叩く。名乗ると、すぐに開いた。
でっぷりと太った巨体が、敷き綿に埋もれている。恭しく礼をし、絨毯の端に座る。
「王〈シャー〉よ。お伺いしたき儀がございます」
「うむ。申してみよ」
「マタラムへの派兵を、お許しいただきとう存じます」
かの王国には、良質な黒剛石が採れる鉱脈がある。
古くは、ファールサが独占していたのだ。正しい在り方に戻すだけのことである。
「帝国が騒がんかのう?」
「スティンヴァーリは、熱病が流行し始め、動きが取りにくくなっております。なんでも、今年のものは、かなり症状の強い類いだとか。死者も、すでに出ているようでございますから、おいそれと、干渉はできませんでしょう」
おもむろに、顔を上げる。薄く笑みを浮かべて囁く。
「何よりも――マタラムには、見目よき者が多いとか。特に、王家は、マタラム人とノール人の美点をかけ合わせた、無二の芸術品と名高く――光輝く髪と真珠の肌は、それはもう、驚愕に打ち震えるほどである、と」
「おお、なんと! まっこと素晴らしい! ぜひに、我が寵童に迎えたいものよのう」
懸念の吹き飛んだ面立ち。
にこやかに笑んで、幾度も頷く。
「偉大なるお父上をお継ぎになって、早八年。〈薔薇の宮〉も、寂しゅうなってまいりました。この機会に、南洋の薔薇をお迎えなされば、お心も華やぎましょう」
「まっこと、そちは気が利くのう、ファルジャードよ。かように優秀な宰相を遺してくださるとは、有難いことよ。委細は任せるゆえ、楽しみにしておるぞ」
「――御意のままに」
深々と低頭する。
丁重に辞すると、足早に廊下を歩んでいった。
*
ソル暦二五〇年二月十一日。
灰色の空の下、炎が赤々と燃え盛る。腕の中で、幼い弟の泣く声が響く。
「ソール……ソール。母上は、死者の国〈ヘルヘイム〉に下られたのだよ。父上と姉上のところへ、お移りになったのだ」
「やだっ! いやだっ……だって、やくそくしたんだもんっ! おねつが、なおったら、ソールといっぱいあそんでくださるって! やだようっ……ははうえ、ははうえぇっ!」
今にも火に飛び込んでしまいそうな小さな身体を、しかと抱き締める。
むしゃぶりつく、弟の体温。痛ましいとすすり泣く、臣下達のひそめた声。
妹を皮切りに、父、母と、熱病は次々と皇族を襲った。残ったのは、妻と幼い息子、そして弟だけだ。
スティンヴァーリの叔父とスノーヴァーリの叔父一家はまだ無事だが、春はいまだ遠い。いつまでもつか。
(……それとも、もはや春は来ないというのか……これが、大いなる冬〈フィンブルヴェト〉だと……)
しかし、弟はまだ五歳なのだ。まだまだこれからで、たった二人の兄弟で、生きていかねばならないというのに。
小さな身体を掻き抱く。
粉雪の舞う空。峻険なヴィットドード山脈を仰ぐ。
(俺は、藁の上でも構わない。だが、せめて――弟だけは、強く健やかに……! オージンよ、アースの神々よ! どうか――どうか……!)
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