第10話 花嫁ではなく、外交官として

第10話 花嫁ではなく、外交官として


 


婚姻破棄の書状は、白かった。


装飾もなく、余白が多い。

封蝋を割る音が、やけに大きく響いた。


「……終わったのですね」


イレーネが、そっと言う。


「ええ」


リディアは、書状を机に置いた。

紙の感触は、軽い。

それが、何より不思議だった。


「“双方合意のもと、婚姻は成立しなかったものとする”」


淡々とした文面。

だが、その裏に、どれほどの言葉と犠牲が折り畳まれているか――

彼女は、よく知っていた。


 


王宮の謁見の間。


高い天井から差し込む光が、床に長い影を落としている。

その中央に、リディアは立っていた。


「リディア・フォン・エルツハイム」


王の声は、以前より低く、慎重だった。


「そなたの功績により、

両国間の戦争は、最小の被害で終結した」


ざわめき。

だが、否定の声はない。


「剣を振らず、

兵を煽らず、

条約と証拠によって侵略を止めた」


王は、一拍置いた。


「よって――」


重みのある沈黙。


「そなたを、

独立した外交官として任命する」


一瞬、音が消えた。


次いで、低いざわめきが広がる。


「独立……?」


「公爵家の付属ではなく……?」


「女で……?」


囁きは、確かに聞こえた。

だが、もう胸は痛まなかった。


「……拝命いたします」


リディアは、静かに頭を下げた。

床の冷たさが、額に伝わる。


「ただし」


王が、続ける。


「その立場は、前例がない。

孤独なものになるだろう」


リディアは、顔を上げた。


「承知しています」


その声は、揺れなかった。


 


謁見の後。

廊下の窓辺。


「……おめでとうございます」


父が、少しぎこちなく言った。


「ありがとう、お父様」


一瞬、沈黙。


「……すまなかった」


低い声。


「お前を、

国の都合で差し出した」


リディアは、父を見た。

老けたように見える背中。


「ええ」


一拍。


「でも」


小さく、息を吸う。


「私が、戻って来られたのは、

あなたが“完全に黙らなかった”からです」


父は、目を伏せた。


「……誇りに思う」


その言葉は、重く、真実だった。


 


その日の夕刻。

再び、広間。


貴族たちが、集まっている。


「外交官殿」


「あなたのおかげで……」


「感謝を……」


言葉は、柔らかい。

だが、数日前までと同じ口だ。


リディアは、一歩前に出た。


「皆さま」


空気が、静まる。


「婚姻が破棄され、

戦争は終わりました」


誰も、否定しない。


「ですが」


彼女は、はっきりと言った。


「忘れないでください」


視線を、巡らせる。


「私が嫁ぐと決まったとき、

誰が、何を言ったか」


ざわり、と空気が揺れる。


「女を差し出せば済む、と」


「黙って従えば平和だ、と」


沈黙。


「……最後に、ひとつだけ」


彼女は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「女を嫁に出せば国が守れると思ったのなら」


一拍。


「その認識こそが、敗因です」


音もなく、言葉が落ちた。


 


夜。

城の外。


風が、髪を揺らす。

遠くで、街の灯りが瞬いている。


「……これから、どうされるのですか」


イレーネが、隣で尋ねた。


「忙しくなります」


リディアは、空を見上げる。


「次は、別の国。

別の条約。

別の“正義”」


「花嫁ではなく?」


「ええ」


小さく、笑った。


「外交官として」


夜気は、冷たい。

だが、胸は不思議と温かかった。


彼女は、使い捨てにされかけた。

だが、折れなかった。


利用されかけた。

だが、読み直した。


そして今、

国家の未来を、

条件と責任で結ぶ場所に立っている。


リディアは、静かに歩き出す。


剣も、花嫁衣装も、もう要らない。


彼女の武器は、

言葉と、記憶と、決して忘れない心だった。


――物語は、ここで終わる。


だが、

彼女の仕事は、

これから始まる。


ざまぁは、静かに。

そして、確実に。


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