タクティカル・ドメスティック

不思議乃九

タクティカル・ドメスティック

第1章:平穏の裏側


午前二時。郊外の夜陰に沈むホームセンター『ランドマーク』は、巨大なクジラの骸を思わせた。

高く、無機質な天井から降り注ぐ水銀灯の光は、死んだ魚の鱗のように青白く、棚の隙間に澱(よど)んだ闇を、より一層濃密に際立たせている。空気は乾燥に痩せ細り、切り出された木材の断末魔のような芳香と、化石燃料から絞り出された化学薬品の冷たい臭いが、静寂の肺胞を満たしていた。


カイはその静寂の一部として、在庫リストの束を指先でなぞっていた。夜間管理職という仮面を被って三年。彼の指先には、日常を構築する微細な「厚み」を測る感覚が染み付いている。商品棚の歪み、ネジの緩み、床のタイルが放つ微かな摩擦音の変化。それは彼にとって、単なる管理業務ではなかった。


彼の手にある一本のボールペン。それは事務作業の道具である前に、重心を一点に凝縮させた剛体であり、親指をクリップに添えた瞬間、流線型の殺意へと変貌する。カイの瞳に映る世界は、常に二重露光のように重なっていた。洗剤は腐食の霧として、鉄パイプは折れない骨として、ビニール紐は呼吸を奪う蔦として。脊髄の奥底に澱んだ過去の澱(おり)が、平穏な景色を瞬時にして戦場へと翻訳してしまうのだ。


「……来たか」


独り言は、乾燥した空気に吸い込まれ、霧散した。正面入り口の強化ガラスが、大気の震えを伝えてきた。それは風の悪戯ではなく、研ぎ澄まされた侵入者の意志がもたらす微動。警備システムが沈黙を保っているのは、彼らが電子の鍵を「殺して」から足を踏み入れた証左だ。


三つの影が、月の光を背負って滑り込んできた。サプレッサーを装着された拳銃の銃身が、冷たく月光を撥ね付ける。かつて同じ地獄で火に焼かれた同類。あるいは、カイという「遺物」を清算するために派遣された、感情を持たない掃除機たち。


カイは静かに、手にしたバインダーを棚に置いた。それは決別というより、新しい儀式の始まりだった。


「カイ、出てこい。お前の『清算』の時間だ」


リーダー格の声が、無人の店内に硬い波紋を広げた。その音階が空間を支配しようとした刹那、カイは配電盤のレバーを、祈るような指使いで引き下げた。視界からすべての色が剥奪され、世界は純粋な闇に塗りつぶされる。


「照明を落としたところで無駄だ。ナイトビジョンを展開しろ」


男たちがゴーグルを装着しようとした、その時。暗闇の奥、資材売り場の深淵から、激しい火花が礫となって弾け飛んだ。同時に、耳の奥を掻き毟るような高周波の絶叫が空間を切り裂く。それは高速回転する切断砥石(グラインダー)が、意図的に放置された鋼鉄製のクランプを噛み砕く音。カイはすでに、日常という名の皮膚を剥ぎ取り、その下に隠していた「殺戮の解剖学」を起動させていた。


カイがここで戦う理由は、私怨でも復讐でもない。それは、彼自身がかつて属していた世界の内部規則によるものだった。

彼が属していた組織では、「引退」は存在しても「免責」は存在しない。引退とは、一定期間、新たな火種を生まないという条件付きの保留に過ぎず、その人物が将来的に危険因子となる可能性が消えたことを意味しない。カイは三年前、自らを「静的資産」として棚上げすることで、その場を去った。だが、資産は時間と共に劣化する。記憶が風化し、所在が不明瞭になり、環境が変化すれば、回収コストは上昇する。

組織は感情で動かない。恨みも、怒りも、評価もない。あるのは「未処理を嫌う」という単純な性質だけだ。今夜送り込まれた三人は、復讐者ではない。また、カイ個人を強く憎む理由も持たない。彼らは、帳簿上に残り続けている名前を確認しに来ただけだった。そして、もし対象が依然として「処理可能」であるなら、その場で処理する。それが彼らの仕事であり、かつてのカイ自身の仕事でもあった。


このホームセンターが選ばれた理由は、偶然ではない。危険物、重量物、電力、薬品、水。すべてが合法的に存在し、事故として説明可能な環境。組織にとっても、そしてカイにとっても、ここは最も摩擦の少ない清算地点だった。だからカイは逃げない。逃げれば、追跡は拡大する。被害は外へ波及する。彼がここで迎え撃つのは、生き延びるためではない。日常を、これ以上壊さないためだった。


第2章:通路の境界線


暗闇を統べるのは、もはや光ではなく情報の密度だった。追手たちが装着したナイトビジョンの視界において、世界は不気味な緑色の濃淡へと変質する。熱を帯びた彼らの吐息が、センサー越しに白い霧となって漂った。


「音の源を潰せ。左だ」


リーダーの合図とともに、二人の刺客が資材売り場へと滑り出す。彼らの足取りは慎重だが、その内面には最新装備への全幅の信頼があった。暗闇を見通せる自分たちに対し、ただの店員に成り下がった男が抗えるはずもない。その慢心が、彼らの歩幅を数センチだけ狂わせる。

だが、カイが仕掛けたのは、視覚を欺く罠ではなかった。先頭の男が角を曲がった瞬間、視界の隅で銀色の閃光が走った。それは、建築用資材の棚から突き出した、何の変哲もない**鋼鉄製の巻尺(コンベックス)**だった。


カイはあらかじめ、数メートルの長さに引き出したメジャーの刃を、バネの張力を極限まで高めた状態で固定していた。男の足が、床に張られた目に見えないほどの細い釣り糸に触れた刹那、固定が解ける。凄まじい速度で巻き戻る鋼鉄の帯は、単なる文房具ではなく、螺旋を描いて獲物を切り刻む「空中の剃刀」へと変貌した。


「ぐっ……!」


男が反射的に顔を背けるが、鋭利な鋼鉄の縁がタクティカルゴーグルのレンズを深く抉り、その奥にある頬の肉を浅く切り裂いた。視界が火花を散らして乱れる。だが、カイの追撃はそれだけに留まらない。


怯んだ男の足元には、数分前にぶちまけられた大容量のシリコンスプレーが、氷の湖のような平滑な死地を形成していた。特殊部隊仕様のコンバットブーツといえど、摩擦係数を完全に喪失したタイルの上では無力だった。重心を崩し、無様に床へ叩きつけられる肉体。その衝撃が、店内に重苦しい音を響かせる。


「罠だ! 距離を取れ!」


後方にいた二人の男が銃口を向けるが、そこにはすでにカイの姿はない。彼らが捉えたのは、棚から崩れ落ちた**断熱材(グラスウール)**の白い雲海だけだった。


カイは闇に紛れ、棚の背後を音もなく移動する。彼の手には、先ほどレジカウンターから持ち出した**強力なステープルガン(建築用ホチキス)**が握られていた。彼はそれを武器として使うのではない。


彼は、近くの棚にあった高圧のダストブロワーのノズルを、ステープルガンで強引に固定し、排気弁を全開にした。シュウッ、という微かな排気音と共に、周囲の棚に積まれていた**消石灰(ガーデニング用)**の粉末が、人工的な吹雪となって通路を埋め尽くしていく。


緑色の視界は、乱反射する白い粒子によって完全に遮断された。ナイトビジョンという「文明の眼」は、ただの白い壁を映し出すだけの役立たずなガジェットへと成り下がった。


「視界不良! 切り替えろ!」


男たちがゴーグルを跳ね上げ、肉眼で闇を凝視しようとしたその瞬間。カイは、白い霧の向こう側から、一本の長い塩ビパイプを突き出した。先端には、あらかじめ火を灯したパラフィンワックスの塊が固定されている。霧散した消石灰と、僅かに混じった可燃性の粉塵。そこに火種が投じられた。爆発ではない。それは、闇の中で一瞬だけ咲いた、静かで、残酷な「光の捕食」だった。


この段階で、戦闘の主導権はすでに決している。銃の有無でも、人数差でもない。決定的だったのは、空間の所有権だ。


追手たちは「制圧」に慣れている。彼らの訓練は、未知の場所を短時間で安全な領域へと変換することに特化している。視界を確保し、死角を潰し、音と光を管理する。だが彼らが扱っているのは、一時的に踏み込む空間だ。


一方で、このホームセンターは、カイにとって三年間、毎夜「観測され続けた空間」だった。商品の配置。棚の重量。床材の摩耗。換気の癖。閉店後に発生する音の偏り。それらは図面では把握できない。現場に身を置き続けた者だけが知る、ズレと癖だ。


描かれている罠の多くは、即興ではない。設営も、準備も、特別な仕込みも行われていない。だが、**「いつでも成立する配置」**として、日常の中に温存されていた。


追手たちは、最新装備を信頼していた。ナイトビジョンは、闇を情報へと変換する。だが同時に、それは「視覚情報以外を軽視する」という判断を誘発する。粉塵、反射、過剰な明度。それらはナイトビジョンにとって致命的だが、装備を信頼している者ほど、切り替えが遅れる。

カイはそれを知っていた。かつて、自分自身が同じ判断を下してきたからだ。この章で起きているのは、高度な戦術の応酬ではない。「慣れている側」と「知っている側」の差が、表面化しただけだ。


追手たちは、プロとして正しい判断を積み重ねている。だが、その判断は「ここが自分たちの戦場である」という前提の上に成り立っている。カイは、その前提を否定している。ここは戦場ではない。彼らが一時的に侵入した、他人の生活圏だ。その事実に気づいた時点で、彼らはすでに、境界線の内側に足を踏み入れていた。


第3章:摩擦の罠


粉塵が静かに床へ降り積もり、人工的な霧が晴れていく。その僅かな静寂の合間に、肉体と硬いタイルが擦れる不快な音が響いた。シリコン潤滑剤に足を掬われ、無様に転倒した男が、必死に体勢を立て直そうともがいている。


男にとって、それは永遠にも似た空白の時間だった。銃をどこへ放り出したのかも定かではない。視界を焼く消石灰の痛みと、滑り続ける床。五感が機能不全を起こした闇の中で、彼は自分に歩み寄る「気配」を感じた。それは足音ですらなかった。ただ、空気が僅かに押される感覚。そして、耳元で聞こえた**「ジ、ジジッ」**という、どこか事務的で、あまりに日常的な硬質の音。


カイは男の背後に膝をつき、淀みのない動作でその首筋に**大型の結束バンド(インシュロック)**を回していた。結束バンド。それは本来、乱れた配線を束ね、あるいは荷を固定するための、秩序の象徴だ。一度噛み合えば、逆戻りは許されない。ナイロンの歯がラチェットを刻むたびに、その環は不可逆的な収縮を繰り返す。


「あ……が……」


男が喉を掻き毟ろうとするが、カイの手は岩のように動かない。さらに二本、三本。カイは結束バンドを連結させ、男の手首を背後で、物理的な限界まで絞り上げた。肉に食い込むナイロンの帯は、皮膚を裂き、腱を圧迫する。男が暴れれば暴れるほど、自己増殖する苦痛のように、バンドはその食い込みを深くしていった。


「抵抗すればするほど、お前の肉がそれを『締めるべき荷物』だと認識する」


カイの声は、感情を剥ぎ取られた刃のように冷たかった。彼は男の耳元で、さらに数ミリだけバンドを引いた。ギチリ、と軟骨が悲鳴を上げる音が、静かな店内に贅沢なほど響く。

もう一人の追手が、散乱した木材の影から銃口を向けた。だが、そこにはすでにカイの姿はない。あるのは、首と手首を無慈悲なプラスチックの輪で連結され、奇妙な姿勢で固定された同僚の肉塊だけだ。


「助け……、け……」


絞り出される声は、気道を圧迫するナイロンによって細く、鋭い笛の音のようになって消えていく。救おうと触れれば、その圧力はさらに増すだろう。カイは知っていた。この安価なプラスチックの成形品が、どんな高価な手錠よりも冷酷に、人間の尊厳を奪い去ることを。


追手は、呻き声を上げる同僚を盾にせざるを得ない状況に、戦慄した。彼らの訓練されたタクティクスには、「ホームセンターの在庫」によって仲間が物言わぬオブジェに変えられる事態など、想定されていなかったのだ。


カイは闇の深淵で、次の獲物を品定めするように、腰のベルトに下げたカッターナイフの刃を一段だけ折った。チキン、という乾いた金属音。それは、この巨大な箱庭における「次の処刑」の合図だった。


結束バンドは、棚の下段に常備されている業務用のものだった。荷崩れ防止用で、引張強度は人間の体重を軽く超える。誰が、何本使ったか。どの時間帯に、どれだけ消費されたか。その程度のログは、翌朝の発注画面に「誤差」として吸収される。


呻き声が完全に消えたあと、カイは一度だけ、縛られた男の脈を確認した。生きているかどうかではない。どれくらい保つかを測るためだ。彼は、結束バンドの余った尾を、床に落ちていた木屑と一緒に踏み折り、靴底で軽く均した。


暗闇の中、その行為を見ていた者はいない。だが、「処理は、すでに始まっている」という事実だけは、この通路に確かに残っていた。


第4章:静かなる爆圧


戦場は、清潔なステンレスの光沢が並ぶ厨房用品エリアへと移行した。ここは、家庭の団欒を支える道具たちの安息所だ。だが、カイの瞳に映るそれは、熱力学と流体力学が牙を剥くための「部品倉庫」に過ぎない。


生き残った二人の追手は、もはやカイを「かつての同僚」とも「ただの店員」とも思っていなかった。彼らの歩法からは余裕が消え、銃口は過剰なまでの緊張に震えている。


「……いたぞ。ガスコンロの棚だ」


リーダー格の男が、電子レンジの影に潜む人影を捉えた。彼らは遮蔽物を利用し、相互にカバーし合いながら距離を詰める。タクティカル・ライトの光が、整然と並んだカセットコンロのボンベを撫でた。


その時、密閉された空間に、場違いな電子音が響いた。ピー、ピー、ピー。家庭の食卓で聞き慣れた、調理の完了を告げる無機質な報知音。


「伏せろ!」


直感的な危機感に突き動かされ、男たちが床に身を投げた瞬間、一台の電子レンジが内部から爆発した。だが、それは序奏に過ぎない。カイは電子レンジの中に、水を入れたボウルと共に、数本のダクトテープで連結したボンベを放り込んでいた。電磁波によって急速に加熱された水分は蒸気となり、密閉された空間の圧力を限界まで引き上げ、外殻を内側から引き裂いたのだ。


飛散した強化ガラスの破片が、散弾となって男たちの防弾ベストを叩く。しかし、カイの真の狙いは爆発そのものではなかった。

棚から崩れ落ちた数十本のカセットボンベ。その周囲には、カイによって事前に切り裂かれた小麦粉と片栗粉の袋が、雪のように降り積もっていた。電子レンジの爆発による衝撃波が、その微粒子を大気中へと一気に巻き上げる。


「粉塵……爆発……っ!」


男が叫ぶよりも早く、爆発の余熱が、理想的な濃度で攪拌された粉末の雲に触れた。ドォォォォン、という重低音が店内の空気を震わせる。それは鋭利な破裂音ではなく、大気が一瞬にして膨張し、空間そのものが獲物を押し潰そうとする「圧」の暴力だった。オレンジ色の火炎が、通路という名の筒の中を、猛速のピストンとなって駆け抜ける。


火炎に焼かれたのは、男たちの皮膚だけではない。爆圧によって肺の中の酸素は強制的に奪われ、彼らは灼熱の真空の中で、魚のように口をパクつかせた。


カイは、その爆炎から数メートル離れた、大型の業務用冷蔵庫の陰に身を潜めていた。彼は分厚い鋼鉄の扉を盾にし、爆風が背後を通り過ぎるのを、秒刻みの精度で待っていたのだ。炎が収まり、黒煙が漂う静寂の中で、カイはゆっくりと立ち上がった。足元には、焦げた小麦粉の異臭と、熱で歪んだフライパンが転がっている。


「道具には、それぞれ適した温度がある」


カイは、手近な棚からシリコン製のトングを手に取った。それは、熱を帯びた「何か」を、汚れを嫌うように取り扱うための道具だ。彼はそれを、まるで外科手術の執筆を始める執刀医のような手つきで構え、煙の向こう側で喘ぐ影へと歩みを進めた。物理法則は常に平等だ。それを支配する知略を持たぬ者にとって、日常はあまりに脆弱な薄氷でしかなかった。


電子レンジの扉は、歪んだまま半開きで止めていた。安全装置は、とうに役目を終えている。庫内に残った破片の一部は、加熱と衝撃で丸く溶け、床に落ちた際には、もはやガラスではなくただの鈍い塊になっていた。カイはそれを踏まないよう、無意識に歩幅を調整している。


粉塵が舞った場所には、白と焦げ茶のまだら模様が残っていた。小麦粉か、片栗粉か。区別はつかない。ただ、呼吸器に悪い濃度だったことだけは、喉の奥に残る微かな痛みが教えてくれる。


棚から落ちたカセットボンベのうち、数本は変形し、使用不可として静かに転がっていた。爆ぜなかったことは、運ではない。製造ロット、保管温度、そして置かれていた向き。そのすべてが、「起きなかった事故」として積み重なっている。カイは一度だけ、業務用冷蔵庫の扉を開け、内部の温度表示を確認した。正常値。それを見てから、彼は初めて、息を一つ、深く吐いた。


煙は、まだ完全には抜けていない。だが、この場所はもう戦場ではない。次にここを使うのは、清掃か、あるいは搬入だ。その境界は、爆圧よりもずっと静かに、もう越えられていた。


第5章:高電圧の挨拶


爆炎が去った後の通路には、焦げた有機物の臭いと、歪んだ金属の軋みだけが残っていた。リーダー格の男は、火傷を負った腕を引きずりながら、バックヤードへと通じる重い防音扉を蹴り開けた。そこは、資材搬入と清掃用具の保管を兼ねた、さらに湿り気の強いエリアだった。


「カイ……! 貴様、ただで死ねると思うなよ!」


男の声には、プロとしての矜持をズタズズに引き裂かれた者の、獣じみた怒りが混じっていた。彼は残された片方の手で拳銃を握り直し、影に潜むカイを求めて銃口を彷徨わせる。だが、その足元は、先ほどの消火活動、あるいはカイが意図的に開放した園芸用リールホースによって、数センチの深さまで水に浸っていた。


カイは、大型の棚の背後にいた。彼の手元にあるのは、農機具コーナーから持ち出した強力な12Vのカーバッテリーと、それを直列に繋ぎ合わせた数個の予備電源。そして、本来は植物の誘引に使うはずの、被覆のない銅線だった。


「電気は、常に最短の道を選んで流れる」


カイの声が、コンクリートの壁に反響し、どこから聞こえるのか判別を許さない。男が音の方向に銃を向けた瞬間、カイは濡れた床に、通電させた銅線の末端を沈めた。静寂を裂いて、パチパチという青白い放電音が、水の表面を這い回る。


男が悲鳴を上げる間もなかった。水という媒体を通じ、数アンペアの電流が彼のブーツの隙間を縫って肉体へと奔った。


「あ、が……っ、あぁぁぁあ!」


筋肉が強制的かつ不可逆的に収縮し、男は引き付けを起こしたようにその場に硬直した。指は引き金にかけられたまま、自分の意志とは無関係に固まり、銃を落とすことすら叶わない。神経系が外部からの強制信号によってジャックされ、脳は「逃げろ」と命じているのに、肉体はただその場で踊り続けるだけの肉の塊と化した。


カイは、その光景を冷徹な観察者の目で見守っていた。彼は手に、洗車コーナーから持ち出した高圧洗浄機のロングノズルを構えている。


「過負荷だ。お前の神経も、組織のシステムも」


カイは洗浄機のスイッチを入れた。モーターが唸りを上げ、圧縮された水が極細の刃となって射出される。それはもはや汚れを落とすためのものではなく、数MPa(メガパスカル)の圧力を一点に集中させた「水のメス」だった。高圧の水流が、男の手首を正確に打つ。

電気による硬直で感覚が麻痺していた男は、自分の手首の皮膚が剥がれ、神経が断裂していく光景を、他人事のように見つめるしかなかった。銃が、指の破片と共に水溜まりへと没する。カイはゆっくりと歩み寄り、男の首筋に手を置いた。その手つきは、荒れ狂う家畜を鎮める飼育員のように、あるいは死を宣告する神父のように、ひどく穏やかだった。


「挨拶は済んだ。次は、お前たちの哲学について話そうか」


カイはバッテリーの接続を解いた。電流から解放された男の肉体が、糸の切れた人形のように水面に崩れ落ちる。跳ね上がった水飛沫が、カイの頬を濡らした。日常を守るために使われるエネルギーが、牙を剥いた時。人は、自分がどれほど脆弱な「導体」に過ぎないかを思い知るのだ。


床に溜まった水は、しばらくの間、静かに波紋を残していた。感電が終わったあとも、靴底と水面のあいだで、微かな放電音が数秒だけ続く。高圧洗浄機のノズルは、自重で少しだけ角度を変え、壁に向かって水を吐き続けていた。排水溝へ向かう水流の途中に、黒く焦げた跡が一本、細く引き伸ばされている。銅線は、使い終えたあと、無造作に丸められて棚の上に置かれた。再利用はできない。被覆のない部分が、目に見えないほど歪んでいる。


カイはそれを確認し、何も言わずに背を向けた。この場所に残ったのは、焼けた臭いでも、血でもない。湿気と、金属の冷えだけだった。やがて、ホースリールの自動巻き取りが作動し、濡れた床の中央に、規則正しい円が描かれる。誰かが見れば、ただの清掃前の状態にしか見えない。だが、水はすでに、十分な仕事を終えていた。


第6章:即席の鎧


静寂が戻ったバックヤードで、カイは自身の脇腹に手を当てた。先ほどの爆圧の余波か、あるいは崩落した棚の破片が掠めたのか。作業着の繊維が裂け、熱い液体が滲んでいる。致命傷ではないが、肉体が発する微かな悲鳴が、彼の集中力を削ごうとしていた。


カイは止血のために、迷わず梱包用ストレッチフィルムのロールを手に取った。透明な樹脂の帯を、傷口の上から容赦なく巻き付ける。フィルムは自身の粘着性で肉体を締め上げ、即席の圧迫止血帯として機能した。


「……まだ、終わっていない」


店内に残る気配は、あと一人。あるいは二人か。組織が送り込む刺客は、一度の失敗で退くほど甘くはない。カイは次の接敵に備え、自身の肉体を「強化」し始めた。


彼は書籍コーナーへ向かい、棚から数冊の厚手のファッション雑誌と、ハードカバーの図鑑を抜き出した。それらを重ね、腹部と胸部に当てる。さらにその上からダクトテープを何重にも巻き付け、身体に密着させた。紙という素材は、積層されることで驚異的な抗弾・抗刃性能を発揮する。繊維の密度が衝撃を分散し、鉛の弾丸すらその深淵で食い止める「沈黙の防具」へと昇華するのだ。


次に、彼は清掃用の伸縮式モップの柄を手に取った。その先端に、化粧品売り場から回収した小型の手鏡を、ガムテープで斜めに固定する。これは潜望鏡(ペリスコープ)だ。角を曲がらずとも、死角に潜む死を覗き見ることができる。カイは鏡の角度を微調整し、歪んだ反射の中に、獲物の影を探した。


鏡の中に映し出されたのは、DIY工具売り場の陰で息を殺す、最後の一人——。男が隠し持っていたタクティカルナイフの冷たい輝きを、カイの「即席の眼」が容赦なく捉えた。カイは、防具として巻き付けた雑誌の重みを確かめる。


「紙には、言葉以外にも刻めるものがある」


彼は鏡越しに敵の位置を特定すると、モップの柄を静かに置いた。守りは固まった。次は、敵の精神を内側から崩壊させる「揺さぶり」の時間が始まる。


第7章:音の攪乱


暗闇に包まれた店内は、もはや刺客にとって慣れ親しんだ戦場ではなかった。カイは、影の中に溶け込みながら、手にした「楽器」を演奏し始めた。


まず、彼は家電コーナーから持ち出した数個の目覚まし時計を、別々の通路に配置し、アラームを数分ずつの間隔を置いてセットした。さらに、電動ドリルのトリガーを結束バンドで固定した。


ジリリリリ、と一点でベルが鳴り響く。男が反射的に銃口を向けた瞬間、逆側の通路で、ウィィィィンというドリルの駆動音が床を震わせた。男の聴覚は、情報の過負荷に陥っていた。


音だけではない。カイは、床に数枚のアルミホイルを不規則に撒き散らしていた。男が動くたびに、暗闇の中で微かな光が反射し、ガサリという特有の音が鳴る。さらに、強力な粘着テープを通路に張り巡らせた。男の腕が不意に粘着面に触れる。見えない何かに捕らえられたという恐怖が、プロの冷静さを容易く剥ぎ取っていく。


「……影が見えるか?」


カイのささやきが、スピーカーからランダムに再生される。前後左右、さらには頭上から降り注ぐ自分の名前。男は、実体のない影を相手に、虚空へ向けて銃弾を放った。弾丸が貫いたのは、カイが囮として立たせたマネキンでしかなかった。


「そこだ!」


男がマネキンに向かって突進する。その先は、中央ホールへと続く階段。カイの意図した通り、男はパニックという名の濁流に流され、自ら「重力の審判」が待つ次の舞台へと追い詰められていった。


目覚まし時計の一つは、途中で電池が外れ、鳴り止んでいた。だが、その事実に気づく者はいない。止まった音もまた、攪乱の一部だった。電動ドリルの回転数は、トリガーの固定が甘かったため、わずかに上下している。その不安定さが、機械音を「生き物」に近づけていた。


粘着テープには、いつの間にか埃と細かな木屑が付着し、粘り気が不均一になっている。触れた箇所によって、剥がれる音が違う。それが、恐怖をさらに細かく刻む。アルミホイルは、踏まれたあと、必ずしも元の形には戻らない。逃げた痕跡は消えない。ワイヤレススピーカーの一台は、通信が途切れ、数秒遅れで同じ音声を再生していた。それはエコーではない。ただの遅延だ。


カイは、最後に使ったスピーカーの電源を切らなかった。音は、まだ鳴り続けている。それを止める必要が、もうなかったからだ。


第8章:重力という凶器


吹き抜けになった中央ホール。最後の一人となった刺客は、もはや理性を失いかけていた。彼は階段を駆け上がり、中二階の通路へと逃げ込んだ。


カイは、その真上のキャットウォークに潜んでいた。足元から階下に向けて、数本のワイヤーロープが張り巡らされている。その先にあるのは、数個の20リットル入り建築用塗料缶だ。合計で100キロ近い質量。


「位置エネルギーは、裏切らない」


カイは呟き、ワイヤーを固定していた最後の一箇所を、カッターの刃で断ち切った。キィィィィィィン、という絶叫。男が上を見上げた瞬間には、すでに遅かった。重力に従って加速した塗料缶の群れは、巨大な鉄の拳となって、男の側面へと殺到した。


凄まじい衝撃音とともに、男の肉体は手すりごと中空へと叩き出された。空中で塗料缶が弾け、鮮やかな原色の液体が、血飛沫と混ざり合いながら飛び散る。男の体は、一階のタイル床へと叩きつけられた。重力。それはこの惑星に生きるすべての者が等しく受ける制裁だ。


カイはキャットウォークから、色の混じり合う床を見下ろした。そこには、壊れた人形のような影が横たわっている。カイはただ、手にしたカッターの刃を静かに納め、次の「理」を遂行するために、最後の一歩を踏み出した。


第9章:化学的窒息


重力に叩きつけられた最後の一人は、這うようにして最奥の資材倉庫へと逃げ込んだ。男は震える手でドアをロックし、薬品棚から洗浄剤のボトルを床に叩きつけ始めた。カイと同じ地獄の知識を使い、死のガスで道連れにしようとしたのだ。


だが、暗闇の中からカイの声が響いた。


「混ぜる順序を間違えている。それではお前が先に意識を失うだけだ」 


ダクトの隙間から細いチューブが差し込まれ、無色透明の液体が噴射される。カイは隣接するバックヤードで、塩素系漂白剤と強酸性洗剤を「正しく」調合していた。発生した塩素ガスが、サーキュレーターによって倉庫へと送り込まれる。


「あ……、が……っ」


男の喉が熱に包まれ、肺胞が破壊されていく。カイは、自身の口元を重曹水で湿らせたキッチンペーパーで覆い、ドアを外側からクランプで固定した。


「化学は、誠実だ。組成を違えなければ、必ず約束された死を運んでくる」


ドアの向こう側の足掻きはやがて止み、鈍い衝撃音へと変わった。死の霧が充満する倉庫の中で、最後の一人の「清算」が完了した。夜明けには、まだ時間があった。


換気が続くあいだ、店内の温度は一定に保たれている。通路の奥で、何かが引きずられた痕はある。だが、それは血ではない。単なる「重さの移動」だ。遮光シートの内側で、形は崩れている。ここでは、壊れた物は壊れた状態のまま回収される。ラベルは貼られない。ただ、「次に空になる場所」が一つ決まるだけだ。


外では、遠くでトラックのエンジン音がした。カイはその音を数えなかった。夜が終わる前に、この箱は再び空になる。それだけが確定していた。


第10章:日常への帰還


夜明け前の空気は、すべてを許容するように冷たく、青い。カイは、静まり返った店内に一人立っていた。


彼は、魔法が解けるのを待つ子供のような手つきで、作業を始めた。まず、ワイヤーを回収し、棚に戻す。飛び散った塗料と血の混じった飛沫は、強力な工業用洗剤とポリッシャーによって跡形もなく消し去られた。壊れた棚は数分で元の秩序を取り戻し、消費された道具たちはすべて「破損品」としてコンテナの奥底へ沈められた。


「……元通りだ」


カイは、鏡の前で足を止めた。雑誌の鎧を解き、ダクトテープを剥がしていく。粘着剤が皮膚を引く痛みが、彼に「生」の実感を与えた。鏡の中に映る男は、どこにでもいる、少し疲れの見える中年店員の顔をしていた。


最後に、彼は遮光シートで包んだ「物流のミス」を死角へと運び出した。組織は、失敗の痕跡を自ら回収しに来るだろう。それが彼らの、そしてカイのいた世界の流儀だ。


午前六時。自動ドアの電源が入り、店舗の照明が本来の暖かみのある色で点灯した。カイは、入り口のマットの歪みを靴先で直し、レジカウンターに立った。彼の手には、一本の新しいボールペンがある。


「おはようございます、店長。早いですね」


「ああ、少し在庫の整理が長引いてね」


彼女の視線は、カイの手元の、新しく補充された結束バンドの棚を通り過ぎていった。世界は、日常という名の薄氷の上に成り立っている。カイはその氷を割らぬよう、一歩ずつ、慎重に、新しい一日へと踏み出した。


背後の棚では、千もの「武器」たちが、ただ静かに、客が手を伸ばすのを待っていた。


(了)

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