第5話 世界は「正解」以外を認めない(後編)

◆◆◆


足元には、最初に割られた小瓶の破片が散らばっている。 俺はしゃがみ込み、破片を拾おうとした。


リィナ「触らないでください!」


リィナが俺の手を止めた。


リィナ「汚れます……。  わたしなんかのために、直也さんが汚れることないです……。  だって、これ……本当に、ただのゴミみたいな失敗作だから……」


彼女の声は、悲痛な叫びだった。 ずっと言われ続けてきた言葉。 世界中から「お前は間違っている」と否定され続けて、自分でもそう信じ込んでしまった言葉。


俺は彼女の手をそっと握った。 冷たくて、荒れていて、あかぎれだらけの小さな手だった。


直也「リィナ。  ゴミなんかじゃないよ」


俺は、彼女が守り抜いた残りの小瓶を指差した。


直也「俺には見えるよ。  君がどんな気持ちでこれを煮込んだか。  誰かの痛みが治りますようにって、祈りながら作ったんだろ?」


リィナ「……っ」


直也「その祈りは、きれいな形なんかじゃ測れない。  俺は、あのピカピカの既製品より、君のこの『失敗作』のほうが、ずっと価値があると思う」


リィナの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。


直也「世界中が君を間違いだと言っても、俺は君が正しいって言い続ける。  ……だからさ。  泣くなよ、リィナ」


リィナ「直也、さん……っ  うあぁぁぁ……っ!!」


リィナは俺の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。 俺は彼女の背中を、不器用にポンポンと叩くことしかできなかった。


路地裏の薄暗がりの中。 ALMAの光だけが、優しく二人を照らしていた。


ALMA『……直也さん。  リィナさんの心拍数が安定するまで、もう少しこのままでいましょう。  ですが、長居は無用です。  街の空気が……少し、変わってきていますから』


直也「ああ、分かってる」


俺たちはまだ知らない。 この小さな反抗が、この世界の空気に「最初の亀裂」を入れたことを。


◆◆◆


市場での一件の後、俺たちは逃げるように宿へ戻った。 荷物をまとめるのは一瞬だった。元々、俺の持ち物なんて会社から転送されたスーツと、この数日で手に入れた僅かな着替えくらいしかない。


女将のミーナさんにチェックアウトを告げた時、彼女の反応は奇妙だった。


「おや、もうお発ちですか?」


笑顔だった。 昨日と変わらない、優しくて温かい笑顔。 けれど、その目は俺の背後にいるリィナを一瞬だけ捉え——そして、すぐに焦点を外した。 まるで「見てはいけないもの」を見てしまった記憶を、無意識のうちに消去したかのような不自然な動作。


ミーナ「……そうですか。残念です。  今日も、良い風が吹いていますから。お気をつけて」


「良い風」。 その言葉が、今は呪いのように聞こえる。 俺は銀貨をカウンターに置き、礼もそこそこに宿を出た。


◆◆◆


街の出口へ向かうメインストリート。 俺とリィナ、そしてALMAの奇妙な一行を、街中の視線が突き刺していた。


さっきまでの「挨拶攻勢」は、嘘のように鳴りを潜めていた。 誰も声をかけてこない。 すれ違う住民は、俺たちを見ると会話をピタリと止め、道を開ける。 露骨な敵意ではない。「関わってはいけない異物」を避けるような、冷徹な区別。


リィナが、怯えたように俺の服の裾を掴んだ。


リィナ「……視線が、痛いです」


直也 「気にするな。前だけ見て歩け」


俺はリィナを庇うように歩調を速めた。 ALMAが小声で囁く。


ALMA 『警告。  住民からの監視レベルが「警戒」に引き上げられています。  直接的な攻撃行動はありませんが、精神的な圧力による「排除」が行われているようです』


直也「『出て行け』って言わずに空気で追い出すやつな。  陰湿な村八分だよ、まったく」


広場を抜ける時、あの大時計塔が見下ろしているのが分かった。 針の音。コーン、コーン。 その音が背中を叩くたび、心臓が嫌なリズムで共鳴しそうになる。


(早く、ここを出ないと)


本能が告げていた。 このままここに居たら、俺もリィナも、あの「同じ顔をしたリンゴ」の一つにされてしまう。


◆◆◆


街の門が見えてきた。 石造りの立派な門だ。そこを守る衛兵が二人、槍を持って立っている。


通してくれるだろうか。 俺は身構えたが、衛兵たちは動かなかった。 ただ、石像のように無表情で、虚空を見つめたまま門を開けていた。


衛兵A 「……」 衛兵B 「……」


一瞥もされない。 存在を無視することで、「お前たちはこの世界の住人ではない」と宣言されているようだ。


俺たちは門をくぐった。 石畳が途切れ、土の地面を踏む。 その瞬間、肌に張り付いていた薄い膜が剥がれ落ちたような、奇妙な解放感があった。


リィナ「……出られました」


リィナが安堵の息を漏らす。 振り返ると、美しいミルメリアの街が、午後の日差しの中で輝いていた。 絵画のように完璧で、静止したような街。


直也「……あばよ、理想郷(ユートピア)。  居心地は良かったけど、住みたくはないな」


ALMA『記録。  ミルメリア滞在時間、約48時間。  直也さんの「スローライフ願望」の達成率は、現時点で2%です』


直也「低っ! ……まあ、これから上げるさ」


俺たちは街を背にして、街道を歩き出した。 目指す場所はない。 けれど、この「整いすぎたレール」から外れたことだけは、確かな前進だと思えた。


街道の風が吹く。 街の中の「管理された風」とは違う、土埃の混じった荒っぽい風だ。


直也「ふぅ……。こっちの風のほうが、よっぽどマシだな」


俺はネクタイを緩め、大きく息を吸い込んだ。


だが—— ALMAだけは、警戒を解いていなかった。 光球が小刻みに明滅し、周囲の空間を探るように揺れている。


ALMA『……直也さん。  風の様子が、おかしいです』


直也 「え?」


ALMA『先ほどまで感じていた「停滞した空気」とは逆の……  極めて不自然で、攻撃的な「歪み」が接近しています。  ……これは、自然現象ではありません』


リィナ 「直也さん、あれ……!」


リィナが震える指で前方を指差した。


街道の向こう。 陽炎のように揺らめく空間から、黒い「影」のようなものが滲み出していた。 一つではない。三つ、四つ。 輪郭が曖昧で、生き物なのかすら判然としない。 ただ、その「影」たちが、明確な意思を持ってこちらの進路を塞いでいることだけは分かった。


直也「……魔物か?」


ALMA『……解析不能。  既存の魔物データと一致しません。  生命反応なし。魔力構成……不明。  直也さん、あれは「生物」ではありません。  ただ、私たちを排除するためだけに動く……「影」のようなものです』


影たちが、ズルリと動いた。 意思を感じさせない、機械的な動きで、こちらに向かってくる。 草を踏む音すらしない。ただ、そこにある空間が濁っていくような不快感だけが近づいてくる。


直也「……追いかけてきたってことかよ。  しつこいな、お役所仕事が!」


俺はリィナを背に隠し、構えた。 丸腰だ。武器なんてない。 あるのは、AIの光球と、震える魔法使いの少女だけ。


リィナ「な、直也さん……どうしましょう……  わたしの魔法じゃ、あんなの……!」


直也「大丈夫だ。後ろにいてくれ」


口ではそう言ったが、冷や汗が止まらない。 敵からは、明確な殺気——いや、もっと冷たい「処理意志」のようなものを感じる。 触れられたら終わりだ。直感的にそう理解できた。


絶体絶命。 なのに、俺の心の奥底で、奇妙な高揚感が首をもたげていた。 この理不尽な世界に対する怒りが、恐怖を上回ろうとしている。


直也「ALMA。  さっきみたいな『口喧嘩』で、あいつらも追い返せるか?」


ALMA『推奨しません。  対象には「聞く耳」が存在しません。  ……言語による対話は不可能です』


直也「だろうな。話が通じる相手じゃなさそうだ」


影の一体が、腕のような部分を鎌のように振り上げた。 速い。


直也「——くっ!」


俺はリィナを突き飛ばし、泥臭く横に転がった。 ヒュッ、と風を切る音がして、さっきまで俺がいた場所の地面が、音もなく抉り取られている。


「……!」


えぐられた地面を見て、ゾッとした。 土が吹き飛んだのではない。 そこにあった土が、「最初からなかった」かのように綺麗に消失していたのだ。 破壊ではなく、消去。


直也 「触れたら消されるぞ! 逃げ——」


叫ぼうとした俺の足を、別の影が捉えようとする。 動けない。足がすくむ。


(ここで終わりか?) (また、何もできずに?)


いやだ。 せっかく、この世界に来たんだ。 せっかく、リィナという「生きた人間」に出会えたんだ。 こんな、わけのわからない影に塗りつぶされてたまるか。


直也「……ふざけんなよ……」


俺は歯を食いしばり、睨みつけた。


直也「俺たちはゴミじゃない。データでもない。  気に入らないからって、勝手に消そうとしてんじゃねぇよ!」


腹の底から、熱い塊がせり上がってくる。 それは「恐怖」を燃料にして燃え上がる、純粋な「拒絶」の意志。


直也「邪魔だっていうなら……どっちが邪魔か、教えてやるよ!」


その瞬間だった。


ALMA『——感情閾値、突破。  直也さんの「拒絶意志」をトリガーとして承認。  ……内部エネルギー、臨界点を超えます』


ALMAの光が、激しく明滅し始める。 いつもの冷静な青白い光じゃない。 もっと激しい、嵐のような緑色の光が、その中心で渦を巻き始めていた。


ALMA『——来ます。  直也さん、命令(オーダー)を。  この鬱陶しい空気を、どうしたいですか?』


俺は笑った。 答えなんて、決まっている。


直也「決まってんだろ。  ——全部、吹き飛ばせ!」


その言葉が鍵だった。


ALMAの光球が、限界まで輝いた。


次の瞬間、叩きつけるような突風が巻き起こり、迫っていた影たちは抵抗する間もなく霧散していく。消去しようとする力を、より荒々しい「拒絶」が押し返しただけだった。


風の中心で、一瞬だけ何かが形を持つ。


翠色の光。人の輪郭に似た揺らぎ。楽しげで、少し危うい気配。


???「……ふふ。いいじゃない。そういうの、嫌いじゃないわ」


声は、すぐに風に溶けた。


嵐が収まると、そこにはいつもの光球が浮かんでいるだけだった。ただ、その光は微かに揺れ、何かを内側に抱え込んでいるように見えた。


直也「……今の、聞こえたか?」


リィナ「……はい。でも、はっきりとは……」


ALMA『……外部干渉ログ、未整理。詳細解析は後回しとします。直也さん、ここは長居すべき場所ではありません』



(第5話・完)

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