『世界が白く溶けるまで、君と最後の謎解きを』
草薙アキラ
第1話 東京・発症(日常の崩壊)/前半
第1話 東京・発症(日常の崩壊)
1 ミルクの染み
最初は、指先にミルクがついているのかと思った。
金曜日の午後八時。新宿の喧騒から二本ほど路地裏に入った、雑居ビルの三階。
長年継ぎ足されたタレの匂いと、安っぽい芳香剤、そしてサラリーマンたちの吐き出す紫煙が渾然一体となったその居酒屋は、週末特有の「解放された倦怠感」に満ちていた。
隣の席では、赤ら顔の課長らしき男が部下に説教を垂れ、向こうの席では学生グループがコールを叫んでいる。
そんな、むせ返るような「生きた人間」たちのノイズの渦中で、僕は自分の右手の小指をじっと見つめていた。
「ねえ、聞いてる? カケル」
対面の席から、不機嫌そうな声が飛んできた。
幼馴染のマホだ。
彼女は中ジョッキを両手で包むように握りしめ、上司への愚痴を一時停止して、こちらを睨んでいる。
少し吊り上がった猫のような目と、意志の強そうな眉。怒ると頬が林檎みたいに赤くなるのは、幼稚園の頃から変わらない。今日はオフィスカジュアルの白いブラウスを着ているが、袖口にはボールペンのインク汚れがついている。そういう生活感が、僕は嫌いじゃなかった。
「聞いてるよ。部長が『最近の若者は』って言いながら、スマホのフリック入力ができなくてイライラしてたって話だろ」
「そう! それで私に全部打たせるんだから。自分指が太すぎて反応しないとか言ってさ……って、またそっぽ向いて。何見てるのよ」
マホの視線が、僕の右手に落ちた。
「ああ、これ」
僕は小指を突き出した。
「なんか、汚れが落ちなくてさ」
爪の生え際あたりに、白い斑点があった。
大きさは米粒ほど。
修正液を垂らしたような、あるいはチョークの粉を擦り付けたような、マットな質感の「白」だ。
さっき、熱いお絞りで強く擦ってみた。爪でこそげ落とそうともした。だが、消えるどころか、滲(にじ)むことさえしなかった。
「修正液?」
マホが顔をしかめて覗き込む。
「あんた、また仕事中に模型用の塗料とかいじってたんでしょ。設計事務所なんだから」
「いや、今日はデスクワークだけだ。それに……」
僕は小指を、天井の裸電球にかざした。
「よく見るとさ、これ、ただの汚れじゃないんだよ」
居酒屋の薄暗い照明の下で、その「白」だけが、自ら発光しているかのように浮き上がって見えた。
汚れではない。皮膚の上に何かが付着しているのではない。
皮膚そのものが、内側から変質しているのだ。
僕は目を凝らした。
視力には自信がある。その白い領域の中には、極めて微細な、しかし秩序立った「模様」が見えた。
六角形が規則正しく並んだ、ハニカム構造のような幾何学模様。
あるいは、顕微鏡で覗いた雪の結晶が、無限に連鎖しているようなフラクタル図形。
それが、僕の小指の皮膚の表面に、レース編みのように繊細に描かれていた。
「……綺麗だろ?」
僕の口から、ふとそんな言葉が漏れた。
自分でも意外だった。
普通なら「気味が悪い」とか「病気かな」と不安になる場面だ。
けれど、僕の脳が弾き出した第一印象は、純粋な美的評価だった。
あまりにも緻密で、あまりにも無機質で、この脂ぎった汚い居酒屋には似つかわしくない「完全な白」。
まるで、泥水の中に一滴だけ落ちた、純粋なミルクのように。
「はあ?」
マホの声がワントーン低くなった。彼女はドン引きしていた。
「何言ってんの。気持ち悪いよ、それ。なんかカビみたいじゃん」
「カビかあ。カビにしては芸術点が高すぎるよ。ダ・ヴィンチが描いた設計図みたいだ」
僕は左手の爪で、その白い部分をカリカリと引っ掻いた。
――感覚がない。
爪を立てているのに、痛くも痒くもない。
触れている指先の感触はある。硬く、ひんやりとしていて、プラスチックのようだ。
だが、触れられている側の小指には、何の信号も届かない。
まるで、厚手のゴム手袋の上から触っているような、遠い隔たり。
そこだけ、僕の体であって、僕の体じゃないみたいだ。
「……ねえ、やめなよ」
マホが箸を置いた。
彼女の表情から、酔いが急速に冷めていくのが分かった。
「なんか変だよ。皮膚科行きなよ。水虫とかだったら最悪だし」
「水虫はないだろ。指だぞ」
「とにかく! 明日土曜だし、病院行ってきなさいよ。……なんか見てるとゾワゾワする。生理的に無理」
マホは自分の二の腕をさすった。鳥肌が立っているのかもしれない。
彼女の直感は鋭い。
この「白」が、ただの皮膚病ではないことを本能的に感じ取っているのだろう。
あるいは、僕がそれを「綺麗だ」と言ったことに対する、言葉にできない違和感か。
「分かったよ。念のため診てもらう」
僕は苦笑して、ジョッキに残った温(ぬる)いビールを煽った。
苦い液体が喉を通る。
炭酸の刺激と冷たさは鮮明に感じるのに、グラスの底を支えている右手の小指だけが、世界から切り取られたように「無」だった。
痛みがない。
それが、こんなにも不安なことだとは知らなかった。
いや――嘘だ。
僕は心のどこかで、まだこれを「面白い」と感じていた。
退屈な日常に、突然開いた白い穴。
自分の体が、未知の何かに書き換えられていく感覚。
マホが心配そうに僕を見ている。
その瞳に映る僕は、まだ普通の「カケル」だった。
でも、僕の中の何かが、音もなく崩れ始めているような気がした。
「ねえ、マホ」
「何よ」
「もしこれがカビだったらさ、僕、カマンベールチーズみたいになっちゃうのかな」
「バカじゃないの!」
マホは呆れて笑った。
その笑顔を見て、僕は少し安心した。
まだ、笑い話で済んでいる。
それが地獄への入り口だとも知らずに、僕はその夜、小指の白い結晶を眺めながら眠りについた。
枕元には、読みかけの歴史ミステリー小説。
明日は休日だ。病院に行ったら、またマホと映画でも見に行こう。
そんな平凡な未来予定図は、翌朝、あっけなく白紙に戻されることになる。
目が覚めると、白斑は小指の先で、ほんの数ミリだけその領土を広げていた。
2 天使の菌糸(エンジェル・マイコ)
土曜日の総合病院は、咳き込む老人と泣き叫ぶ子供たちの不協和音で満ちていた。
消毒液と、淀んだ空気の匂い。
三時間待たされた挙句、通された皮膚科の診察室は、ひどく乾燥していて、古紙の匂いがした。
「……ふむ」
担当医は、白髪混じりの髪をボサボサにした、いかにも神経質そうな初老の男だった。
彼はルーペを目に押し当て、僕の右手小指――昨日よりわずかに、数ミリだけ白斑が広がった指先――を、もう五分以上も無言で観察している。
「あの、先生。水虫ですか?」
横に付き添ってくれたマホが、痺れを切らして尋ねた。彼女は朝から一睡もしていないような顔色で、貧乏ゆすりを続けている。
医師はルーペを置き、くるりと椅子を回転させて僕たちの方を向いた。
その目は、患者を心配する医師の目ではなかった。
誰も見つけたことのない新種の昆虫を見つけた子供のような、無遠慮な好奇心と興奮に満ちていた。
「水虫? まさか。そんなありふれたものじゃないよ」
医師は机の引き出しから、古びた医学書を取り出した。背表紙の革が擦り切れた、分厚い洋書だ。
「これはね、『天使の菌糸(エンジェル・マイコ)』だ」
「天使……?」
マホが素っ頓狂な声を出す。
「通称だよ。正式名称は長すぎて誰も覚えない。
極めて稀な奇病だ。最後に出たのは十年以上前、南米の奥地だったかな」
医師は医学書のページを開き、僕に見せた。
そこには、モノクロの写真があった。
森の中で佇む「元・人間」の写真だ。
全身が白い珊瑚のような結晶に覆われている。顔の造作は消えかけているが、口元だけが、恍惚とした笑みの形で固定されていた。
「綺麗でしょう?」
医師がうっとりと囁いた。
「この菌はね、宿主を殺さないんだ。
ただ『置き換える』だけ。
皮膚を、筋肉を、そして脳細胞を……白くて硬い、美しい結晶構造へと、長い時間をかけて作り変えていく」
僕は写真の中の「彼」を見つめた。
不思議と、恐怖はなかった。
むしろ、その静謐(せいひつ)な佇まいに、ある種の憧れすら感じた。
今の僕の社会生活――満員電車、残業、人間関係の摩擦――よりも、ずっと平和で高潔に見えたからだ。
「治療法は?」
マホの声が震えていた。
「ないよ」
医師は即答した。
「進行を止める薬もない。切断しても、菌糸はすでに血流に乗って全身に回っている。
スピードには個人差があるが……君の場合、全身が『完成』するまでには半年から一年といったところかな」
「半年……死ぬんですか?」
「死ぬ、という定義によるね」
医師は淡々と言った。
「心臓は動き続ける。呼吸もし続ける。光合成すらできるようになるかもしれない。
ただ、君という『意識』は消える。
記憶も、人格も、自我も……真っ白なノイズの中に溶けていくんだ」
余命宣告ではない。「人間終了」の宣告だ。
毎日少しずつ、自分の体と心が白く塗りつぶされていく恐怖。
普通なら、ここで泣き崩れるか、医者の胸ぐらを掴むところだろう。
隣のマホはすでに顔面蒼白で、過呼吸になりかけている。
でも、僕は違った。
僕の脳内では、別の感想がポップコーンのように軽く弾けていた。
「……へえ。痛みはないんですか?」
僕が尋ねると、医師はニヤリと笑った。
「鋭いね。ないとも。それがこの病気の慈悲深いところだ。
この菌はね、まず最初に宿主の『恐怖中枢』と『痛覚神経』を麻痺させるんだ。
脳内麻薬がドバドバ出る。
だから患者は、体が動かなくなっても、指が落ちても、ニコニコ笑っていられる。
まさに天使の抱擁だよ」
「なるほど。合理的だ」
僕は感心して頷いた。
「痛くないなら、まあいいか。
最近仕事で腰が痛くて困ってたし、ちょうどいいリフレッシュになるかもしれませんね」
ガタンッ!
隣で大きな音がした。
マホが立ち上がり、椅子を蹴り倒していた。
「……ふざけないでよ!」
診察室に響き渡る絶叫だった。
マホの目からは、大粒の涙が溢れ出していた。
「何がリフレッシュよ! 何が合理的よ!
あんた、自分が何を言われたか分かってんの!?
消えるんだよ? あんたがいなくなるんだよ!?
なのに……なんでヘラヘラ笑ってんのよ!」
マホは僕の胸を拳で叩いた。
ドン、ドン、と鈍い音がする。
痛かった。
胸にはまだ、正常な神経が残っているらしい。
でも、その痛みが「悲しい」という感情に変換されない。
まるでテレビドラマのワンシーンを眺めているように、彼女の涙を冷静に分析している自分がいた。
(ああ、マホが泣いている。珍しいな。
涙の粒が光って綺麗だ。僕の指の白と同じくらいに)
「ごめん、マホ」
僕は困ったように眉を下げた。これも演技に近い。
「でもさ、泣いても治らないなら、笑ってた方がお得じゃない?」
「バカ! 大バカ!」
マホは泣きじゃくりながら、僕の右手――ほんの少しだけ白くなった右手――を両手で包み込んだ。
彼女の手は温かくて、湿っていた。
その生々しい体温が、僕の「無機質な指先」との境界線を残酷なほどはっきりと描いた。
「私が治す……絶対治すから。
あんたが笑って人間をやめようとしても、私が絶対許さないから……!」
その時、僕の視界の端で、何かがチカチカと明滅した。
幻覚ではない。
診察室の机の上に置かれた、あの古い医学書だ。
開かれたページの隅に、小さな、しかし見覚えのあるシンボルが描かれていた。
――六角形の結晶の中に描かれた、片翼の天使。
あれ?
あのマーク、どこかで見たことがある。
そうだ。死んだじいちゃんの書斎だ。
考古学者だったじいちゃんが、誰にも見せずに大事にしていた「開かずの日記帳」。その革表紙に、あれと同じ刻印があったはずだ。
僕の脳裏に、不意にインスピレーションが走った。
恐怖は麻痺しているが、好奇心だけは異常に研ぎ澄まされている。
「ねえ、先生」
僕はマホの手を握り返しながら(指先の感覚はないけれど)、医師に尋ねた。
「その医学書の続き……南米のどのあたりか、詳しく書いてありませんか?」
これが、僕たちの長い長い「終わりの始まり」への第一歩だった。
3 残酷なティータイム
総合病院の自動ドアを抜けると、そこには皮肉なほどの快晴が広がっていた。
六月の午後二時。梅雨の晴れ間から降り注ぐ日差しは、アスファルトを白く焼き、街路樹の緑を暴力的なまでに鮮やかに照らし出している。
世界は光に満ちていた。
バス停に並ぶ老人たち、横断歩道を駆け抜ける子供、スマートフォンを見ながら笑うカップル。
視界に入るすべてのものが、圧倒的な「生」のエネルギーを放ち、心臓を脈打たせている。
僕たち二人を除いて。
「……少し、座ろうか」
隣を歩くマホが、掠(かす)れた声で言った。
彼女の足取りは重く、今にもその場に崩れ落ちそうだった。ハンドバッグを持つ手は白く鬱血するほど強く握りしめられ、その爪先が震えているのが見て取れた。
「そうだね。喉も渇いたし」
僕は努めて明るく答えた。
病院の向かいにある、全国チェーンのコーヒーショップに入った。
冷房の効いた店内は、コーヒー豆の香ばしい匂いと、行き交う人々のざわめきで満ちていた。
参考書を広げて談笑する高校生グループ。
期間限定のパンケーキを撮影するインスタグラマー。
ぐずる赤ん坊をあやす母親。
そこには「死」の匂いなど一ミリもなく、あまりにも平和で、あまりにも無防備な日常があった。
「アイスコーヒー、二つ」
カウンターで注文を済ませ、窓際の席に座った。
プラスチックのカップには、すぐに結露した水滴がついた。
指先で触れる。
左手には、氷の冷たさと、濡れたプラスチックの感触が鮮明に伝わってくる。
けれど、右手はどうだ。
小指と薬指でカップを支えてみる。
――無だ。
視覚情報は「冷たい水滴がついている」と告げているのに、触覚情報は「そこには何もない」と返してくる。
脳の中で、感覚のズレが小さなノイズを生む。
だが不思議なことに、そのノイズさえも、今の僕には心地よい電子音のように感じられた。
「……ねえ」
マホがストローの袋を破りながら、俯いたまま口を開いた。
長い沈黙を破った彼女の声は、店内のBGM――軽快なジャズピアノ――にかき消されそうなほど弱々しかった。
「怖く、ないの?」
「うん」
僕は即答した。
ここで「怖いよ」と嘘をついて彼女を安心させることもできたかもしれない。でも、それは彼女に対する誠実さではない気がした。
僕はストローで氷をカラン、とかき混ぜた。
「不思議なくらい、何も感じないんだ。さっきの医者の話も、まるで他人事のニュースを聞いてるみたいだった。『へえ、南米にはそんな大変な病気があるんだなあ』って。自分の体のことなのに、スクリーンの中の出来事みたいに距離を感じる」
「……あんたのことだよ」
マホが顔を上げた。
その瞳は、泣きすぎて充血し、瞼(まぶた)は赤く腫れていた。彼女がどれほどの衝撃を受けたか、その顔を見れば一目瞭然だった。
「半年後には、あんたの意識が消えるんだよ?
私のことも、昔の思い出も、好きだった映画も、全部真っ白になって……ただの『動く彫刻』になっちゃうんだよ?
死ぬよりもひどい。自分が自分じゃなくなるなんて……それが怖くないなんて、人間として、おかしいよ」
「おかしいよね」
僕は自分の右手小指を、窓から差し込む太陽にかざしてみた。
皮膚を浸食した白い結晶構造が、ステンドグラスのように光を透かして輝く。
血管の赤みがない、透き通るような白。
それは、汚れた人間の肉体よりも、遥かに純粋で美しく見えた。
「でもさ、マホ。逆に考えてみてよ」
僕は氷が溶けていく様を眺めながら言った。
「人間って、死ぬことへの恐怖で人生の半分くらい損してると思わない?
老後の不安、病気の不安、失敗の不安。夜中にふと目覚めて、『いつか自分は消えてしまうんだ』って震える時間。
この菌は、それを全部ショートカットしてくれるんだ。
『死ぬ瞬間の恐怖』さえも、脳内麻薬で『あー、気持ちいいなあ』に変換してくれる。
これって、ある意味、人類がずっと追い求めてきた究極の救済(ハッピーエンド)じゃないかな」
ガタン。
大きな音がした。
マホが席を立ったわけではない。
彼女の手から、未開封のガムシロップが滑り落ちて、テーブルに当たった音だ。
プラスチックの容器が転がり、床に落ちる。
マホはそれを拾おうともせず、ただ僕を見つめていた。
まるで、言葉の通じない未知の生物を見るような目で。
「……何それ」
マホの声が震える。怒りではない。深い絶望の色だ。
「カケルは……そんなこと言わない」
「え?」
「昔のあんたなら、『死にたくない』って泣いたはずよ。
『怖い、助けてくれ』って、無様に取り乱して、私の手を握り返してきたはずよ。
でも……今のあんたは、笑ってる。
こんな絶望的な状況で、悟りを開いたみたいに穏やかに笑ってる」
マホは両手で顔を覆った。
指の隙間から、涙が溢れ出していた。
「それが一番怖いのよ……。
体が白くなるより、あんたの心が……私の知ってる『人間らしい弱さ』を持ったカケルが、もう死んじゃったみたいで……」
彼女の肩が揺れる。嗚咽(おえつ)が漏れる。
隣の席の高校生たちが、怪訝そうにこちらを一瞥し、すぐに興味を失ってスマホに視線を戻した。
誰も彼女に気づかない。
世界はいつも通り回っていて、僕たちだけが軌道から外れてしまった。
僕は、泣いている彼女の髪に触れようとして、右手を伸ばしかけ――そして、引っ込めた。
この白く変色した指で触れたら、彼女をもっと怖がらせてしまう。
それに、もし触れても、僕には髪の柔らかさも、彼女の体温も感じられないのだ。
それは「触れる」という行為ではなく、単なる「接触」に過ぎない。
(ああ、困ったな。慰める言葉が見つからない)
僕は冷めた目で、自分の感情をスキャンした。
悲しみ? ない。
同情? 少しあるかもしれない。
でもそれ以上に、「泣いている彼女の顔、涙の反射、窓からの逆光。この構図はフェルメールの絵画みたいで美しいな」という、冷徹な美的分析が脳の大半を占めていた。
僕の心は、もう半分以上、向こう側に行ってしまっているらしい。
このカフェの窓ガラス一枚隔てた外側には、平和な日常がある。
でも今の僕には、そのガラスが「防弾ガラス」のように分厚く、永遠に超えられない壁に見えた。
あちら側には、もう戻れない。
「……ごめんね、マホ」
僕は言った。
せめて言葉だけでも、人間らしくありたいと思って。
「僕が先に、幸せになっちゃって、ごめん」
その言葉は、どんな罵倒よりも鋭く、マホの心を抉(えぐ)ったようだった。
彼女は顔を上げた。
涙で化粧が崩れ、鼻水も出ている。
普段の彼女なら絶対に見せないような、ぐしゃぐしゃの顔。
彼女は、その顔で僕を睨みつけた。
その表情には、恐怖を超えた、ある種の「凄み」が宿っていた。
「……ふざけないで」
マホは、テーブルの紙ナプキンで乱暴に顔を拭った。
「許さない」
彼女は言った。
低い、地を這うような声だった。
「あんたが幸せに逃げるなんて、絶対に許さない。
脳みそがお花畑になって、一人で勝手に天国に行こうとしても、私が足首掴んで引きずり戻してやる。
意地でも治して……また『痛い』って泣かせてやるから」
彼女はアイスコーヒーを一気に飲み干すと、プラスチックのカップをテーブルに叩きつけた。
ベコッ、とカップが歪む。
その音が、彼女の宣戦布告の合図だった。
「行くよ。おじいさんの家」
マホは立ち上がった。
「日記があるんでしょ? 手がかりがあるんでしょ?
全部ひっくり返してでも見つけ出してやるわよ。藁(わら)でも泥でも掴んでやる」
彼女は僕の手を引くことなく、先に立って店を出て行った。
その背中は小さかったけれど、怒りに震えていて、生命力に満ち溢れていた。
僕なんかよりずっと強くて、ずっと「人間」だった。
僕は残された氷を見つめた。
少しずつ溶けていく氷。水に戻っていく境界線。
僕の時間も、こうして形を変えて、あの白い虚無へと還っていくのだろうか。
僕は空になったカップを手に取り、彼女の後を追った。
自動ドアが開くと、再び真夏の熱気が僕たちを包み込んだ。
だが、僕の右手だけは、永遠の冬の中に閉じ込められたままだった。
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