第一章:嶺北の風、朝倉の土
第一話:名を捨て、地を這う
大永七年(一五二七年)晩秋。
楓や蔦が織りなす錦秋の美しさは、これから始まる修羅の季節を予感させ、見る者の肌を粟立たせる。だが、その燃える山を愛でるごとき猶予は、今の我らにはない。
「茂定、足元をよう見ちょけ。ここを降りれば、もう二度と戻れんかもしれんぞ」
先を行く兄、本山茂宗の声が
十九歳になったばかりの兄の背中は、鹿革の鎧越しにも若き獣の躍動が伝わり、いつになく大きく見える。
我ら本山一族、総勢三百余名。
五尺柄の短い木槍を担ぎ、腰には
我らは今、代々住み慣れた本山の地を離れ、
峠を越える風は刃のように冷たく、吐く息は白い。だが、兵たちの身体から立ち昇る熱気が、その冷気を押し返している。
「分かっちょります。兄上こそ、鼻息が荒すぎはしませぬか」
私は十六の若さゆえの軽口で返したが、握りしめた槍の柄は、汗でじっとりと湿っていた。
塩も、鉄も、豊かな米も、全ては山の下にある。
本山が生き残るためには、天然の要塞を出て、平野の富を奪わねばならぬ。それは一族の悲願であり、同時に、退路を断つ賭けでもあった。
鏡川のせせらぎが、次第に轟々たる濁流の音へと変わる。
苔むした岩場を飛び越え、切り立った崖を幾つも巻き、獣道を下ること半日。不意に、視界を遮っていた鬱蒼たる木々が途切れた。
その瞬間、私は息を呑んだ。
「……これか」
足元から南へ向かって、二里、三里と続く緑の大地。曲がりくねりながら平野を潤す鏡川の銀蛇のごとき輝き。そしてその遥か先には、陽光を跳ね返す
海だ。書物でしか知らぬ、塩の源。
本山城の物見櫓からは、遥か彼方に霞む米粒のようにしか見えなかった世界が、今、掌の届く場所にまで迫っていた。湿った潮の香りが山の乾いた匂いと混じり合い、鼻腔をくすぐる。
「見よ。あそこで一条や長宗我部が、京の真似事をして睦み合うちょる。茂定、あの地を本山の山の色で塗り潰す。それが我らの、いや、父上の悲願じゃ」
兄が指さした東の空には、炊煙が白くたなびいている。
振り返った兄の双眸には、野心の火が灯っていた。その瞳は、ただの略奪者のそれではない。この国の形そのものを変えようとする、覇者の色を宿していた。
だが、そのまばゆい光を前にして、私の胸に去来したのは高揚感だけではない。冷徹な計算と、ある一つの「覚悟」が、私の足を地につけさせていた。
「兄上。少し、
神森山の麓、平野に最初の一歩を記す直前。私は兄を岩陰へと促した。
背負った
「なんじゃ。もう嶺北の水が恋しゅうなったがか?」
私は、からかう兄を見つめ、膝をついて深々と頭を下げた。
「兄上、私は今日を限りに、本山茂定の名を捨てようと思います」
風が止まった気がした。
兄の満面の笑みが消え、当主としての険しい顔が覗く。
「……本山の名を捨てるじゃと。この一大事の折に、何ゆえか」
「
二年前、兄に嫡男・茂辰が誕生した。
本山がいまだ山間の小豪族であれば、兄弟手を取り合うも美談ですんだであろう。だが、我らはこれから巨大な家となる。
領地が広がれば家臣が増え、家臣が増えれば派閥ができる。必ずや「有能な当主の弟」を
歴史を見れば、兄弟による骨肉の争いなど、枚挙にいとまがない。
「私は、母方の
「水臭いことを言うな! わしとおんしの仲じゃ。誰が何を言おうと、わしは……」
「兄上が疑わずとも、周囲が許さぬのです!」
私は声を荒らげ、兄の言葉を遮った。兄の優しさが、今は痛い。
「兄上、情けで目は曇りまする。私は本山の『枝』にございます。幹である兄上と、その若芽である茂辰様を生かすため、私は剪定されねばならんのです」
私は一息に続けた。
「本山の名を捨て、大窪として泥にまみれ、兄上の手が届かぬ汚れ仕事を一手に引き受ける。外敵だけでなく、内なる毒をも防ぐ『盾』となりたいのです」
兄が息を呑む気配がした。
山を降りれば、そこは弱肉強食の修羅の庭。
ここから東へ五里(約二十キロ)。そこには、かつての土佐守護細川家と中村の一条家の威光を借り、虎視眈々と再興を狙う
これからの戦いは、槍働きだけではない。言葉や血筋、婚姻さえも武器にする「化かし合い」になろう。
ならば、私は最初から「影」として、その全てを飲み込む闇になりたかった。
「名は捨てても、この背に檜扇がある限り、私の魂は本山と共にあります。どうか、この弟の
兄・茂宗は、長い沈黙を守っていた。
やがて、私の肩を砕かんばかりの強さで掴んだ。その手は、小刻みに震えている。
「……阿呆が」
兄の声は湿っていた。
「そこまで案じておったか。……わしには、過ぎた弟じゃ」
「兄上……」
「ええろう。ならば大窪美作、おんしのその命、本山の盾として存分に使うてやるきに。覚悟せえよ」
「はっ。命の使い道、心得ちょります」
顔を上げると、兄の目には先ほどまでの野心に加え、深い信頼の色があった。
十六の春に捨てた名は、もう二度と拾うことはない。
兄が再び立ち上がり、兵たちに向かって采配を振るった。
「者ども、行くぞ! この山を降り、平野を我らが庭とするのじゃ!」
喚声が上がり、地を蹴る
三百の兵が、雪崩のごとく坂を駆け下り始めた。その先頭には鬼神のごとき形相の兄、そしてその斜め後ろ、影のように寄り添う私の姿があった。
檜扇の紋が、平野から吹き付ける新しい風に、激しく鳴った。
【第一話 終】
次回予告
土佐平野へ雪崩れ込んだ本山軍三百。鏡川のほとりで彼らを待ち受けていたのは、煌びやかな具足に身を包んだ平野の国人衆だった。
京の風を尊び、礼節と名乗りを重んじる彼らに対し、美作守ら「山の民」はいかなる戦いで挑むのか。
水と油のごとき両軍が対峙した時、戦場の常識が覆される。
次回、第二話「鏡川、野を駆ける風」
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