第二話:鏡川、野を駆ける風
大永七年(一五二七年)晩秋。
足裏に感じる地面は、嶺北の岩肌とは違う。柔らかく、湿り気を帯び、どこまでも平坦だ。それは我ら山の民にとって、夢にまで見た豊穣の地であると同時に、身を隠す場所のない恐怖の空間でもあった。
「……空気が、
私は愛槍の柄を握り直し、小さく独りごちた。
嶺北の、肌を刺すような峻烈な風とは違う。平野を撫でる風は、海からの湿気を含んで重く、どこか弛緩した草いきれの匂いがする。平和呆けした土の匂いだ。だが、その緩やかさが、かえって私の神経を逆撫でする。獲物を前にして、
「美作、何をぼうとしゆう。先陣がもう、小競り合いを始めちょるぞ」
兄・茂宗が、愛馬の腹を蹴りながら横に並ぶ。
その視線の先、鏡川の河原に近い一角から土煙が上がっていた。我らの進軍を阻まんと陣を敷く一団。この朝倉周辺を古くから領する、小規模な国人衆の連合軍であろう。
その数、およそ二百。対する我ら本山勢は三百余り。
数ではこちらが勝っている。だが、敵の装備は整っていた。朝日に反射する胴丸や腹巻は漆黒に輝き、手入れが行き届いている。高く掲げられた
対して、我が軍を見渡せばどうだ。具足などという上等なものを持つ者は稀だ。着古した麻の衣の上に、竹や獣皮を編んだ胸当てを付けただけの者ばかり。足元は裸足か、泥にまみれた
「兄上、あれを見なされ。あやつら、名乗りを上げる気でおるようじゃ」
私は、敵陣の先頭で馬を躍らせ、悠然と扇を広げようとしている老将を指差した。
平地の武士の戦法だ。まず互いの距離を測り、
「名乗りだと? ……ふん、腹が減っちょる時に馳走を前に品書きを聞かされるようなものよ」
兄が鼻を鳴らした。その言葉に、周囲の兵たちが忍び笑いを漏らす。笑い声には、殺気が混じっていた。
「茂定、いや美作。おんしの半農の連中、
兄の瞳に、残酷な光が宿る。それは当主としての試練を与える目だった。
私は、背後に控える男たちを振り返った。彼らは嶺北の山々で、険しき崖を米俵三十貫を背負って駆け上がり、邪魔な大木を素手で引き倒してきた荒くれ者たちだ。平地の人間が一生かけても養えぬ脚力と、飢えを知る者特有の渇望を、彼らは骨の髄まで宿している。
「名乗りを終える前に、あいつらの喉笛に食らいつきますろう」
私は短く答え、手にした五尺の木槍を高く掲げた。
それが、本山流の合図であった。
「行けッ! 山の牙を見せちゃれ!」
私の怒号とともに、男たちが動いた。
彼らには「
平地の兵法では考えられぬ速度だ。彼らは川原の石に足を取られることもなく、あるいはそれを飛び石のように利用して距離を詰める。
「な、何じゃ!? まだ名乗りの途中――」
敵の老将が狼狽し、扇を振り上げた時には、すでに遅かった。
一町(約百九メートル)の距離など、彼らにとっては庭の散歩に等しい。瞬きする間に肉薄した山の兵たちは、長槍を構える敵兵の
長い槍は、開けた場所で集団戦を行うには有利だが、一度懐に入られれば無用の長物となる。
「ぎゃあああッ!」
悲鳴が鏡川のせせらぎを消し去る。
短く太い木槍が、敵の磨き抜かれた胴丸の隙間――脇の下や
美しき陣形は、わずか
敵兵が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。だが、逃げる背中こそ、山の民の好物だ。背後から容赦なく突き伏せられ、次々と河原の石が赤く染まっていく。
私は、自身も二人の敵兵を突き伏せた後、乱戦の中央で足を止めた。返り血を浴びた顔を拭わず、倒伏する敵の群れを見下ろす。
兵たちはすでに、倒した敵から具足や太刀を剥ぎ取り始めていた。生きるための貪欲さ。それが我らの強さであり、同時に哀しさでもあった。
「……凄まじいのう、美作。これほどまでの差があるとは」
いつの間にか、兄の茂宗が馬を寄せていた。その表情には、勝利の喜びよりも、異質なものを見るような驚きが浮かんでいる。
「兄上、これが『力』にございます。名や家柄で飯は食えませぬ。土佐を統べるのは、京の礼法を知る者ではなく、この土を誰よりも強く踏みしめた者ですきに」
私は、河原に転がる折れた幟旗の一つを槍先で拾い上げた。そこに描かれた紋様を眺めながら、ふと、東の方角へ視線を投げる。
「これだけの騒ぎ、東の
兄が苦笑いと共に頷く。
「国親か。あの野狐、報せを聞き震え上がるか、それとも歯噛みをするか」
「震えてなどおりますまい。十九年前、父上らの結託により奴の父、
長宗我部国親。かつて本山、山田、大平、吉良の連合軍によって岡豊を追われ、父を失い、流浪の果てに復帰した男。
今は我らに媚びへつらい、従順な振りをしているが、その実、内心は読めぬ。
「じゃが、今は我らの監視下にある。叔母上の
兄が自信ありげに言う。叔母・梅は、九年前に本山家から国親へ嫁いだ。表向きは和睦の証だが、実質は長宗我部家を従属下に置くための
「梅叔母上ですか……。輿入れして、もう九年になりますか」
私は東の空を睨んだまま、ふと気にかかっていたことを口にした。
「子が生まれたいう話も聞きませぬが、息災なのでしょうか。あの国親という男、冷徹と聞きます。叔母上を冷遇しゆうのでは……」
政略結婚とはいえ、九年もの間、吉報がない。人質同然の扱いを受けているのではないか、という懸念が頭をよぎる。
兄は短く鼻を鳴らした。
「案ずるな。あの方は、そこらの男よりよほど肝が座太い。子がなかろうと、弱って泣くような女子じゃないわ。むしろ子が生まれんことで、国親は本山の血を警戒し続けんといかん。……あれは、そういう『枷』となって、岡豊に座っちゅうのよ」
兄の言葉には、肉親への情と、当主としての冷徹な計算が混じっていた。
「女の戦も、おんしの木槍と同じよ。懐に入れば強い」
兄は豪快に笑い飛ばしたが、私は一抹の不安を拭えなかった。あの国親という男、ただ押さえつけられるだけで終わる器だろうか。
「美作。ここは取った。次は、あそこよ」
兄が槍先で南西の小高い丘を指した。
「朝倉。あの山を本山の揺るぎなき城とする。あそこを抑えれば、鏡川の水利も、浦戸へ続く道も、すべて我らの
「承知。山の男たちに、石運びの作法を教え込みますきに」
私は頷き、再び南へと目を向けた。
朝倉城。そこを築けば、もはや我らは山猿ではない。この平野の支配者となるのだ。
鏡川の風が、不意に強さを増した。先ほどまでの温さを失い、本山の冷徹な山風を帯びて、兵たちの熱気を冷ますように吹き抜けていった。
私は、その風に気の高ぶりを抑えられず、思わず身震いしたのだった。
【第二話 終】
次回予告
鏡川の勝利も束の間、朝倉の山にて新たな城の普請が始まる。
槌音が響く中、美作守は現場に漂う異質な気配を察知する。農夫、僧……風景に紛れ込む、東の岡豊城からの視線。
兄の覇業に影を落とさせぬため、美作守は一人、深い闇へと足を踏み入れる。
次回、第三話「五里先の宿敵」
次の更新予定
【毎日 二話更新】紅蓮の檜扇 ―姫若子の狂気を目撃した本山の盾― 池 頼和 @Ike_Yorikazu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。【毎日 二話更新】紅蓮の檜扇 ―姫若子の狂気を目撃した本山の盾―の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます