第3話

 「スガ君にとって私がハリネズミに見えてたっていうのはわかるわ、自覚があるの」

 彼女はため息をついて指先を見つめた。

 「たしかに、あの頃あなたにはキツく当たってたよね。自分でもわかってた。

 私ね、あなたに嫉妬してたの。あなたの才能、境遇、運の良さ、なにもかも。

 現代美術家のお母さん。そのお母さんを経済的に支援している資産家のお父さん。その両方を引き継いだ前途洋々なあなた。

 うんざりするほど恵まれてるんだもの。特にあなたの描くものにはいつも打ちのめされてた。

 せめて才能がないか、私に興味がないかどちらかならよかったのに。あなたは作品が出来るたびになぜか私に評価を求めてくる。私には絶対作り出せないような世界観を見せてくる。

 毎日が苦しくて、しんどかった。才能への嫉妬って恋愛の比じゃないのよ。そういうの感じたことないんでしょう?スガ君は。

 私は二度とあなたが絵を見せに来ないようにいつも全力を奮って辛辣に評価した。あなたが傷ついているのはわかったし、私自身も自分の言葉に返り討ちにあってた。

 そしてあの絵を見たの。絵画室に描きかけで放り出されいる針の山。スガ君はあの絵は私に見せてこなかった。そしてなぜかある日突然ピンクに塗りつぶされていた。

 私は針山の謎を解きたいと思った。あの針山こそ共感できた。でもなぜにピンクに?理解不能。

 私はスガ君がその絵の感想を求めて来るのを虎視眈々と待ったわ。珍しくね。

 だけどそれから、私の方の環境が変わったの。私は大学を辞めないといけなくなって、ソレどころじゃなくなった。

 あの絵のことがずっと気になってた。喉に刺さった小骨みたいに」

彼女は10年分の汚泥を吐き出すかのように一気に話した。それは圧倒的な質量で僕に迫った。


 「僕に嫉妬していたって、君が?」

 「そう、苦しくて心臓が焼けるかと思うほどに」

 「なんと言っていいのかな。とても意外だ」

 「私はここまで言ったのよ、ピンクのファンファーレの正体を教えてくれるわよね?」

 少年の頃の恋心をしみじみ白状するには厳しそうだけど仕方ない。

 「わかったよ。でもその前に僕の積もる話をしてもいい?ファンファーレに無関係でもないことだ」

 「わかったわ、どうぞ」

 彼女は組んだ手をほどいて椅子に背筋を伸ばした。

 「君が大学を突然辞めて、僕はとても寂しかった。せめて別れを惜しむひと時を与えてほしかった」

 「ごめんなさい、私は私で楽園から現実に引き戻されたような時期だったの、苦労もなく絵が描ける同級生たちを見ているのも辛かったの。挨拶なんてとてもじゃないけど、出来なかったの」

 「うん、それはわかるよ、恨み言じゃないんだ。

 君の評価のない制作は緊張がない代わりになんらかの脱皮を僕に促した。

知らず知らずに枷をつくっていたのかなと思ったよ。君に褒めてもらうために」

 「枷?くだらないことね」

 「うん。くだらない」

 「それで、描くことと君の存在を分けて考えるようになったんだと思う。それで、ようやく僕は君に会いに行こうと思った」

 「私に会いに?」

 「僕は輪島を訪ねた。学生課で実家の住所を聞いて。君の家はすぐにわかった。自営業をしていることは知っていたから、工場を探したらすぐに辿り着いた。

でも僕が訪れた時、君の家はもうなかったんだ。工場は閉鎖されていて、自宅は他の人が住んでいた。その人は君の行く先は知らないと言った」

 「輪島に来たのね。家がなかったとしたらもう私が漆芸の師匠に弟子入りした後のことね」

 「君がスクランブル交差点からとっくに出てどこかに歩いていったことを知って、僕も歩き出さないといけないと思った、そしてイタリアに行ったというわけ」

 「スクランブル交差点って何?」

 「要するに、タイミングを逃したんだと悟ったということだよ」

 「何のタイミング?」

 「恋を打ち明けるタイミングだよ。それがファンファーレにつながる」 

 「恋ぃ?」

 「そう、僕は君に恋をしていた。それに気がついた日に針山はピンクに」

 「ごめんなさい。急展開についていけない」

 「若気の至りとは言え、言葉にすると穴に入りたくなる。ごめん、君が思うよりずっと僕はのろまで平凡な男にすぎない」

 「針の山がピンクに染まった制作意図の答えが恋、、、」

 眉間には深い皺が刻まれた。

 告白の結果にしてはまったく芳しくない受け止められ方だろう。失望や軽蔑という、最悪の反応とも言える。これなら罵詈雑言の方がマシというものだ。

 「針の山のところで終わっておけばよかったかな。今だから言える話ということで許してほしい」

 「こう言ってはなんだけど、スガ君がそんなへなちょこだったとは、、、」

 「心外だな、へなちょこについては誰にも負けない自信があるよ」

 彼女は吹き出した。

 「まぁ、いいや。たしかに今だから聞ける話だよね。そうか、ハリネズミが紫陽花になったのか、スガ君の心象風景では」

 彼女は冷めきった珈琲をゆっくり飲んだ。喉の奥のちいさな棘を飲み込むみたいに。

 

 話し込むうちに夕闇がアトリエの隅から忍び込み、部屋の床からひたひたと水嵩を増していくように暗くなっていた。

 部屋の明かりを点けようと立ち上がった彼女にそろそろ帰るよ、と言った。

 「そう、ずいぶん話し込んじゃったね。謎を解いてくれてありがとう」

 苦笑いしながら彼女は言う。

 「スッキリできたならなによりだ。恥を打ち明けたかいもある。また、日本に帰った時には寄るよ」

 「うん、またね」

 

 ハリネズミは紫陽花に。彼女は漆芸家に。

 帰り道、疎水沿いの花野の上に星が瞬き始めていた。古い町は夕闇が都会よりもすこし深い。

 僕は気がついてしまっていた。

 彼女の使っていた無骨な珈琲カップは大学時代ゼミの仲間たちと行った信楽で僕がつくったものだ。

 絵画室で使っていたけど縁が欠けたので捨てたはずのものだった。

 それが彼女の手で拾われて欠けた縁が丁寧に修繕されて、10年の間愛用されている。

 僕の謎を解いたのに、彼女は最後まで教えなかった。

 それでいい。ハリネズミの小さな落とし物を拾っただけで、僕は。

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ハリネズミの落としもの 秋象水登/石王鈴女 @minato_aki

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