朱夏

広咲瞑

朱夏

「あーっ、あかりちゃん、また毛布したまま食べてる」

 姪の陽愛ひなに言われて、灯はばつの悪そうな顔をした――もっとも、そのような顔をするだけで、食べるのはやめなかった。口元についたシナモンロールの粉砂糖やパンくずがぽろぽろ落ちて、降り始めの雪みたいに毛布の上に落ちていく。

「だって冬だし……」という言い訳が口を突いて出る。リビングのソファの上に陣取って、膝を立てた状態で毛布に身を包めば、エアコンでも温め切れない十二月の極寒にだって余裕で耐えられる。ただし身内の目線は冷たい。

「みっともないよ、大人のくせに」

 耳に痛い言葉は聞こえなかった振りをして、毛布をギュッと自分の体に引き寄せた。

 陽愛の家は、灯が両親と住むこの家(つまり陽愛からすれば母方の実家である)からは歩いて十分くらいのところにある。実家よりもちょっとだけ中学校が近いのを口実にして、平日はここ、土日は自宅という二重生活をしている。大変そうだと灯は思うのだが、

『えー、別に? 毎日楽しいよ、旅行してるみたいで』

 などと、本人はいたってポジティブである。

『灯ちゃんもいるしね』

 おまけにこんな一言まで付け加えてくるものだから、お世辞とはわかっていても、ちょっと気恥ずかしい。

「陽愛ちゃん、その子ねえ、昔からずっとそうなのよ。もう何回言っても直らないんだから」

 キッチンから母親がやってきて、三人分の紅茶をテーブルに置くついでにお小言を飛ばしてきた。ちなみに父親は不在である。定年退職してから暇を持て余しているらしく、毎日元気に一円パチンコで暇をつぶしている。

 灯とて色々言われて何も思わないわけではない。ぬくぬくとした毛布の要塞の中で己の心身に思いを馳せる。生来偏食気味であったのが原因なのかどうか、小柄で、来年不惑を迎える中年の女にしては脂肪のない、かといってスレンダーという言葉が似合うわけでもない、言ってしまえば貧相な、年甲斐のない、仮に二十代と言われればそう見えなくもないが、どこか違和感はぬぐえない……。若く見られると言っても、いい意味ではなく、ただ年相応の経験を積んでこなかった結果、いつまでも大人になれないでいる、のようなもの……。灯は自分をそのように分析している。

 物思いにふけっていると、陽愛が隣にやってきて、こそっと灯に耳打ちした。

「で、で、例の『王子様』とはどうなの?」


「平岡さん、『鶏よし』さんとこの原稿できました。チェックいただけますか」

 黒縁眼鏡が良く似合う『王子様』こと濱口悟は、灯の同僚である。

 悟は今年の中途採用で、灯の勤め先である地元の小さな出版社に入社してきた。エントリーシートに書かれた学歴や職歴にはちょっとした名前が並んでいて、人事周りが『なんでウチにこんな人が……?』とざわついていたのを覚えている。

『皆様、初めまして、濱口と申します。出版業界は初めてで、右も左もわからない若輩者ではありますが、少しでも早く皆様のお役に立てるよう努力していきたいと思います……』

 初日の朝会で最初に姿を見たときから、なんとなく灯には引っかかるものがあった。程なく挨拶が始まり、その涼やかで聞き取りやすいバリトン声にも聞き覚えがあって、靄のかかった記憶を手繰るうち、ピンと来たのだ。

 まだ悟が話しているにも関わらず、灯は割り込んでいた。

『……?』

『え?』

 一瞬の間の後。

『……もしかして、平岡さん?』

 アットホームな職場であるが故に、その場はちょっと湧いた。

 濱口悟、旧姓結城悟は中高の同級生だった。当時灯とは特別話をする間柄ではなかったが、なぜか席が隣り合うことが多く、身の入らない授業のときなんかに左側に目を遣り、窓の外を見て物思いにふける悟の横顔を眺めながら時間をつぶすことも時々あった。

 灯は知らなかったが、当時悟は片親で、高校卒業後に親の再婚によって姓が変わったのだという。混み合った事情もわからず昔の名前で呼んでしまったことで灯は大層申し訳ない気持ちになったが、悟は笑って許してくれた。

 知り合いだったら新人教育は灯ちゃんにお願いしようか、という流れで、二人はトレーナーとトレーニーの間柄になった。最初の挨拶通り業界知識のなかった悟は、最初こそ信じられないようなポカをやらかすことがあったものの、知識の吸収が抜群に早く、あっという間に成長した。入社から8か月が経った今では、もうすぐ灯の手を離れ、単独で仕事を任せても大丈夫ではないかと思えるほどだ。

 今出してもらったタウン誌の記事もよくまとまっている。ざっと目を通して、二人で行ったインタビュー先の印象や見聞きした内容に齟齬のないことを確認すると、うん、と小さく頷いた。

「チェック終わりました。大丈夫だと思います」

「ありがとうございます」

 お礼を言うとき、悟はにこっと優しく笑う。

 その笑顔には最初から「あ、いいな」という好印象があった。やがてそこに別の感情が混ざり始めたことを灯が自覚するまでには、そう長い時間はかからなかった。


 というような話をするたびに、きゃあっ、と陽愛は歓声を上げるのだった。

 斯様に人間というのは、他人の色恋沙汰が心の底から楽しいのだ、況や多感な女子中学生に於いてをや……ということを、今になって灯はしみじみと感じている。

 陽愛はデレデレに締まりのない顔をしながら、灯のことをからかった。

「なんかもう、青春だねえ」

「どっちかと言うと、朱夏かな……?」

「しゅか?」

 灯が首を傾げながら言うのに、陽愛がまばたきを返した。

「青春、朱夏、白秋、玄冬。元々中国の、古典と言うか、五行思想だったかな……? 由来で、人生の最初から終わりを四つの季節に喩えているの。私の年になると、青春つまり春を過ぎて、夏の盛りってわけ」

「へぇ」

「いつまでも青春、なんて言う人もいるけど、多分違うよね。本当の青春真っ盛りの陽愛ひなちゃんと私を、同じ『青春』って言葉で括るのは、さすがに無理があるよ」

「いつまでも青春でいいと思うけどねぇ。でも、灯ちゃんはそこを気にするんだね」

 なるほど、なるほど、陽愛は真面目な顔で二度頷いた。

「じゃあ、改めまして」

 そして、にやにや笑って言い直した。

「朱夏だねえ」

 灯は姪をペシンとはたいた。


 連日深夜に渡る陽愛との密談(又の名をコイバナとも言う)の末、灯はある作戦を決行することと相成った。

 題して、『ボディガードのお願いついでに星空デート大作戦』。

「あの、濱口くん、今週末なんですけど、夜って時間ありますか」

「土日ですか? 多分空いてますけど」

 オフィスに人のいない時期を見計らって、灯は悟に切り出した。すぅ、と深く息を吸い、

 ――十二月中旬、今週末はふたご座流星群が見頃であり、職場近くの展望公園は街灯も少なく手軽な星空スポットである。しかし女一人で夜の公園に行くのは心細いので誰かと一緒がいい。つまりボディガードを所望しており、であるからには男性が望ましいのであるが、当然ながら既婚者に依頼するのは倫理的な問題があり、かといって若い人に頼むのもハラスメントに抵触する恐れがある、であるなら同年代の友人が選択肢としてベストなのであるがこの年に至ってそのようなものは貴石の如く稀有な存在であり無論自分にはそんな相手はおらず、つまり、その、他意はないのだが、要約するならば、一緒に星空を見ませんか。

 というようなことを一息に伝えた。

「……」

 悟は黒縁眼鏡の向こうで大きく二度まばたきをした。

「平岡さん」

「はい……」

「よっぽど星が好きなんですねえ」

 そしてにっこりと笑った。


 ……果たしてそれは脈アリの態度なのか?

 と、その場に陽愛がいれば懐疑を抱いたに違いなかったが、あいにく灯の目には王子様のすてきな笑顔しか見えていなかった。

 陽愛が事の顛末を知るのは十数分後に届いたLINEによる。浮かれまくった叔母から永遠に連投され続けるメッセージを眺めながら、陽愛が浮かべた実に味わい深い表情のことなど、送った当人は恐らく想像もしなかったことだろう。


 ★ ★ ★


 十二月十三日の夕方、悟と待ち合わせをして、大作戦が始まった。

 夕食は一緒に取ることになった。灯としては牛丼でもラーメンでもよかったのだが、陽愛の強硬な反対により、以前取材に行ったイタリアンの店を再訪することになった。料理はとてもおいしかったはずだが、灯には味の記憶がない。

 それぞれ通勤用の原付に乗って、展望公園に出発した。舗装された山道を等間隔に照らす街灯の下、バックミラーに映る悟のスクーターが後ろについてきてくれていることを、灯は何度も確かめた。

 十数分のツーリングの後、たどり着いた展望公園では、開けた夜空が広がっていた。木製の手すりの向こうには、ぼちぼち寝入り始めた街の明かりがぽつぽつと、瞼を擦るように光っていた。天文ショーを楽しみにしているであろう家族連れやカップルから離れてビニールシートを広げた後、灯と悟は一人分の間隔を開けて腰を下ろした。

 しばらく無言で夜空を見守っていると、悟がしみじみとした声で言った。

「なんだか懐かしい気持ちになります」

「懐かしい?」

「誰かとこうして星空を見上げるの、久しぶりで」

 ……どこか夢見るようなその横顔に、灯は胸がざわつくのを感じた。

 彼がその時頭の中で思い浮かべたであろう『誰か』が、自分の知らない、彼にとっての『大切な人』であることに思い至ったから。

 だって、そうでなければ、そんな表情かおはしないはずだった。それはまるで、例えるなら、甘いシナモンロールに口をつけて、ぱりぱりとしたアイシングの食感やデニッシュの香りを楽しむときの、幸福を噛み締める瞬間によく似ていた。

 胸のざわつきは少しずつ大きくなり、暗く濁って、あっという間に心臓と肺を満たすほどに膨れ上がり、灯はひととき呼吸を止めた。

 その感情に付ける名前を知らない程には、彼女は幼いわけではなく。

 その感情のあしらい方を知らないくらいには、彼女は子どもだった。

「……」

「……平岡さん?」

 突然泣き始めた灯に驚いたのか、悟が身体を向けてきた。

「どうしたんですか」

「何でもないです」

「でも」

「何でもないから!」

 拒絶の言葉を叩きつける。自分の中の浅ましい気持ちを隠し通しておきたかった。だが悟は自分の方を向いたまま、そしてまだ互いの間に一人分の距離を保ったままで、しばらく言葉を探すように押し黙った後、静かに口を開いた。

「僕、ずっと昔に、ひとつ学んだことがあって」

「……なんですか」

「『何でもない』は、何でもなくないんです。昔、馬鹿だった僕は、その言葉を真に受けたせいで、大事な人を失いました。他人の言葉は額面通りに受け取ってもいいことはないんですよ。そんなの、後悔する前に知っておくべきだったのに。だから」

「……」

「平岡さんの『何でもない』を、そのままにはできない」

 思いがけず強い言葉を向けられて灯は動揺する。

 そんなことを言われても、どうしろと言うのか。

 真剣な眼。場違いな想像が脳内を巡る。それは、もしかしてなのか?

 空回る思考の中に、ブーッ、ブーッ、という音が割り込んだ。

 ……スマートフォンの着信音。

 悟から顔を背けて画面を確認する。母親からだった。

「も、もしもし?」

『灯、あなた今どこにいるの? 全然帰ってこないから心配してるんだけど?』

「ちょ、ちょっと外に出てるだけで」

『それならそれで連絡くらい寄越しなさい! まったく、いつまでも手のかかるなんだから……』

 かっと頭に血が上った。

「私はもう子どもじゃない!」

 勢いに任せて電話を切る。画面が暗転する。灯はのろのろとした動きでスマートフォンをしまい込んだ。

 立てた膝の上に顔を埋めると、子どものような泣き声が漏れた。

「情けないなぁ」

 十二月の夜風が、濡れた頬を容赦なく打ち、切り付けるような痛みをもたらした。

「ちゃんと大人になればよかった」

 意識の中に留めておけなかった言葉が、口から零れ落ちた。

 ……青い春をすっ飛ばしたまま、朱色の夏を迎えた自分。

 土台を作らずに家を建てるような自明のアンバランス。

 自分の周囲でも周りの友人や仕事仲間が飽きるほど繰り返してきたその話に、全て聞こえない振りを続けてきた。実際興味はなかった。だがそれは単に、自身の心に向き合うことを嫌がっただけの怠慢に過ぎなかったのではないか? その証拠に、結局、自分も同じところに落ち着いてしまった。兎と亀。よりにもよって勤勉ではない亀。自分一人では完結しない、原理的に独りよがりが許されることのないその道を、歩き始めてしまった。

 結局そうなるなら、もっと早い方が良かった。

 そうすれば、こんな風に悩まなくて済んだ。

 底冷えのする身体に、温かい何かが寄り添った。

 そっと、身体を包まれる感覚がある。

 ぽんぽんと背中を叩く、優しい掌の感覚がある。

 気付けば真横に悟の顔があった。その表情は灯からは見えない。一人分の間隔はいつの間にかゼロに変わっていた。抱き締められた位置関係の上では、自分と同年代の男の、加齢でかさつき始めた黒い髪と、その中にちらほら混ざり始めた白い髪と、冬の寒さで真っ赤になった耳たぶが見えるだけだ。

「子どもじゃないです」

「……」

「平岡さんは、ちゃんと立派な大人ですから」

 表層的な慰めの言葉。

 嘘だ、と、灯は思った。

 この人は嘘が吐ける人なんだ。誰かを慰めるために、実態とは違う事柄を、別の言葉で塗りつぶせる人。そして、それが故に、他人の辛さを拭い去れる人。

 それこそがなのだろうなと、灯は、ぐちゃぐちゃに乱れた心の中で思った。

「……あ」

 悟の肩の向こう、遠い夜空に、スッと一条の光が流れた。

 周りで歓声が上がっている。目を凝らして見れば、もうひとつ。

「ね、願い事、唱えましょう」

「ええっ?」

 いきなり身体を押し退けられ、戸惑っている悟を尻目に、灯は澄み渡る夜空を見上げ、次の流れ星を探した。


 ――何か願い事をするとしたら。


 今、灯が願うのは、たったひとつのことだった。

 自分の大切な人と、末永い関係を育むために。

 どうしようもないの自分が、ちゃんと大人になれますように。


 ★ ★ ★


 夜が明けた次の日は、相変わらず嫌になるほどの寒さだった。

 リビングのソファを占拠して、毛布に包まって、灯は暖を取っている。

 ふとお腹が空いてキッチンに足を運ぶ。陽愛と母親が戸棚を検分しながら、おやつのお茶を紅茶にするかハーブティーにするかを熱心に話し合っている。どっちでもいいんじゃないかなあ、どっちも美味しいんだから……などと考えながら、灯はテーブルの上のパン籠からシナモンロールを取り出した。偏食気味の灯は子どもの頃からシナモンロールが大好きで、こればかり食べている。

 ふと、そのまま持ち去ろうとした手を止めた。

 そのまま椅子に座り、パッケージを剥いで、おいしいパン生地に歯を立てた。

「えっ……?」

 驚愕に染まったふたつの声が横から聞こえた。

「う、嘘……灯ちゃんが……」

「テーブルについて……パンを食べてるっ……」

 見ると、陽愛と母親が二人揃って目を丸くしていた。

 いや、そこまで驚くこと……?

 自分はいったい、何だと思われているのか。

「えっと……これ普通だよね……? あの、私、何か変なことしてる……?」

 あんまりにもあんまりな反応だったから、灯の方もおっかなびっくりで問いかけてしまう。何しろ自分に自信がない。青春をやり損ねたの自分は、何がなのだか、本当に全くわからないのだ。

 やがて何かに感づいたのか、気を取り直した陽愛が、「なるほどなるほど」と二度頷いた。

 そして優しく微笑みながら、まるで灯の人生の先輩であるかのような態度で言った。

「朱夏だねえ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

朱夏 広咲瞑 @t_hirosaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ