第2話:認証される朝、署名以前
シャワーを浴び、顎の髭を剃る。
それから白いワイシャツに袖を通し、スーツを着る。
個性というものを持ち合わせていない僕には、この真っ黒なスーツがよく似合っている。少なくとも、自分ではそう思っている。
洗面台の前で、鏡の中の自分を眺めてみる。
目の下には、はっきりとした隈が刻まれていた。睡眠不足というより、長い時間をかけて沈殿した疲労の痕跡だ。髪は短く刈り込まれている。それは美学の結果ではない。単に、手入れに割く時間と意識を、これ以上削りたくなかっただけだ。
かつて、僕の目にはいったい何が宿っていたのだろう。
好奇心だったか。あるいは、情熱と呼べるような何かだったか。
それとも、単なる若さという名の錯覚にすぎなかったのか。
今、鏡の中に立っているスーツ姿の男、柏木修一は、倦怠感を凝縮した塊のような存在だった。自分がそうなってしまった経緯を、思い返す気力もない。
どうでもいい思考に頭を占拠される前に、僕は視線を鏡から引き剥がす。
そして、いつものようにアパートを出て、メトロの駅へと向かう。
国家認知署名機構は、メトロ桜田門駅から徒歩一分の場所にそびえ立つ、公安局ビルの内部にある。
桜田門ビル――そう呼ばれるこの建造物は、地上三十二階、地下五階。外壁はコンクリートとガラスの複合構造で、装飾性は徹底的に排除されている。すべての窓は防弾仕様、屋上には電波妨害装置、地下には独立した発電設備まで備える念の入り様である。外部からの物理的攻撃にも、サイバー攻撃にも耐えることを前提として設計された、ひとつの要塞だった。
正面入口で虹彩スキャンが行われる。
「セキュリティ認証。柏木捜査官。公安局国家認知署名機構所属」
無機質なAIの音声が、淡々と僕を迎える。
滑らかで、抑揚もあり、人間以上に人間らしい声のはずなのに、そこには感情の手触りがない。間の取り方、微細な息遣い――すべてが精密であるがゆえに、不気味だった。
セキュリティゲートを通過すると、指紋スキャンと音声認証が続く。
そのままエレベーターに乗り込み、特別捜査部のある十五階へ向かった。
エレベーター扉が開くと、目の前には細長い廊下が伸びている。両脇には小さなオフィスが規則正しく並び、同僚たちは誰もがラップトップの画面に視線を落とし、黙々とデータを解析していた。聞こえてくるのは、キーボードを叩く乾いた音と、マウスのクリック音だけだ。それ以外の時間は、沈黙が支配している。
僕のデスクは、廊下の最奥、都心を見下ろすことができる窓際にある。陽の光を浴びることができるという意味では、同僚たちよりも健康的な職場環境かもしれない。
席に着くと、ラップトップが自動的に起動し、過剰な親切心を発揮して今日のスケジュールを表示した。
「本日の予定を確認します。午前九時、案件審査。午前十一時、部門ミーティング。午後二時……」
表示を強制終了して案件リストを開く。
監査対象となるテキストの情報が無感情なフォーマットで並んだ。
新規出版物認証申請:小説『白い鳥の記憶』
著者:高野ユキ
再審査要請:学術論文
『深層学習における意味理解の限界』
緊急案件:匿名投稿サイトでの大量テキスト流出
「緊急案件……。とはいえ、少し放置していても問題ないだろう」
そう呟きながら、僕は最初に表示された新規出版物認証申請について、著者の履歴データを確認した。
小説とカテゴライズされた『白い鳥の記憶』は、高野ユキという作家のデビュー作らしい。二十三歳の女性。東京大学文学部卒業。在学中に新人賞へ応募し、最終選考まで残るも落選。卒業後、出版社に就職するが半年で退職。現在はフリーライターとして活動中。
平凡だ。
あまりにも、平凡すぎる。
僕は原稿データをダウンロードし、約八万字に及ぶテキストを読み始めた。
アン・サインド・ナイトマーケット 星崎ゆうき @syuichiao
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