第三章 この世界は、静かに生きるためにある

 カズマは、広大な草原の中央にぽつんと立つ一本の大樹の下へ、イズミより先に辿り着いていた。

彼は気負いのない動作でその場に腰を下ろし、幹にもたれながら小さく息をつく。ようやく一息つけた、という安堵がその仕草から伝わってきた。


カズマは腰に結びつけた小さな革袋を開き、中から素朴なパンを取り出すと、迷いなくかじりついた。


数秒遅れて到着したイズミは、少し距離を置いて立ち止まり、その様子を眺めた。

そこで、ふと考える。


――自分は、空腹なのだろうか。


この世界に来てから、彼は周囲の景色や空気に意識を奪われ続けていた。

自分の身体が何を求めているのか、考える余裕すらなかったのだ。


そして、もう一つの疑問が頭をよぎる。

――もし腹が減ったとして、食べ物はどこで手に入れる?


そのとき、イズミの視線が自分の腰元に留まった。

カズマと同じような革袋が、そこに下がっている。


少し躊躇しながら、それを開くと――中には一切れのパンが入っていた。


手に取ると、思ったよりも硬い。

学校の売店で買っていた、柔らかいパンとはまるで違う。

褐色がかった表面、ざらついた感触。鼻に近づけると、小麦の香りが強く、どこか素朴で自然な匂いがした。


イズミは、ゆっくりと噛みしめるように一口かじった。


……妙な味だ。


馴染みのあるパンとは違い、少し苦味があり、乾いていて噛みにくい。

だが、噛むほどに小麦の風味が広がっていく。


そして何より――


これは、確かな「食べ物」だった。


この世界に来てから、すべてが夢のように感じられていた。

だが今、口の中にあるこの感触は、疑いようもなく現実だ。


――やっぱり、俺は本当に異世界にいるんだ。


イズミは特別な表情を浮かべることなく、淡々と食べ続けた。

だが、その様子を横目で見ていたカズマは、どこか違和感を覚えていた。


何かが違う。


カズマは昔からイズミを知っている。

だが、今のイズミの食べ方――その仕草も、表情も、どこか微妙に違って見えた。


まるで、初めてパンというものを口にした人間のような……。


しかし、カズマは深く考えず、再び自分の食事に戻った。


しばらくして、イズミが口を開く。


「……カズマ」


「ん?」


「君は……この世界を、どう思う?」


その言葉に、カズマの動きが一瞬止まった。

眉をひそめ、困惑した表情でイズミを見る。


この世界は、彼にとって生まれ育った当たり前の場所だ。

それを、今さら問われる意味が分からない。


だが、イズミの表情は真剣だった。


数秒の沈黙の後、カズマはパンを置き、幹にもたれ直す。


「……どう、って言われてもな」


彼は一度空を仰ぎ、広がる草原へと視線を戻した。


「俺がまだ行ったことのない場所が、たくさんある世界だ」


それだけだった。


あまりにも簡素な答え。


イズミはわずかに眉を寄せる。

物語やゲームの中なら、きっと王国や歴史、伝説の話が返ってきただろう。


だが、カズマの答えは――

この世界で生きてきた者の、素直な実感そのものだった。


その事実が、イズミの背筋を少しだけ冷やす。


カズマは首を傾げる。


「……で、なんで急にそんなこと聞くんだ?

さっきから、様子がおかしいぞ」


イズミは少し考え、そして静かに言った。


「俺は……ここに、来たばかりなんだ」


一瞬、空気が止まる。


カズマの目が、わずかに見開かれた。


……そして、


「はっ」


次の瞬間、彼は吹き出した。


「はははっ! 本気かよ、それ」


笑いながら肩を叩く。


「冗談にしては、随分凝ってるな。

異世界から来た、ってか?」


だが、その笑顔の奥に、微かな戸惑いがあった。


イズミは笑わない。


「俺が覚えているのは……学校にいたことだけだ」


「学校?」


「放課後、本屋で本を読んでて……気づいたら、ここにいた」


カズマは黙り込む。

冗談だと切り捨てるには、あまりにも真剣な目だった。


――確かに、おかしい。


歩き方、視線、問いかけ、そして今の話。

どれも、いつものイズミとは微妙に違う。


だが、カズマは肩をすくめて立ち上がった。


「……まあ、いいさ」


「原因は分からんが、ここで座ってても仕方ない」


「日が落ちる前に、ストーンヒルへ向かおう」


道中、再び会話が始まる。


「……その世界。『地球』だっけ?」


イズミは頷いた。


「高い建物が立ち並んでる。

あの山よりも、もっと高いものもある」


カズマは信じられないように山を見上げる。


「道も、石じゃなくて平らなものだ。

歩くより速い乗り物もある」


「……魔法は?」


「ない」


カズマは、しばらく黙っていた。


やがて、小さく頷く。


「……なるほどな」


――世界は違えど、理屈は通っている。


そんな沈黙の中、イズミはふと思った。


「……この世界、少なすぎないか?」


「人の数か?」


「そうだ」


カズマは苦笑する。


「人は、長く生きる。

俺は三百二十四歳だ」


イズミは言葉を失った。


「……冗談だろ?」


「本気だ」


そして続く言葉。


「普通は、七百年以上生きる」


その瞬間、イズミは理解した。


――この世界は、急がない世界なのだ。


時間に追われず、増えすぎることもなく。

均衡を保ち、静かに続いていく。


やがて、夕暮れが近づく。


草原を渡る風が、やさしく二人を包む。


カズマは、ぽんとイズミの肩を叩いた。


「穏やかに生きろ、イズミ」


「ネヴァーランドの創り主を信じろ」


「戻りたいなら、それもいい。

だが、進むなら……この世界は、お前を拒まない」


イズミは、静かに頷いた。


「……信じてみる」


夕焼けの中、二人は歩き続ける。


草原は、まるで呼吸するように揺れていた。


この世界は――

確かに、温かかった。

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Neverland : 異世界からの呼び声 ネヴァーランドヴァーセ @Neverlandverse_

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