アン・サインド・ナイトマーケット
星崎ゆうき
第1話:コーヒーと灰色の朝
僕は毎朝、コーヒーを淹れながら、言葉が死んでいく音を聞いていた。それは耳に聞こえるものではない。もっと深いところで、何かが静かに腐敗していく感覚だった。
言葉という有機体が、その生命力を失い、ただの記号へと還元されていく。そんな不可逆的な変質の過程を、僕は朝になるたびに、コーヒー豆を挽きながら感じ取っている。
――豆を挽く。湯を沸かす。カップに注ぐ。この手順だけが、僕が機械ではないことを証明してくれる。
午前六時。東京の空は、いつものように灰色だった。正確には灰色ではなく、それは無色に近い真空の壁。色彩が欠落した空は色の不在ではなく、色という概念そのものが希薄になった世界の反映だったのかもしれない。
アパートは十二階建ての七階。間取りは1LDK。家賃は十二万円。独身の三十五歳男性が住むには過不足ない空間だ。
過不足ない。つまりそれは、何の個性もない。個性のなさは、柏木修一という僕そのもののことでもある。窓際に立ち、僕は街を見下ろした。
ビルの壁面には無数の認知署名マークがこびり付いているように見えた。「ヴェリタス認証済み」を意味する緑のチェックが、朝の鈍い光を受けて律儀に点滅しているからだ。デジタル広告、企業ロゴ、看板、電子掲示板——都市のあらゆる表層が、その小さな緑色の承認印に覆われている。まるで都市全体が、巨大な検証システムに接続され、リアルタイムで監視されているかのようだ。
実際、それを否定するだけの根拠も論理もない。
――二〇三八年。僕たちは「AI汚染」の時代に生きている。
その言葉を初めて聞いたのは、もう何年前だったか。記憶が曖昧だ。五年前か、七年前か。あるいは、それはもっと以前から。そう、言葉として定式化される前から既に存在していたのかもしれない。恐怖は、名前を与えられて初めて恐怖になる。それ以前には、ただの漠然とした不安と不確実性の塊。
コーヒーメーカーから立ち上る湯気を眺めながら、この湯気は、本物だろうか?としばしば考える。むろん、ばかげた問いだ。湯気に本物も偽物もない。H₂Oの気体が可視化されているだけだ。物理法則に従い、分子が運動している。それ以上でも以下でもない。
しかし、僕がこうして感じている湯気の熱は、果たして僕の脳が生成した感覚情報なのか、それとも何者かが僕の認知に干渉して生成させた幻覚なのか。その区別を、僕は証明することができない。
デカルトの悪霊。ラプラスの悪魔。水槽の脳。哲学的ゾンビ。かつて僕は、そういう思考実験を愛していた。それは文芸評論家になろうと思っていた頃の話。
大学で美学を専攻し、ベンヤミン、バルト、デリダを読み漁った。卒業論文はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』——イワンの「大審問官」における自由意志と責任の問題について、八万字を費やして書いた。指導教官は「君の文章には思想がある」と言った。その言葉が、今思えば、僕の人生における最後の肯定だったのかもしれない。
あの頃は……。
――言葉が、まだ生きていた。
言葉には重量があり、手触りがあり、確かな温度があった。ドストエフスキーの一文一文が、僕の内臓を掴んで揺さぶった。カフカの不条理が、僕の思考回路を書き換えた。プルーストの長大な文章が、時間という概念そのものを溶解させた。
言葉は確かに生きていた。
そして僕は、その生きた言葉について語ることで、自分も生きていると感じられた。しかし、いつの間にかAI時代が到来した。
正確には、AI時代は突然訪れたわけではない。それは緩やかに、しかし不可逆的に人々の生活に浸透した。最初は翻訳。次に要約。そして創作。小説、詩、評論、学術……あらゆるテクストが、AIによって生成可能になった。そして、いつしか批評という行為が、無意味になった。
誰が書いたか分からない文章を、どう評価すればいい?テクストの背後に作者がいない時、僕たちはいったい何を読んでいるというのか。
かつて、ロラン・バルトは「作者の死」を宣言した。しかしそれはある種の比喩にすぎないはずだった。作者は死んでも、テクストは生き続ける。それがバルトの主張だったはずだからだ。しかし今、テクストは実際に死につつある。なぜなら、テクストが無限に複製可能になった時、個々のテクストの固有性が失われるからだ。
僕は、批評家になれなかった。正確には、なろうとすることをやめた。そしてNCSA——国家認知署名機構——に入職した。
少なくともここでは、「敵」が明確だっただけに、心の安定を取り戻したような気がしている。AI汚染を検出し、明確に排除する。それは極めて単純な任務であり明快な正義。あるいは、そう信じたかった。
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