第二話 目覚めた場所は、存在していた

 ゆっくりと、意識が戻ってくる。


イズミは目を開いた。

視界はまだぼやけていて、

空気は軽く、身体の下には何か柔らかな感触があった。


視線を落とすと、

朝露に冷やされた緑の草原の上に、胡坐をかいて座っている自分に気づく。


「……ここは」


声は、思ったよりも自然に零れた。


掌の下の草は冷たく、少し湿っていて、

確かに“生きている”感触があった。


何度か瞬きをする。


着ていたはずの制服は消えていた。

代わりに、濃い藍色の装飾が施された黒い外套。

軽いのに、不思議と安心感のある質感だ。

足元の靴も、見慣れない作りをしている。


——そして。


草の上に、一本の長剣が横たわっていた。


イズミは息を呑む。


朝の陽光を受けた刃は、

冷たく、鋭く、

夢だと言い逃れるには、あまりにもはっきりしすぎている。


最後の記憶が、断片的によみがえった。

古い書店。

白い本。

すべてを呑み込んだ光。


「……本屋……あの本……光……」


ゆっくりと顔を上げる。


その瞬間、

イズミの視線は、目の前の光景に釘付けになった。


どこまでも広がる青空。

春の雲のように、穏やかに流れる白い雲。

眩しすぎない、優しい太陽。


遠くには、雪を戴いた山々が連なり、

その輝きは、息をするのを忘れさせるほど静かだった。


周囲一帯は、広大な草原。

色とりどりの野花が咲き乱れ、

まるで大地そのものが、ゆっくりと微笑んでいるかのようだ。


低く飛ぶ鳥たち。

丸みを帯びたその姿は、綿毛の塊のようで、

羽毛は光の反射でようやく存在を主張する。


小さな羽ばたきが、

空気に淡い軌跡を残し、

風の音と溶け合っていく。


風が、イズミの頬を撫でた。

花と、湿った土の匂いを運びながら。


——暖かい。

——静かだ。


まるで、

世界そのものが、ゆっくり呼吸しているようだった。


「……え?」


イズミは慌てて周囲を見回す。

幻覚でも、夢でもいい。

何か、嘘の証拠を探すように。


だが、

どこにも違和感はなかった。


掌の下の草。

肌に触れる風。

息を吸い込んだとき、胸いっぱいに広がる土の香り。


……全部、本物だ。


その理解が、遅れて、そして一気に押し寄せる。


イズミは跳ね起きた。


「ええええええええっ!?」


叫び声が草原に響き渡り、

鳥たちが一斉に飛び立った。


「……すご……」


思わず、呟く。


あまりの美しさに、

頭の中が追いつかない。


「これ……

異世界……!?」


頬を、思い切り抓る。


「いっ……!」


痛みは、はっきりしていた。


——そのとき。


肩に、軽い感触。


反射的に振り向く。


そこに立っていたのは、

白い髪の青年だった。


赤い装飾の入った白い外套。

腰には、細身の刀。

太陽の下で、白銀の髪が静かに光っている。


赤い瞳は澄んでいて、

どこか落ち着いていた。


青年は、微笑む。


「すごい声だな。

初めて見る景色にでも出会ったみたいだ」


「鳥が驚いてるぞ」


イズミは、無言で身構えた。


誰だ。

この世界の人間なのか。


服装。

剣。

そして、この異様な落ち着き。


問いかける前に、

青年はもう前を向いていた。


「さて。休憩は終わりだ」


「暗くなる前に着かないと」


そう言って、彼は歩き出す。


——待て。


イズミはその場に立ち尽くした。


この青年は、

自分を知っている。

少なくとも、“この身体”を。


足元に視線を落とす。

剣が、まだそこにあった。


なぜか、

持たなければならない気がした。


柄を握る。


重い。

だが、不思議と手に馴染む。


身体が、

いつもより軽く、強く感じられた。


「……俺は……

本当に、俺なのか……?」


深く息を吸う。


立ち止まっていても、答えは出ない。


イズミは剣を手に取り、

白髪の青年の後を追った。


草原を進む。


一歩一歩が、確かだ。

地面の感触。

草の擦れる音。

風の冷たさ。


すべてが、現実だった。


これは、夢には近すぎる。

ゲームには、静かすぎる。


「……転生……?」


小さく呟き、

すぐに首を振る。


違う。

自分は、死んでいない。


なら、これは何だ。


メニューも、画面も、境界線もない。

ただ、世界がそこにある。


心の中で、何かを呼んでみる。


——何も起きない。


イズミは小さく息を吐いた。


前を見る。


白髪の青年は、迷いなく歩いている。

腰の刀が、陽を受けて静かに光っていた。


自分の剣を見る。


「……なんで、俺にも剣があるんだ……」


背中に違和感。


振り返ると、

そこには、鞘があった。


最初から、そこにあったかのように。


慎重に剣を収める。

小さな音がして、ぴたりと収まった。


——合いすぎる。


剣は、もう身体の一部のようだった。


歩き続ける。


時間が流れる。


最初は退屈だった。

だが、次第に“見えてくる”。


揺れる草原。

山の麓に広がる森。

そして、壁のようにそびえ立つ巨大な山。


頂は、雲に隠れている。


イズミは、喉を鳴らした。


怖いのではない。

ただ、

この世界は、一度に理解できるほど小さくなかった。


美しさは、やがて単調になる。

それは、飽きではなく、

広さが変わらないからだ。


歩調を緩める。


「……なあ」


意を決して、声をかけた。


「名前、聞いてもいいか」


青年は、短く振り返る。


「カズマ」


「……どこへ行く」


「ストーンヒル」


聞き慣れない地名。


「あと、どれくらいだ」


カズマは、軽く息を吐いた。


「もうすぐだろ。

……忘れたのか?」


イズミは立ち止まった。


「……どういう意味だ」


カズマは、小さく笑う。


「冗談きついな」


——限界だった。


「本当に、何も分からないんだ!」


イズミが肩を押すと、

カズマはよろけて、また笑った。


拳を握る。


彼にとっては、何もおかしくない。

だが、イズミにとっては、

すべてが、ズレている。


「行こう」


カズマは、あっさり言った。


「昼にしよう」


イズミは、息を吐いて従った。


空は高く、澄んでいる。

太陽は真上にあるのに、暑さはない。

風は、終始やさしかった。


——この世界は、

妙なほど、居心地がいい。


遠くの大樹へ向かって、

カズマは歩く。


イズミは、歩調を早めた。

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