第Ⅴ話 今日だけで何回、お腹が鳴ったっけね
「あ——また、お腹が鳴ったねー」
アカネが言った。
今度のも、ぼくじゃないけどね。
アカネもチカも、食いしん坊で、食欲ではふたりにかなわない。
本当に、びっくりするくらいの量の料理をたいらげてしまうことも、しばしばだった。
「すみません。到着しましたら、すぐにでも食事を用意させますので」
ファノンさんが、また頭を下げた。
そして、馬車は大きな公園を横切り、方向転換すると、傾斜のゆるやかな坂をあがっていった。
柵の門を抜け、綺麗に手入れされた庭の間を通って、車止めのところで、やっと停止した。
「……ここが、ウォルグレンさんの家?」
正面には、城——と言うと、大げさだけど、そう呼んでも違和感がないくらい、立派な建物があった。
ロカルノ村では、村長の家が一番大きく、それでも二階建て程度だったが、ウォルグレンさんの家は、まず確実に二階以上はあるようだった。
「こちらへ、どうぞ。お館さまが、お待ちです」
ファノンさんが先に、馬車から降りた。
地面に降りるのを、手助けしてくれる。
当然のことながら、こんなこと一度だってされたことはないので、場違いなところへやって来たのではないか、と心配になってしまう。
石畳の道に両脚をつけると、アカネがぼくの右腕を取った。
指を絡めてくる。
反対側から、馬車が停止した時に目を覚ましたチカが、腕を組んでくる。
「いつ来ても、ここの屋敷は緊張しますわ」
チカは数回、この屋敷に来ているようだけど、ぼくたちははじめてだ。
ごくり、と唾を飲み込んだ。
ファノンさんについて、邸宅へと歩いていった。
庭は、あちこちに腰ぐらいの高さの垣根ができていて、池や噴水、
午後の光を浴びて、あそこで手足を伸ばして、お昼寝をしてみたらどうなんだろう……などと思ってしまった。
アカネとチカがめちゃくっついているので、とても歩きづらい。
でも——ぼくも不安な気持ちでいっぱいだったので、ふたりの体温を感じていると、ちょっとだけ、気分が軽くなったような気もする。
庭を抜けて、そして、ぼくたちは邸宅の玄関へと向かった。
両翼は玄関よりも突き出しており、ベランダが見える。
屋上には柵が並んでいるので、歩けるようになっているみたいだ。
あそこから、空を眺めてみたら、どんな気分なんだろう。
または、都の隅々まで見渡してみたら、どうだろうか。
そんなことを考えながら、ぼくたちは歩いていった。
ファノンさんが、先に扉を開けて、待ってくれている。
「ど……どうも……」
緊張して、口のなかが乾いてしまっている。
舌で唇を濡らすと、邸宅のなかへと入った。
玄関は、かなり広く、吹き抜けとなっていた。
両側から、階段がカーブを描きながら二階へと続き、正面には絨毯が敷かれている。
玄関から、それほど離れていないところ——複雑な幾何模様が描かれた絨毯の上に、三人のメイドとふたりの老夫婦らしき人物が並んでいた。
……もしかして、ぼくたちをずっと、待っていてくれたのだろうか。
馬車で移動したのは、一時間もかかってはいないと思うけど、だとしたら、申し訳ない。
「アカネさん、チカちゃん、ジンライくん!」
夫婦のうち、お婆さんがぼくたちの名前を呼んだ。
お婆さんは失礼かな?
ウォルグレンだから、マダム・ウォルグレンか。
マダムと、その夫だろう——同じくらいの年齢の紳士が、絨毯の上をまっすぐ、近づいてくる。
「あぁ……やっと会えた」
ため息と共に、そう呟く。
そんなに、待たせてしまったのだろうか?
「ごめんなさい。ずいぶんと、待たせちゃったわね……」
「リーリア。今は——」
「えぇ……レイドリフ。そうでした。もう、こんな時間になってしまいましたね。お腹、空いているでしょう?」
これから、食事にありつける、と思うと急に、お腹が空いてきた。
メイドと、それに、ファノンさんに案内されて、ぼくたちは屋敷の奥へと向かった。
「ねー、ジンくん、チカちゃん。こんな広いところで食事するなんて、どきどきするねー」
のんびりとした口調で、アカネが言った。
こんな時でも、アカネの性格は変わらない。
どっしりしているのか、あるいは抜けているのか——ぼくには、どうにも判断がつかなかった。
が、ぼくも少しは落ち着きを取り戻してきてはいた。
大きな円卓に、ぼくたちは座らされ、食器が用意されていくのを、黙って見守っていた。
通された部屋は、かなり大きいかった。
壁際には暖炉があり、そこでは薪が燃え上がり、時々、ばちっと爆ぜている。
アカネもチカも、じっとテーブルの上の食器を眺めている。
ぼくは、ふたりがつまみ食いをしないか、ずっとどきどきとしていた。
まー、そんな失礼なことは、さすがにしないと思うけどね。
やがて、ちょっと遅い昼食の用意が整った。
テーブルに、様々な料理が並ぶ。
鶏の唐揚げ。
パンとスープ。
根菜たっぷりのパスタ。
これだけじゃないけど、ぼくが食べたことも、見たこともないような料理もある。
チカは肉料理がだめなんだけど、彼女の前には特別にサラダやサンドイッチ、ミネストローネなどが用意されている。
「今日は私たちだけ——給仕抜きで、頂きましょうか」
既に、メイドたちはテーブルに料理を並べた後、部屋から出ていってしまっている。
マナーなど気にしなくてもいい、という配慮なのかもしれない。
ぼくは、料理に手を伸ばしかけて、押し留まった。
リーリアさんとレイドリフさんが、揃って手を合わせている。
横目で覗いてみると、あの食いしん坊のアカネとチカも手を合わせているので、ぼくとしても従うしかない。
ロカルノ村では、一度だって手を合わせたことはないが、何となく、神妙な気分にはなった。
「さぁ、食べましょうか。ふふ……私もお腹が空きました」
リーリアさんが言うと、隣でレイドリフさんが頷いた。
もしかすると、ふたりはぼくたちが来るまで、同じように昼食を食べずにいたのだろうか。
老夫婦の前にも、ぼくたちと同じ料理の皿が置かれている。
てっきり、ふたりは既に昼食を終えたと思っていたのだけど。
でも——こうして、食卓を囲んでいると、ふと、アカツキやセリカ姉たちといっしょに、食事をしていた時のことを、思い出してしまう。
ふたりとも、今はもういない。
アカツキはともかく、セリカ姉とも、もう二度と会えないかもしれない——そんな気持ちが胸の底から、迫りあがってくる。
ぼくは、スプーンとフォークをしっかりと握ると、そんな思いを振り払った。
「あなたたち、お昼からずっと、鉄警団の事務所にいたのかしら」
リーリアさんが、気を使ってくれているのか、会話があんまり途切れないように、話しかけてくれていた。
もうひとりの、レイドリフさんは、逆にまったく喋っていなかった。
ふたりは、思った通り、夫婦らしい。
それにしても、なんだか姉弟と言っても通りそうなくらい、ふたりはそっくりだった。
アカネと同じような、紅葉色の髪に、褐色の瞳の持ち主だ。
年齢は、もちろん、ぼくたちより、ずっと上だろう。
聞くのも失礼だから口にはしないけど、ぼくたちにお爺さん、お婆さんがいたら、ふたりくらいの年齢と思う。
痩せていて、少し、腰が曲がっているのも同じだ。
表情は優しそうで、にこやかな笑顔を浮かべている。
茶色のベストに、黒いダブルのジャケットを羽織り、膝までのパンツに長いブーツを履いている。
刺繍もきっちりと入っていて、貴族の服らしい。
「はい。ずっと、事務所のなかに閉じ込められておりました。もしかしたら、この懐中時計が、ぼくたちのものじゃないのか、って思われたのかもしれません」
ぼくは、ふたりに懐中時計を見せた。
「あら? その時計って——少し、見せてもらってもいいかしら?」
アカネを見ると、頷き返してきた。
この雰囲気を壊したくないので、ぼくは素直にクリップを外すと、時計を渡した。
レイドリフさんは、ハンカチで懐中時計を包むと、大切そうにテーブルから持ち上げた。
胸ポケットから、メガネを取り出した。
ひとつひとつ、確認するように、時計をひっくり返したりしながら、リーリアさんにも見えるように、ぶつぶつと呟きながら、指を差したりしている。
額をくっつけるようにしているふたりを見ると、本当に夫婦というよりも、姉と弟みたいだ。
見ているぼくも、なんとなく、ほっこりとしてしまう。
十分ほど、時計に見入っていただろうか。
蓋を閉ざすと、ハンカチで時計を丁寧に拭き、それから、ぼくたちに戻してくれた。
「ごめんなさい。レイドリフは、懐中時計をコレクションしているので、デザインとか興味あるみたいなの」
リーリアさんの隣で、レイドリフさんが頷いた。
「その懐中時計って、かなり大切にされているみたいね。値打ちもそうだけど、思い入れもあるんじゃないかしら」
「そうですねー。その時計って、母が父にプレゼントしたものらしいですー。もともと、母の持ち物だったんですけど、デザインなんかも一部、新しくして、贈ったって聞いています」
「そう……ジンライくんが今は受け継いでいる、ということなのね。素晴らしいわ」
「ありがとうございます。もう、掏られたりしないように、あまり持ち歩かないようにしたいと思います」
「あらぁ、それはだめよー。父さんだって、時計はいつも、肌身離さず、身につけていたじゃない。だから、ジンくんも守ってあげなきゃ」
ぼくはクリップを付け直すと、もう一度、掌のなかの懐中時計を見た。
「……そうかな。うん、わかった」
託す、という意味からすると、それが正しいのかもしれない。
【紫紺のイーヴルアイズ】星空への階 なりちかてる @feagults
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