幻想解体のための恋愛変奏曲

ながずぼん

第1話 プラスチック・イレイサー・ラブ

 恋をすると、相手だけじゃなく、相手の所有物がとても価値のあるものに思えたり、ご両親や兄弟が立派に思えたり、そんな瞬間が訪れることがある。

 これはそんな少女のお話。


◆◆◆


「いってきまーす」


 いつもと変わらない朝。いつもと変わらない通学路。いつもの教室。

 小学四年生の、江藤ヨリ子はいつも通りに学校へ通う。

 彼女の隣の席の、大木理人は平凡な男子小学生。友達と漫画やゲームの話に夢中になるどこにでもいるような男の子。特別に足が早いわけでもない。

 だけどヨリ子は大木に対し「ああ、大木きゅん…どうして大木きゅんは大木きゅんなの?」という平安時代の貴族のような気持を抱いていた。


 ある日の国語の授業中に、主人公の行動原理を示す箇所はどこか、という問いを意地悪そうな眼鏡を掛けた初老の女性教師から当てられ回答に窮しいた。

 正解がわからず回答に窮していたわけではなく、ヨリ子は困惑していたのである。

 どうしてあの先生はわたしを当てたのだろう。順番でいけばわたしの前の席のユカリちゃんのはずなのに。わたしが答えられないのが恥ずかしいんじゃなくて、飛ばされたユカリちゃんが透明人間みたいで可哀そうじゃないかと、そう考えていたのだ。


 事実、ヨリ子の前の席に座る梅林由香里は自分に回答の順番が来ると予測し、準備をし、先生が「それじゃあ…」と指名する児童の名前を言う前に少し尻が浮いているぐらいの心意気であった。にも関わらず自分の存在をないがしろにされ今にも泣き出してしまいそうな気持が背中を震わせていた。


 ヨリ子は由香里の浮いた尻を目撃していたからこそ、回答に窮していた。

 クラスの誰もが、ヨリ子はおつむが弱いから、こんな簡単な問題もわからないのだと思い込んいる中、ヨリ子の隣に座る大木が徐に声を挙げる。


「順番、梅林じゃね?」


 その瞬間、ヨリ子は目を見開き、ばっと大木の方へ首を回す。由香里は肩をびくんと震わせ、教師は眼鏡をくいっとやって名簿に視線を落とす。


「ああ、そうでしたね。ごめんなさい。じゃあ梅林さん答えて」


 このときヨリ子は生まれて初めて恋する気持ちに触れた。

 温かく脈動するその気持ちは、確かな振動となり、音となって短い音色を奏でた。


 トゥンクッ


 大木理人はヨリ子にとって、ただのクラスメイトから、初恋の相手となった。

 そうなるともうヨリ子の気持ちは果てしなく大木きゅんに向けられる。

 授業中も、給食時も、いかなる時でも大木を目で追ってしまう。

 幸いなことに、ヨリ子は自身に向けられる大木の気持ちがどうであるか、という部分については意識が回らなかった。ただただ、偶像となった大木のことを求めるだけ。

 それでもヨリ子は自分で気が付かないうちに、いっぱしのメスの顔になっていた。


 ある日の放課後、学校からの帰り道で机の中に忘れたプリントを取りに、ヨリ子は教室に戻った。机の中から忘れ物のプリントを発見した。

 そのすぐ後で、もう一つのある物を発見した。

 隣の席の、机の下、小さくて四角い厚紙で巻かれた白いもの。

 ヨリ子はしばらくそれから目が離せなかった。それは紛れもなく大木の所有物であり、自分のものが擦り減って新しいものを親に買ってもらうときに、わざわざ同じものを指定してこっそりお揃いであることを嬉しく思っていた、オリジナルのもの。

 見た目は同じだが、今目の前にあるそれは、自分や他の児童が使っているものよりも、随分と価値がある物のように思えた。


 ヨリ子はしゃがんでそれを丁寧に手に取った。

 これを大木きゅんの机の上に戻すだけ。盗んじゃだめだ。

 ヨリ子は自分に言い聞かせるように何度も何度も心の中でそう思った。


 けれども彼女の小さな手は、自分の意思に反して厚紙をずらし、白いそれを露わにしてゆく。小さな胸の中の心臓が身体を突き破りそうなほど鼓動を繰り返す。

 呼吸を止めて厚紙をずらしきると、小さな掌の中には白いそれだけが残った。

 抜き取った厚紙はさっとポケットに仕舞い込んで、両手で白いそれをつまんで眺める。

 そのときヨリ子は、もう一丁前のメスの顔になっていた。


 彼女は白いそれをひとしきり様々な角度から眺め終わると、口の中に放り込んだ。

 噛んでみた。凄まじい弾力が彼女の小さな歯を、弱い咬合力を寄せ付けない。

 それでも彼女は懸命に噛んだ。前歯で千切り、犬歯を突き立て、奥歯ですり潰した。

 口の中いっぱいに広がる、気味の悪い苦味も我慢して夢中で噛んだ。

 やがて『ごくん』と喉を鳴らして、ヨリ子は大木のそれと一つになった。


 翌日、大木が「おっかしいなー、昨日置いてちゃった気がしたんだけど」と消しゴムを探しているのをヨリ子は無視した。

 どうしてあんなことをしちゃんだろうと、物凄く恥ずかしい気持ちになった。


◆◆◆


 けれどもまた、ヨリ子は消しゴムを食べるのだ。

 中学生になっても高校生になっても、大学生になっても社会人になった今も。

 誰も知らないところで、ヨリ子は好きな男の消しゴムをこっそり食べる。

 そう、メスの顔をして。

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