アイロニシティ420

宵町いつか

アイロニシティ420

「煙草、吸ってたの?」

 制服姿の少女が首を傾げる。風に揺られて肩口で揃えられた髪が揺れている。

「さっきまでね」

 そう言うと彼女はわずかに笑みを零した。手入れの行き届いたくちびるに笑みが残る。

「吸っててもよかったのに。私、煙草とか嫌いじゃないのに」

 風が部屋のなかを通りすぎる。冷たい、乾燥した冬の風だ。自分で開けたけれど、やはり寒い。

「そんなことよりさ明日菜、前も言ったけど来るときは前もって連絡ちょうだいね」

 連絡をくれれば煙草を無駄にすることはなかったのに。

 心のなかで、先ほど半分ほど吸って消した煙草に思いを馳せる。もったいない。インターホンが壊れていたら最後まで吸えていた。ちゃんと仕事を全うしたインターホンが忌々しい。

「ま、入りなよ」

 寒いし。付け足した言葉は思ったより面倒くさそうに響いた。

「じゃ、遠慮なく」

 からりと音をたててローファーを脱ぎ捨てる。軽やかな足取りで私の隣を通り過ぎると、慣れた足取りで実家からもらってきた廃棄寸前だったソファーに座り込んだ。思わずといった風に漏れた息はため息というにはいくらか長い。

 彼女の隣に座る。波打つように隣で姿勢を正したのが分かった。

「それで、今日はどしたの」

「とくになんもない」

「あ、そ」

 ちらりと隣を盗み見る。相手は制服姿のままいとこの家に来る年齢だ。そこまで深く考える必要はないだろう。私が高校生だったときだって、とくに意味はなかったけれど行動に起こしたかったことがあった。感情をどうにか発散しようとしたことがあった。苦しさの表現方法を考えていた。それと同じだろう。

 あんなにも苦しかったのに、今ではそれを回顧する側になって、観測する側になっている。私も大人になった。なにかの皮肉や嫌味だろうか。

 思わず鼻で笑う。ひねくれた人間からしたら、大抵の言動は皮肉や嫌味になる。世界の正論は私から見ればそうであるように。

 明日菜が勝手にテレビに電源を入れる。一人用の異様に小さいテレビだ。画質もお世辞にはいいと言えない。お値段相応だ。

 夕方のニュースが流れる。情報番組と銘打たれたニュース紛いのテレビ番組はバラエティー番組に近い。小学生の頃は特別感があり見ていたが、いつの間にか見なくなった。

 今は最近インフルエンザが流行しているという話題が挙がっている。今年は数年前と比べてどれほど流行するのか、感染対策はどうすればいいのか。コロナ禍でも言っていたことをさも重大なことのように繰り返す。

「物騒な世の中になったもんだ」

 明日菜が言葉を零す。物騒ってなんだ。ああ、でもそうか、高校生からしたらコロナ渦もつい最近か。

「空気も乾燥してるからね」

 適当に言葉を返す。先日、友人も風邪をこじらせていた。加湿器でもつけた方がいいだろうか。

「冬だし、しょーがないか」

 明日菜は呟いて、ぐっと伸びをする。顔は暇そうだ。指先は冷えているのか、赤い。

「なんか飲む? あったかいの」

「飲む」

 即答だった。

 私はキッチンのほうに行って、一口コンロにやかんを乗せる。ポットのほうが楽なんだろうけれど、生まれてからずっとやかんを使っていたせいでポットを使うのがなんとなく嫌だった。

 それにガスの匂いが好きだった。鍋ややかんをコンロに置いて、その上から匂いを嗅ぐとつんとした不思議な匂いがある。それが昔から好きだった。

 お湯を沸かしながら、引き出しのなかを探す。あるのは賞味期限の切れたお茶のティーパックといつもらったか忘れた未開封の紅茶ティーパック、ココアの粉、インスタントコーヒーの粉。

「ココアでいい?」

「ココアがいい!」

 返答に子供っぽさを感じて思わず息が漏れた。ココアの粉と自分用のインスタントコーヒーの粉も一緒に取り出す。未開封のココアの賞味期限はまだ三か月はある。インスタントコーヒーも最近買ったばかりだから、酸っぱくはなっていないはずだ。

 それほど大きくないテレビ番組の音が聞こえる。今は東京あたりの散歩を芸能人がしているVTRが流れている。最近若者の間で人気なんですよ。そう芸能人が紹介している食べ物は私の知らないものだった。明日菜なら知っているのかもしれない。

 明日菜は終始無言だった。私もなんとなく声を出さなかった。

 やかんから水蒸気が噴き出してきた。すぐに火を止めて、コップを取り出す。先にココアを準備して、お湯を三分の二ほど入れる。その後、冷蔵庫から取り出した牛乳を入れる。自分のコーヒーはあとからでいいだろう。

 私は火が消えていることを確認して、零さないように明日菜に渡す。

「はい、ココア」

「ありがと」

 ココアを受け取った明日菜は指先を温めながら、画面から目を離していない。じっと真剣な眼差しで見ている。

「面白い?」

「いや、あんまり」

「あ、そうなんだ」

 真剣に見ていたからてっきり、面白いのかと思った。もう一度キッチンに戻るのもなにか変に思えて、私もソファーに座った。

「まーちゃんさ、彼氏いたっけ?」

 彼氏。その言葉を口のなかで転がす。甘くて苦いその言葉は私の胃をわずかに痛くさせる。

「できたことありませんよー」

 私は恋愛につくづく向いていない性格ということを自覚している。関わっても私が傷つくし、相手も傷つく。

「大学生なのに、いないんだ」

 大学生でもいない人のほうが多いだろと心のなかで突っ込む。

「そーだね。過不足ないし」

「そういうもん?」

「そういうもんだよ、案外」

 明日菜が一口ココアを飲んだ。おいしいと言葉が漏れた。

「クラスで多いんだよね。彼氏ができたとか、好きな人とデートとか」

「ああ」

 それは私にも覚えがある。この時期、妙に盛んになるのだ。クリスマスがあと少しだからか、みんな彼氏彼女の話題で持ちきりになる。私はその話を聞いているだけの人間だった。自分の話すことがなかったから。

「いいなーってさ」

 ああ、確かに恋人がいれば幸せだし、恋人がいなければ不幸せ。なにかに熱中できていれば幸せだし、熱中できていなかったら不幸せ。それはずっと頭のなかに残っている。

「まあ、案外一人でも生きていけるもんよ」

 生きてはいける。そりゃそうだ。生きるだけなら簡単だ。寝て起きて食べていればいいのだから。

「そんな急がなくてもいいんじゃないかな」

 舌が都合のいいように動く。

 私の言葉に明日菜は納得したような、納得していないような顔でうなった。

「そうかなー人生一度きり。それに華のJKだよ?」

 私も人生は一度きりだ。それに枯れたJDでもある。

「ま、いつか好きな人もできるし、恋人もできる」

 そう締めくくって、欠伸をする。明日菜はそれもそっかという風に頷いて、ココアを飲み干す。

「まあ、私可愛いしね」

「そうそう」

「てきとー」

 明日菜は笑って、机の上にコップを置いた。

「帰るね」

「あ、うん」

 時計を見る。滞在時間は三十分もない。課題もあるから早めに帰るのかもしれない。

「気を付けて」

「うん」

 笑って、部屋を出て行く。ガシャンと扉が閉まったのを確認して大きく息を吸った。鼻の奥にココアの甘い香りが残っている。

 いつの間にか芸能人の散歩は終わって、今日あったニュースを伝えている。真面目そうなニュースキャスターは表情を変えずに歌舞伎町のことを伝えている。

 そういえばコーヒーを淹れるのを忘れていた。今更淹れるのもおかしいか。

 ソファーから立ち上がって、ベランダに出る。地面に放置されているライターと煙草を拾う。煙草を一本取りだして、口にくわえる。鼻に煙草の匂いがかすめる。

 使い捨てライターで煙草に火を点ける。息を吸うと口のなかにメンソール特有の爽快感が広がる。鼻のなかに煙草の強い香りが入ってきて、ココアの甘い香りと混ざり合った。嫌味ったらしいほどの甘さのあるココアの香りも、皮肉のような煙草の香りも、どちらの匂いも私には悪くはないように思えた。

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アイロニシティ420 宵町いつか @itsuka6012

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