第Ⅳ話 託された思い

 窓からは、生温かい空気が風として、入ってきていた。

 馬車のなかは、とても座り心地がいいのに、なんだか息苦しかった。


 お昼時をすっかり逃し、ぼくたちは空腹を抱えたまま、馬車に乗り込んでいた。

 乗っているのは、ぼくとアカネとチカ——それに、ファノンさんの四人だけだった。

 乗り合い馬車ではなく、貸し切りというよりも、完全に専用の馬車だった。

 だってさ、馬車のつくりからして、違うんだからね。

 もう、びっくりだよ。


 鉄警団の事務所での聞き取りは、短時間では終らなかった。

 駅に到着したのは、お昼前で、今は午後も半ばを過ぎてしまっている。


 鉄警団の人たちは口調こそ丁寧だったが、こちらの言うことをまったく、聞いてはくれなかった。

 掏られた証拠の品である、懐中時計も持ち去られ、戻ってこなかった。


 ぼくとアカネ、チカは小さな部屋に閉じ込められ、入れ替わり、立ち替わりで部屋を訪れる鉄警団の人に起きたことの説明をしなければならなかった。

 懐中時計についても、聞かれた。

 そりゃ、そうだろう。

 懐中時計って、貴族やお金持ちの人たちが持っているようなものだからね。

 盗品の扱いで揉めて、あんな乱闘になってしまったのでは、と思われても仕方ないかも。


 でも、あの懐中時計は、ぼくとアカネにとって、大切なものだった。

 だって、アカネの父親——ぼくにとっては、育ての父だけど、アカツキとの思い出の品なんだからさ。


 紅茶を出されはしたものの、飲み尽くしてしまっても、お代わりなどはなく、朝食を食べたきりだったので、空腹は進む一方だった。

 人間——しかも、初対面の相手が苦手なチカにとって、鉄警団で待たされている時間は、辛いものだったのだろう。

 今はぼくの隣で、軽く寝息をたてている。


 このまま、ずっと解放されることもなく、懐中時計も返ってこないのではないか——そう思いかけた時、ファノンさんが現われ、解放してくれた。

 チカが既にアリアンフロッドとして王都で活躍していたことが決め手となったようだけど、ファノンさんが色々と交渉してくれたみたいだ。

 ファノンさんは、これから、ぼくたちがお世話になる、ウォルグレン家の執事、とのことだった。


 ウォルグレンさんは、セリカ姉やアカツキ、それにチカとも知り合いだったようで、ぼくたちがアリアンフロッドになりたい、と相談したら、それじゃ、こちらにいらっしゃい、お世話をしてあげるから、と声をかけてくれたのだ。

 アリアンフロッド機関の後援者でもあるみたいで、しっかりとした人物のようだ。

 ファノンさんは、駅前で待機していたようで、騒動を聞きつけて、鉄警団に問い合わせをして、そして、今から、ウォルグレン家へと向かっている、とのことだった。


 馬車のなかで、お腹がぐーと鳴った。

「ジンくん。お腹すいたねー」

「う……うん」


 今のは、ぼくのお腹の音じゃなかったな——。

 そう思いながら、ぼくはベンチに座りなおした。

 乗合馬車には数回、乗ったことがあるけど、背もたれにクッションなどなかったし、揺れも酷くて、一時間だって、じっと座ってはいられなかった。

 チカだって、ずっと眠ってなどいられないはずだ。


「いやぁ、すみません。鉄警団の方との手続きに少し、時間を取られました。申しわけありません」

 ファノンさんが、頭を下げた。

 初老の男性で、しっかりと燕尾服を着こなしている。

 白髪で、口髭を蓄えているのだけど、どっしりとしていて、本当、大人の男性という印象の方だった。

 ぼくたちにも低姿勢で、大人になるんだったら、こういう人を目指したいよね。


「あーいえ。ファノンさんには、感謝しております。こうして、馬車まで用意して頂きましたので」

「ねー、本当。あたしたちだけじゃ、絶対に迷子になっていたよねー」

 のんびりとした口調で、アカネが続けた。


「おっと……忘れるところでした。預かったままでしたので、ご返却します」

 そう言って、ファノンさんは懐中時計を取り出した。

 差し出してくる。


「ジンくん……ほらぁ、受け取ってあげないと」

「いや。でも——」

 ぼくが、持っていても、いいのだろうか。


 懐中時計は、母親からアカツキへの贈り物だったようで、ずっと大切にしていたのを、ぼくは覚えている。

 時間にルーズな父親のためだったようだけど、その性格はちっとも直らず、時間にだらしないところは、アカネにも引き継がれてしまっている。


「ねぇ……この懐中時計は、姉さんが持っといたほうがいいんじゃないかな」

 受け取りはしたものの、ぼくはすぐにはしまわず、アカネの顔を見上げた。


 懐中時計は、表面に精巧な意匠が施され、高級なものだった。

 蓋を外すと、長針と短針、秒針が現れる。

 持ち主であるアカツキがいなくなっても、しっかりと時を刻み、今でも正確に時間を指し示している。


 懐中時計なんて、ほとんどの人は持ってはいない。

 村では、正確な時間なんて、測る必要はなかったし、ぼくたちだって、そんなに時計を必要とはしていない。

 ただ、形見として、大切にしているだけだ。


「その時計は、ジンくんが父から託されたものだから。君が持っていて」

 託された——。

 その言葉がずん、とぼくの胸に響く。


 懐中時計は、セリカ姉から失踪する直前、ぼくが十六歳になり、アリアンフロッドになることを伝えた時、渡されたものだった。

 父、アカツキのように、ぼくもアリアンフロッドになりたかった。


 ——ずっと、過去のことだ。

 ぼくが小さい頃、とある事件に巻き込まれたことがあった。

 その時のことは、もう思い出すことができない。


 思い出したくないので、記憶が封じられているようだ。

 精神も肉体もずたずたにされてしまい、心を閉ざしていたぼくを、現実世界へと引き戻してくれたのが、アカネだった。


 弟のように一方的に扱い、酷い言葉を投げつけても辛抱強く話しかけ、暴れて自分を傷つけようとしたぼくを抱きしめ、いっしょに泣いてくれた。

 そうして、長い時間をかけて、ぼくの心の壁を溶かしてくれた。

 だから——ぼくは弟として、アカネを見守り、彼女がいつも笑っていられるようにしなければならない。

 きっちり、借りは返さないといけないのだ。


 いや、アカネだけじゃない。

 今、この瞬間だって、誰かが傷つけられ、苦しめられている。

 その誰かを守り、心安らかに過ごせるように、その手助けをしたい、とぼくは思っていた。


 アカツキやセリカ姉のような存在になりたい——そう伝えると、懐中時計と共に、父親からぼく宛ての手紙を渡されたのだ。

 手紙は、簡単な挨拶の後に、アリアンフロッドとなることを選んだお前に懐中時計を託す、と記されていた。


 託すとは、どういう意味だろう?

 ずっと持っていろ、ということなのか。

 時間にルーズなアカネを支えろ、とうことなら、わからないでもないけどね。


 そのアカツキは、任務の最中に、亡くなった。

 あっけない——本当に、あっさりとした死だった。

 あれほど、アリアンフロッド随一の強さを誇るアカツキが、ほんのちょっと油断しただけで、死んでしまったのだ。

 それもまた、アリアンフロッドとしての姿、ということなのだろう。


 強力な力を振るえば、その代償もまた、自分に戻ってくる。

 その覚悟はあるのか——それでもなお、アリアンフロッドになりたいのか、と告げているようにも感じられた。


 ぼくはゆっくりと息を吐き出すと、懐中時計の竜頭から伸びている鎖の先のクリップを、上衣の前立てに挟んだ。

 そして、時計は胸ポケットに収める。

 これで、懐中時計をなくすことは、ないだろう。

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