第1話 東京・発症(日常の崩壊)/後半
4 開かずの書斎
亡き祖父の家は、世田谷の閑静な住宅街の奥まった場所にあった。
築四十年になる洋館は、外壁を蔦(つた)に覆われ、主を失ってから時間が止まっている。
錆びついた鉄門が、油の切れた関節のような悲鳴を上げて開く。
庭は雑草に侵食され、かつて祖父が丹精込めて育てていた薔薇も、今や野生の棘(とげ)となって人を拒絶していた。
「……埃っぽいな」
僕は咳き込みもせず、重厚な玄関扉を開け放った。
カビと古紙の匂い。
それは、記憶の底にある「じいちゃんの匂い」そのものだった。
「ねえ、本当にあてはあるの?」
後ろをついてくるマホが、ハンカチで口元を押さえながら言った。
彼女の視線は落ち着きなく彷徨(さまよ)っている。まるで、この家の暗がりから何か恐ろしいものが飛び出してくると警戒しているように。
「お医者さんは『安静にしろ』って言ってたじゃない。こんな埃だらけの場所、肺に悪いよ」
「安静にして治るならそうするよ。でも、治らないんだろ?」
僕は迷わず廊下を進んだ。
目指すは一階の奥、書斎だ。
祖父、一条(いちじょう)教授は考古学者だった。しかし晩年は、「人類の進化」に関するオカルトじみた独自研究に没頭し、学会を追放された。
親戚たちは彼を「狂った」と噂したが、幼い僕だけは知っていた。
じいちゃんは狂ったんじゃない。何かを見てしまったのだと。
書斎のドアノブに手をかける。
鍵はかかっていない。
ギィィ、と重い音を立てて、禁断の領域が開かれた。
六畳ほどの空間は、知の迷宮だった。
床から天井まで届く本棚には、世界各地の神話、民俗学、植物学、そして医学の専門書が、レンガのように隙間なく詰め込まれている。
窓から差し込む西日が、空気中を舞う埃をキラキラと照らし出していた。
その光景が、僕にはふと、あの「白い胞子」が舞っているように見えて、美しいと感じた。
「……ここだ」
僕は本棚の一角、鍵のかかったガラス戸の前に立った。
子供の頃、「これだけは触るな」ときつく言われていた場所。
僕は枯れた観葉植物の鉢の下を探った。
ジャリッ、という音と共に、真鍮(しんちゅう)の小さな鍵が出てきた。じいちゃんの隠し場所は、昔から変わっていない。
カチャリ。
ガラス戸が開く。
一番奥に、それはあった。
黒い革表紙の分厚いノート。
その表紙には、金箔押しで、あの紋章が刻印されていた。
――六角形の結晶の中に描かれた、片翼の天使。
「……やっぱり」
僕は息を吐いた。
病院で見た医学書の挿絵と、完全に一致している。
じいちゃんは知っていたのだ。この病気のことを。あるいは、彼自身もまた……。
「何それ、そのマーク……」
マホが背後から覗き込む。
「『天使の菌糸』のシンボルだよ。じいちゃんの研究日誌だ」
僕はノートを手に取った。
右手で持つと、革の感触も重みも感じない。まるで空中に浮いている物体を目で見ているような、奇妙な浮遊感があった。
ページをめくる。
幾何学的な図形、見知らぬ植物のスケッチ、そして走り書きのメモ。
インクの匂いが立ち昇る。それは過去からの亡霊の吐息のようだった。
『一九九×年、X月X日。私はついに接触した。
それは病ではない。太古より眠る土着の神であり、進化の鍵だ』
『恐怖からの解放。痛みの忘却。
人間が背負った原罪――“苦痛”というシステムからの脱獄』
「脱獄、か」
僕は呟いた。
じいちゃんの筆跡は、ページが進むごとに乱れ、感情的になり、そして最後の方では逆に、機械のように整然とした文字に変わっていた。
まるで、書いている途中で「人間」が削ぎ落とされていったかのように。
「……見て、マホ。ここ」
僕はページを開いて見せた。
そこには、巨大な樹木の根が、石造りの遺跡を蛇のように締め上げているスケッチが描かれていた。
その根元に、赤いインクで印がつけられている。
『カンボジア、シェムリアップ。タ・プローム遺跡。
樹木の根が石を食らう場所。
北側の壁面の亀裂。そこに最初の“白い根”がある』
「カンボジア……?」
マホが眉をひそめた。「タ・プロームって、あの『トゥームレイダー』のロケ地になった……」
「うん。ここに『白い根』って書いてある。
この記述の前後を読む限り、じいちゃんはこの根から菌糸を採取し、その性質を研究していたようだ。
もしかしたら、ワクチンや抑制剤のヒントが隠されているかもしれない」
「……かもしれない、でしょ?」
マホがパタン、とノートを閉じた。
舞い上がった埃が、彼女の顔の前で踊る。
「カケル、冷静になって。
こんなの、おじいさんの妄想かもしれないじゃん。
学会を追放された人の、根拠のないオカルト日記を信じて海外に行くの?
それより、もっと大きな病院に行こうよ。大学病院とか、海外の専門機関とか。
セカンドオピニオンってやつよ。世界にはもっとすごい名医がいるかもしれないし……」
「マホ」
僕は静かに彼女の言葉を遮った。
「僕の指、見る?」
僕はポケットから右手を出そうとした。
包帯の下で、昨日より数ミリ広がった「白」を見せようとした。
「やめて!」
マホが鋭く叫んだ。
彼女は目を逸らした。
「見たくない。……今は、見たくない」
沈黙が落ちた。
書斎の時計が、カチ、カチ、と無機質な音を刻んでいる。
彼女は認めたくないのだ。
僕の体が、現代医学の及ばない領域に入ってしまったことを。
そして、この古びた日記という「呪い」にすがるしか、道が残されていないことを。
「……今日は帰ろう」
僕は言った。
今すぐ「行くぞ」と言い出せば、彼女の精神が崩壊してしまう気がした。
それに、僕自身も少し怖かったのかもしれない。
この部屋を出て、日常に戻った瞬間、自分が「異物」であることを再認識させられるのが。
「すぐに決める必要はないよ。仕事もあるし、準備も必要だ。
少し……様子を見よう」
それは、僕なりの妥協だった。
いや、先延ばしだ。
じわじわと広がる白斑の恐怖から目を背け、あと数日だけ「普通のサラリーマン」のふりをしていたいという、未練。
マホは小さく頷いた。
その横顔は、何か必死に「普通の解決策」を探して、脳内でシミュレーションを繰り返しているようだった。
彼女はまだ、戦おうとしている。
この理不尽な運命と。
僕は日記を鞄に入れた。
ずしりと重い。
それは希望の重さなのか、それとも絶望への招待状なのか。
祖父の家を出る時、僕はふと、足元の感覚に違和感を覚えた。
スリッパの底の感触が、右足の小指だけ希薄だった。
靴下を脱いで確かめる勇気はなかったが、おそらく「白」は、手だけでなく足からも静かに侵攻を開始しているのだろう。
まあいいか。
歩けなくなったら、その時はその時だ。這ってでも行けばいい。
痛みがないなら、膝が擦り切れても平気だろうし。
そんなことを考えながら、僕は夕暮れの街を歩き出した。
隣を歩くマホは、ずっと無言だった。
彼女と手を繋ぐことは、もう二度とないのかもしれない。
僕の右手は冷たく、彼女の左手は温かい。
その温度差が、二人の間に流れる、見えない河のように思えた。
5 灰色の日常、白いバグ
それから、一週間が過ぎた。
僕たちはまだ、東京にいた。
水曜日の午後二時。
僕はオフィスのデスクで、自分の右手を見下ろしていた。
蛍光灯の白い光が、無機質なグレーのパーティションに反射している。
周りからは、キーボードを叩く乾いた音、電話の呼び出し音、複合機が紙を吐き出す音が、不協和音のように降り注いでいた。
ここは都内の設計事務所。
僕は入社三年目のアシスタントとして、来週のコンペに向けた構造計算書を作成している――はずだった。
「……押せない」
僕は乾いた唇で呟いた。
画面上のカーソルが、チカチカと明滅している。まるで僕の無能さを嘲笑うかのように。
打ち込みたい数字はある。左手は動く。
でも、右手が動かない。
この一週間で、「白」は小指全体を完全に覆い尽くし、薬指の第二関節まで静かに、しかし確実に領土を広げていた。
見た目は美しい真珠色のグラデーションだ。
痛みはない。
だが、最大の問題は「フィードバックがない」ことだった。
エンターキーの位置が分からない。
マウスを握っても、プラスチックの感触が指先に伝わってこない。
自分の右手が、まるで他人の腕を肩からぶら下げているような、気持ちの悪い異物感。
カチャ、カチャ、ッターン!
隣の席の先輩が、凄まじい速度でタイピングをしている。
その音が、僕には自分を責め立てる銃撃音のように聞こえた。
「おい、カケル。資料まだか?」
背後から部長の野太い声がした。
「クライアント待ってんだぞ。何ぼーっとしてるんだ」
「あ、すみません、今……」
僕は慌ててマウスを動かそうとした。
その拍子に、手元にあったマグカップに、感覚のない小指が当たった。
――ガシャン。
陶器が床に落ちて砕け散った。
飲みかけのブラックコーヒーが、白い床に黒い飛沫(しぶき)を上げ、醜い染みを作る。
「あーあ、何やってんだよ!」
部長が舌打ちをした。
先輩たちが、仕事の手を止めて迷惑そうな顔でこちらを見る。
「すみません」「失礼しました」
僕は反射的に、プログラムされたロボットのように謝罪の言葉を吐き出し、床に這いつくばって破片を拾い集めた。
その時だ。
鋭利な陶器の破片が、僕の小指の付け根に深く突き刺さった。
プッ、と赤い血が出た。
そこはまだ、かろうじて人間の皮膚が残っている境界線だった。
ズキリとした鋭い痛みが脳に走る。
「……痛っ」
僕は顔をしかめた。
そして、ふと自分の右手を見た。
小指の先――完全に白化した部分は、コーヒーの黒い汚れを弾いて、蓮の葉のようにツルツルと輝いている。傷一つない。汚れ一つない。
対照的に、小指の付け根から下の「人間の肌」は、コーヒーまみれで、血が出ていて、赤く腫れていて、見るからに汚らしい。
(ああ、なんて不便なんだろう)
僕は心底そう思った。
人間である部分は、痛いし、汚れるし、脆(もろ)い。
それに比べて、この「白」はどうだ。
強くて、綺麗で、メンテナンスフリーだ。
早く、全部これになればいいのに。
そうすれば、部長に怒られても胸が痛まないし、マグカップを落としても動揺しない。
この痛みも、惨めさも、全部「無」になればいい。
「……カケル?」
部長が、床で固まっている僕を不審そうに見下ろしている。
「部長」
僕は破片を握りしめたまま、顔を上げた。
自分でも驚くほど、晴れやかで、憑き物が落ちたような笑顔だったと思う。
「僕、辞めます」
「は?」
「人間には向いてなかったみたいです。
だから、有給全部消化して、ちょっと進化してきます」
僕は唖然とする部長と、凍りついたオフィスを残し、鞄一つを持って立ち上がった。
背後で怒号が聞こえた気がしたが、自動ドアが開く電子音にかき消された。
外は雨だった。
六月の冷たい雨が、灰色の空からアスファルトを叩いている。
僕は傘もささずに歩き出した。
雨粒が顔に当たる。冷たい。
でも、右手だけは、何も感じなかった。
そこだけが、世界から切り離された「真空」だった。
その夜。
僕はマホを呼び出し、いつもの公園のベンチに座っていた。
雨は小降りになっていたが、湿った空気が二人の間にまとわりついている。
「……で、辞めてきたの?」
マホが、コンビニで買った温かい缶コーヒーを両手で包みながら言った。
「うん。勢いでね」
僕は新しい包帯を巻き直した右手を見つめた。
「でも、遅かれ早かれこうなったよ。
キーボードも打てない、箸も持てない。
このまま東京にいても、僕はただの『介護が必要な失業者』になるだけだ。マホに迷惑をかけるだけの存在になる」
「……」
マホは黙って夜空を見上げた。
街灯のオレンジ色の光が、雨に濡れた彼女のまつ毛を照らしている。
「ねえ、カケル。
あんたが言ってた『恐怖がない』って感覚、少し分かった気がする」
「え?」
「私も今、怖くないの。
将来のこととか、キャリアのこととか、世間体とか……どうでもよくなっちゃった」
マホは僕の方を向いた。
その瞳は、覚悟を決めた人間特有の、静かで、冷たい光を宿していた。
「あんたが一人で、誰も知らない場所で壊れていくのを想像する方が、よっぽど怖いの。
あんたが野垂れ死んで、その死体すら誰にも見つけられずに白い石ころになるなんて……そんなの、私が耐えられない」
彼女は自分の缶コーヒーを置き、僕の左手(まだ人間の方の手)を強く握った。
爪が食い込むほど強く。
「だから、行くわよ。カンボジア。
私の全財産と有給を賭けて、あんたの最期を見届けてやる」
「マホ……」
「ただし条件がある」
彼女の声が、震えた。
「どんなになっても、私の名前だけは忘れないで。
私の顔も、出会った頃のことも……忘れないで。
それだけ守ってくれるなら、地獄の底まで付き合ってあげる」
彼女の手は温かかった。
その熱が、左手から心臓へと伝わり、まだ僕の中に「カケル」が残っていることを教えてくれた。
でも、この温かさを、いつまで覚えていられるだろうか。
脳が白く染まるその日まで、この感触を維持できるだろうか。
「約束するよ」
僕は嘘をついた。
守れる自信なんて、これっぽっちもなかったからだ。
でも、今の僕にできるのは、その優しい嘘をつくことだけだった。
翌日、僕たちは成田空港へ向かった。
行き先はプノンペン。片道切符の旅だ。
灰色の日常を捨てて、白い絶望の世界へ。
出国審査で押されたスタンプは、僕たちにとって「人間界からの出国許可証」のように見えた。
ゲートをくぐると、窓の外には青い空が広がっていた。
僕の右手小指が、微かに疼(うず)いた気がした。
それは痛みではなく、これから始まる旅への、無邪気な歓喜のようだった。
(第1章・完)
『世界が白く溶けるまで、君と最後の謎解きを』 草薙アキラ @patkiu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。『世界が白く溶けるまで、君と最後の謎解きを』の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます