エピローグ
エピローグ
朝の港は、まだ眠りの中にあった。
潮の匂いが、湿った風に乗って漂う。
船のロープが、きい、と低く鳴った。
空は淡い灰色で、夜と朝の境目が曖昧だ。
「……寒いですね」
外套の襟を押さえながら、イレーネが言った。
「ええ。でも、嫌いじゃない」
リディアは、海を見ていた。
波が、防波堤に当たって砕ける音。
それは、戦争の音とはまるで違う。
「今日、発つのですか」
「はい。昼前に」
「次は……?」
「南の小国。
条約の“確認”だけ」
イレーネは、小さく笑った。
「相手は、震えているでしょうね」
「どうかしら」
リディアは、肩をすくめる。
「震えるのは、
自分が何をしたか、
きちんと理解している人だけよ」
桟橋の奥で、誰かが名前を呼んだ。
「……リディア」
振り向くと、父が立っていた。
少し痩せたように見える。
「見送りに来てくださったのですか」
「当たり前だ」
一拍、言葉を探す。
「……もう、
引き止める理由がなくなった」
その声は、どこか寂しそうだった。
「それでも」
リディアは、穏やかに言った。
「帰る場所は、ここです」
父は、深く息を吐いた。
「……強くなったな」
「いいえ」
彼女は、首を振る。
「選ぶことを、やめなかっただけです」
父は、しばらく黙っていたが、やがて頷いた。
船に乗り込む前。
数人の貴族が、遠巻きに立っている。
「……外交官殿」
「お気をつけて」
「次も、よろしく……」
かつて、彼女を責めた顔。
視線を逸らした顔。
リディアは、歩みを止めなかった。
「……あの」
一人が、勇気を出したように声をかける。
「あなたは……
我々を、恨んでいますか」
リディアは、足を止めた。
海風が、髪を揺らす。
「恨んでいません」
静かな声。
「ただ――」
振り返る。
「覚えています」
その一言で、十分だった。
船が、ゆっくりと岸を離れる。
「……行きましたね」
イレーネが呟く。
「ええ」
リディアは、手すりに指をかけた。
木の感触が、確かだ。
「不思議です」
イレーネが言う。
「戦争を終わらせた人なのに、
こうして見ると……」
「普通?」
「……はい」
リディアは、少し考えてから答えた。
「それでいいの」
空を見上げる。
「英雄になった国は、
また、誰かを使い捨てにする」
「でも」
イレーネは、彼女を見る。
「あなたは……」
「私は」
リディアは、静かに続けた。
「花嫁にされそうになったことを、
一生、忘れない」
船が、波を切る。
「だから、次は」
目を細める。
「誰かが“差し出される”前に、
話を終わらせる」
夕暮れ。
船室の窓から、橙色の光が差し込む。
「……疲れていませんか」
「少しだけ」
リディアは、カップを手に取る。
温かいお茶の香り。
「でも」
一口、飲む。
「ちゃんと、眠れる」
「それは……」
イレーネが、微笑む。
「よかった」
リディアも、微笑んだ。
「花嫁だった頃は、
眠れなかったもの」
夜。
甲板に出る。
星が、ひとつ、またひとつ、灯る。
「……ねえ」
イレーネが、静かに言った。
「もし、あの時――
条約がなかったら」
リディアは、星を見つめたまま答えた。
「それでも、
別の“言葉”を探したでしょう」
「剣ではなく?」
「ええ」
微かな笑み。
「剣は、
いつか必ず、誰かの手を離れる」
風が、強くなる。
「でも、
言葉と記憶は、残る」
船は、闇の中を進む。
リディアは、胸の奥で、静かに息をした。
彼女は、使い捨てにされかけた。
だが、使われなかった。
彼女は、花嫁になるはずだった。
だが、外交官になった。
そして今も、
誰かが“差し出される”瞬間を、
世界のどこかで待っている。
その時は――
また、ページをめくるだけだ。
静かに。
確実に。
波の音が、船を包む。
物語は、もう語られない。
だが、
選ばれなかったはずの人生は、
今日も、確かに続いている。
『隣国に嫁ぐ公爵令嬢、侵略の口実を逆手に取る』 春秋花壇 @mai5000jp
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