嶺北の山に生まれ、土を踏みしめて生きてきた者がいる。
その男は、名を捨て、血を捨て、影に徹することを選んだ。
名門・本山家の「枝」として、己を斬り捨てる覚悟とともに。
これは、戦国の土佐を舞台に、
覇を唱えんとする本山一族と、野狐・長宗我部の暗闘を描く骨太な群像劇。
槍を構える者だけが武士ではない。
語られることなき「盾」の生き様こそ、武の本懐。
血の匂いが消えぬ夜を越え、密偵の気配が朝靄に混じる。
武力だけでは成せぬ覇道の裏で、誰が泥をかぶったのか——
それを知る者は、名を持たぬその男だけだった。
名を捨てて家を支え、泥と影に生きる「もう一人の戦国」が、
今、静かにその幕を上げる。
歴史を題材にした作品は数多くありますが、本作は単に史実をなぞるのではなく、歴史書に記されない「空白」をどう考えるかという問いを、主人公・大窪美作守に託して描いている作品だと感じました。
歴史という分野は、結末が分かっているがゆえに、かえって敬遠されがちですが、本作はあえて勝敗や年表の裏側に踏み込み、
「なぜ歴史はそのように動いたのか」
を人物の行動と選択から描いています。
一見すると正史そのものを描いているかのような重厚な語り口でありながら、実際にはフィクションである。
それにもかかわらず、読者が
「これは本当に史実なのでは?」
と錯覚してしまうほどの説得力があるのは、作者の歴史への深い理解と愛情があってこそだと思います。
『事実は小説より奇なり』という言葉がありますが、本作はその言葉を逆手に取り、フィクションでありながら、史実よりも真実味を感じさせる構成になっています。
荒唐無稽な空想時代劇ではなく、あくまで正史の枠組みを崩さず、その裏側を丹念に描くことで、歴史を「知る」だけでなく
「なぜそうなったのか」
を考えさせてくれる、知的好奇心を刺激する良作だと思います。