第2話
金沢は美しい街だ。
古さの残し具合にとてもセンスがある。
彼女の故郷に近いということもあるだろうけど、この街にアトリエを持つことを選んだのはとても彼女らしいと思った。
秋の草が小さな白い花を群れ咲かせる疏水沿いに二階建ての古い民家があり、そこの一階が彼女の作業場だという。
作業場の奥には六畳くらいの和室があって、今どき珍しい立派な床の間がある。
「この床の間が気に入って、ここを借りたの。借りた時は物置同然になっていたのをずいぶん手入れしたのよ」
床の間には精巧な螺鈿の塗り物が置かれている。彼女の作品なのだろう。古民家の障子から漏れる日差しが美しい陰翳を漆の上に落としている。
改めて部屋を見回すと、彼女の精緻な作品が小机や書棚に絶妙な均衡をもって並んでいる。すべてが彼女らしい。
絵を描かなくなったことをとても残念に思っていたけど、こうして古い町で彼女の漆芸を見ていると、生まれた時からこの生業に着くのが決まっていた人のように思えた。
土間の隅にある古いコンロの上で、ケトルが湯気と笛を吹いた。
彼女は流れるような所作で珈琲を淹れて、僕にはお手製らしい塗りのカップに、自分用には無骨な信楽焼のカップに注いで差し出した。カップの縁の金継が愛用のものであることがよくわかる。
繊細な作品をつくる人が意外と大胆な作風のものを好む。
「今日は遠いところまで、ありがとう」
「いいさ、積もる話もあるし。なにしろ10年分だからね」
彼女は頷いてひとくち熱い珈琲を飲み、すこし前屈みに手を組んだ。
長い批評をする時にこういう体勢を彼女がとることを思い出す。
「スガ君の積もる話の前に、私の積もる話、というか長年の謎を聞いてもいい?」
「もちろん、いいよ。なんだろう?」
僕は少し居住まいを正した。
「あなたが描いていた針山の絵を覚えてる?私が大学を辞める直前、三回生の夏休み前あたりに」彼女は言った。
無論覚えていた。
その絵は最初無彩色の重い背景に銀のトゲトゲが無数にそそり立つという絵だった。いつも彼女に製作の意見を求めていた僕はその絵だけは彼女に見せなかった。
なぜならその絵は彼女を描いたものだったからだ。
それは僕のみみっちい仕返しであり、嘆きだった。
なぜ彼女は知っているんだろう?誰にも見せていないあの絵のことを。
その絵は提出する時にはピンク色になっていたから、誰も見ていないはずだった。
「あの絵、最後に色を足したでしょう?シルバーのトゲトゲの上にピンクの飛沫を一面に重ねたでしょう?あれはどうして?」
そう言えばいつもこうだった。
彼女はまったく変わっていない。
学生の頃もこうやって、僕の中のあやふやにしておきたい生ぬるい場所を容赦なく開け放ってくる。
「えっと、もう時効だということを大前提に話を聞いてもらえるかな」
僕は観念する。
「まず、あの絵の最初の針の山なんだけど、言いにくいんだけど、あれは君なんだ。いや、君と言うよりも君から僕に向けられる言葉の積もったもの。あの頃僕は君の言葉を求めては勝手に傷ついてたんだ。連戦連敗にけっこう僕はボロボロだった」
夏休み前の前期試験明け、僕は締め切りが迫った課題を仕上げるために一人絵画室にいた。
人気のない校庭。雨が降って来た。
天気予報では100パーセントの晴れだったから傘を持ってきていなかった。
僕は降りやむまでは帰れないな、とか思いながら窓の外を見た。
絵画室の窓の下の紫陽花が色づきかけていた。鮮やかなピンクの予感がする色に。
僕は君を思い浮かべた。
絵画室の男子学生たちが流し場に行くのを面倒くさがって窓から汚れた水を捨てることを君はいつも怒っていたから。
窓の下の紫陽花は君の予言通り、アルカリ性の水を吸って鮮やかなピンク色に咲くんだろう。いいじゃないか。僕はピンク色の紫陽花も好きだ。
僕は無性に絵をピンク色に染めたくなった。
なんだか歌でも歌いたい気分だった。
紫陽花から目をあげた時、君が校庭の反対側にいるのがみえた。
君は傘も差さないで立っていた。雨の空を見上げて、まるで雨つぶの中に永遠の真理があるとでもいうみたいに。
あの日だったんだと思う。僕が自分の恋に気がついたのは。
君は黙り込んだ僕を見つめている。
針山をピンクに塗りつぶした理由を待っている。
けれど、それは10年の時を隔てた恋の告白になってしまうだろう。
少なくとも問い詰められて答える類の話にしたくはなかった。
「ピンクに塗りつぶしたのは、紫陽花がピンク色だったからかな」
「紫陽花?」
「そう、にわか雨が降った日に、紫陽花のピンクがファンファーレのように感じた。それを描いた」
「よくわからない、なんのファンファーレなの?」
「それは言わぬが花というか」
しどろもどろな僕に。
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